(5)

 ルビーの懐妊に邸の中には華やいだ空気が流れていた。顕著なのは父親になるレナルドである。次の日にはさっそく邸の中にナーサリーを作り、ベビーベッドに玩具にとあらゆるもの揃え始めたのであった。これから子煩悩になる姿が容易に想像できてルビーはほほえましい気持ちになる。


 言い方は厭らしいが、レナルドとの子供を身ごもったことでルビーは無意識の内に彼を「モノにした」と思った。このがあれば、きっと己はレナルドのそばにあり続けられると、ルビーは希望を抱いたのである。


 そんな心境の変化が訪れたことでルビーは多少ふてぶてしくなった。ルビーが妊娠したことでオパールが気も狂わんばかりになっていることを察し、あれやこれやとルビーの部屋を訪れようとする妹をかわすようになったのだ。無論、悪態をつく隙も出来るだけ与えず、「安定期に入るまで」と言って自室で悠々自適の生活を送る。


 今までルビーはなんだかんだとオパールを見放したことはなかった。たとえそこに好感情がなくとも、彼女を諌めるという行いを持ってして、ルビーはある意味ではだれよりもきちんとオパールを見ていた。


 だが、ルビーはそれをやめた。もはや、そうする意味を見いだせなかった。ルビーはオパールの姉ではあるが、同時にレナルドの妻でありそして彼との子の母になる。オパールと向き合う時間は、無駄と言って良かった。


 オパールにはそれが腹立たしくて仕方がない。自分よりも劣っていると信じて疑わなかった姉が、己よりも先に、それもたいそうな金満家に嫁いで身ごもったという事実は、オパールのプライドをひどく傷つけた。


 オパールの価値観に照らし合わせて見れば、ルビーはまぎれもない人生の勝者であり、片や己は二十歳に差しかかろうと言うのに、未だ結婚する気配がない。それは彼女にとって耐え難い現実であった。


 姉が自分よりも幸せになることに彼女は耐えられなかった。


 だから、オパールは壊してしまおうと思ったのだ。


 散々引っ掻き回してやると。ぼろぼろになってしまえばいいと思ったのだ。


 それがどんな結末を引き起こすか、オパールの貧相な知能では辿り着くことが出来なかったことは、ふたりにとっての不幸だった。



 *



 ルビーはオパールを無視した。なにを言われようとも涼しい――オパールいわく「生意気な、お高くとまって澄ました」――顔でいた。反応するから妹を助長させてしまうのだと、ルビーはここに来てようやく理解したのである。


 それでも平静を保つのは難しい。子を身ごもったことでなおさらルビーの精神は不可避の不安定さを獲得してしまった。そこに加えてルビーの元から抱いている嫉妬心が加わり、実のところ以前よりも破壊的な衝動に見舞われることになったのである。


 そして頭では理解していても、妊娠したことで褥を共に出来ないことはルビーにとって辛かった。妻が妊娠しているあいだに浮気する夫、という話は残念ながら珍しいものではない。そこにレナルドが当てはまるとは思っていなかったが、それでも不安で仕方がなかった。


 魔が差す、という言葉もある。だからなにかがまかり間違って起きてしまうかもしれないと、そんな風に思ってしまうのだ。


 そして思考のもう一方では、ルビーはそんな自分に嫌気が差していた。妬心を抱くということは、つまり己はレナルドを信用していないのである。あんなにも優しく心を砕いて、愛をささやいてくれる夫を、ルビーは疑心の目で見ているのだ。それはほとんど裏切りと言っても良かった。


 けれどもいくら心の中で問答を繰り返したとて、ルビーは妬心を消すことができなかった。業火のごとく燃え盛る嫉妬の炎は、変わらず彼女の中にあるのであった。



 その晩、小間使いを下がらせたルビーはひとり自室で物思いにふけっていた。彼女の脳裏を支配するのはレナルドのことである。今日はパーティーだと言って夕方頃に一度帰宅したあと、すぐにまた出かけてしまった。


「パーティー」はルビーの嫌いな単語である。なまじ足が健常だった頃にどんな場所であるかを知っているぶん、生々しく場面が描けてしまうのは彼女にとって不幸な話だった。


 自分にはあまり縁のない華やかな場所だとルビーは思っていたが、本当に一切の縁がなくなってしまうとは思いもよらなかった。


 虚飾と虚栄と諂笑てんしょうに溢れた場所で、他人ひとはときに一夜の情事に身を任せる。ルビーはそんな場所が嫌で嫌で仕方がない。


 けれども「行かないで」などとは到底言えなかった。レナルドが商売をする上でもそういった場に出るのは必要だと、わかっている。だから幼稚な感情を発露させ、夫を煩わせることなど出来なかった。口の端に上らせることすら、ルビーには出来なかった。


 ひとたび口にしてしまえばきっと止まらないだろう。それを理解していたから、ルビーは貝のように固く口を閉じるのである。


「だれ?」


 扉が叩かれ、ルビーは思案の淵から舞い戻る。しかし続いて聞こえた声に体を強張らせた。


「お姉様、わたしよ」


 扉越しのくぐもった猫撫で声は、今や鳥肌が立つほどに忌々しい。ルビーは柔らかなソファから立つこともせず、「今日はもう遅いから明日にしてちょうだい」とオパールを追い返す。


 けれどもオパールはそんな言葉を無視して不躾にも姉の部屋へと侵入した。その姿を見てルビーは少々驚く。


 気に入りの、藍色の夜会服に身をつつみケープを羽織ったオパールは、すぐにでも外出すると言った身なりである。それに気づいたルビーはわずかに顔をしかめた。


「こんな時間にどこかへ出かける気?」


 しかしルビーの批難をにじませた声に、オパールはにやにやと厭らしい笑みを浮かべるばかりだ。その表情がルビーの神経を逆撫でする。思わず怒鳴りつけたいほどに、今のルビーにとってオパールの存在そのものが疎ましかった。


 オパールはルビーの予想に反してこれまで確認出来る限りで夜遊びはしていなかった。だがまるでその穴を埋めるかのようにレナルドへ媚びるので、ルビーにはどうにも不満で仕方がない。何度言い聞かせてもオパールは耳を貸さないものだから、最後には見放したのは前述した通りである。


 だが無視を決め込んだとて妻として業腹であることに違いはない。だからルビーはオパールには早くこの邸から出て行って欲しかった。けれどもそれは両親が許さない。彼らはむしろ長女夫婦が次女の面倒を見てくれることを期待している風であった。


 今まで碌な愛情を向けなかった娘に役割を期待する両親の姿は、厚かましいと言うよりほかない。我が子を腹に宿した身となって改めて両親の身勝手さを思い知ったルビーは、昇華しようのない黒い感情を溜め込んでいた。


「入室は許可してないわ」

「え~? 追い出してもいいの?」


 オパールの挑発に乗る気はさらさらなかったが、かと言ってこのまま放っておいても帰ってくれそうにはない。その事実にルビーは密かにため息をついた。


「……用件があるなら早く言って。もう夜も遅いんだから」

「あのさあ、あたしに出て行って欲しいんでしょ?」

「……いったいなに?」

「出て行ってあげてもいいよ」


 オパールの表情は穏やかさには程遠い、狡猾な色合いを含んでいた。そうであるからルビーは警戒したまま目の前にいる妹を観察する。


「その指輪くれたら出て行ってあげてもいいよ」


 オパールの口から飛び出したのは、ルビーにはとうてい了承出来ない提案だった。ルビーは思わず紅玉の結婚指輪を隠すように自らの左手に右手を重ねた。


「無理よ。これはレナルドから貰ったものだもの」

「また貰えばいいじゃん」

「これは代えの利くものじゃないの。あなたにはわからないかもしれないけれど――」


 ルビーのその言い草に、オパールはカチンと来た。


「別にいいじゃん! なにが悪いの?」

「いいとか悪いとか、そういう話の前に――」

「嫉妬するのはやめてよ! だいたいアンタはいっつもそう! フツーなら妹と義兄が仲良くなれるようにするもんでしょ? 本当に気が利かないんだから」

「そんなの聞いたこともないわ。どこの国の常識を語っているつもりなの?」


 いつになく辛辣なルビーの言葉にオパールは目を丸くする。


 実のところ常識をわきまえず子供のまま成長してしまったオパールでは、きちんと年を重ねて生きて来たルビーには口では勝てないのだということが、このとき初めて露呈したのである。


 オパールは生来からの勘の良さで己の不利を直感した。けれども彼女のプライドがそれを認められない。いつだってオパールにとって姉のルビーは格下の存在であった。だからオパールがこうやって嫌がらせをしたときは、ルビーは必ず大いに傷つけられて閉口しなければならないのだ。そういう方程式がオパールの頭の中では出来上がっていたから、彼女は己の負けを認められなかった。


「嫉妬するのはやめてって言ってるじゃない!」

「貴女のような人間に嫉妬なんてしないわ」

「そうやって言い返すのが嫉妬してる証拠! 嫉妬するなんて器が小さい! あたしは妹なんだから指輪くらいくれたっていいでしょ!」

「だから、そんな常識は聞いたことがないと言っているでしょう。姉の資産を妹に譲る当然の常識なんてどこで覚えて来たの?」

「あたしにそんなこと言っていいと思ってるの?!」

「どうして言ってはいけないの?」


 オパールの体は怒りに震えていた。一方のルビーは、その場に突っ立ったままのオパールとは対照的にソファに腰かけたまま、なんの感情もない目で妹を見ていた。


「……これからあたし出かけるのよ」

「レナルドの顔に泥を塗る気? いい加減、品のない振る舞いは慎みなさい」

「あの男のところに行くの。――わかるでしょう? 孕んだ女は女じゃないんだから――」


 顔を引きつらせながら必死で姉を蹴落とそうとするオパールであったが、ルビーはため息ひとつでその言葉を切って見せた。


「嘘ね」

「意地張るのはやめたら? 不細工なアンタよりあたしの方がいいってみんな言うのよ?」

「『みんな』、ね。その皆様の中にレナルドはいないのだから、わたしはどう言われても構わないわ」

「ハア? 入ってるに決まってるじゃん!」

「いい加減、稚拙な嘘はやめたらどう?」

「嘘じゃないって言ってるの! 羨ましいからって事実を受け入れられないのは醜いよ?!」

「――羨ましがっているのは、貴女の方でしょう?」


 ルビーはじっとオパールの目を見据えた。


「貴女はわたしのことを夫しか知らないと言うけれども、複数の男を知っていることは誇るべきことではないのよ。その方たちの中で、貴女が夢中になった相手は貴女と生涯を添い遂げることを真剣に考えてくれたかしら? ――どうしたの? 顔が赤いわよ。……ああ、やっぱりいなかったのね。貴女に一緒になりたがった方は思い詰めて犯罪に走るような下劣な方くらいですものね。だから早く目を覚ましなさい。貴女は男を手玉に取っているつもりでしょうけれども、現実は違うのよ。貴女は恋愛上手を気取って不誠実な男を相手に若さを浪費しているだけ。自身の誠実さを持って交際してはくれない男性の数を誇ったところで、なんの自慢にもなっていないことに気づきなさい」


 それは姉から妹への餞別であった。だれもが思いながらも決して口にはしなかった真実。けれどもそれを突然つきつけられたオパールが、受け入れられるはずもなかった。彼女の中の方程式では、姉は劣った存在なのである。自分よりも優れた地位も頭脳も資産も、持っているはずがないのである。


 だが、現実は違う。オパールは肌でそれを感じ始めていた。


 オパールを溺愛していたくせに今さらになって持て余し、よそよそしくなった両親。義妹であるというのに決して心を開こうとはしないレナルド。オパールに愛をささやきながら、その実本気の恋心など抱いてはいない男たち。――もはや、オパールにとって都合の良い存在ではなくなったルビー。


 オパールは自分の世界が崩れて行くのを感じた。そうして理不尽な怒りを抱いた。同じ日に生まれた姉妹なのに、どうしてルビーと自分はこんなにもたがってしまったのか――。


 その道理のない怒りは目の前のルビーへと向かう。磨き上げられたハイヒールを履いた足を振り上げて、オパールはルビーの腹を蹴ろうとした。けれどもその白い足首はルビーにつかまれ、バランスを失ったオパールは転倒する。


「いたいっ! ――ちょっと、なにすんのよ?!」


 自らがしようとした、筆舌に尽くしがたい卑劣な行いを棚に上げ、絨毯に肘をついたままオパールはソファに座る姉を見た。ルビーは夜の闇を受けて黒くなった瞳で、オパールを見下ろしていた。まるで人形のような双眸に、オパールが映っていた。


「なんなのよ、みんなしてあたしを虐めて! 恥ずかしいと思わないの?!」


 威勢良く利己的な言葉を口にしたオパールだったが、その声は震えていた。怒りと――恐怖で。


 その日、オパールは生まれて初めてルビーが恐ろしいと思ったのである。


「――恥ずべきなのは、だれかしら?」


 まるで聞きわけのない幼子へ言い聞かせるかのような、ゆっくりとした口調でルビーはそう言った。そうしてから左手で杖をついてルビーはソファからおもむろに立ち上がる。まるで幽鬼のような立ち姿のルビーに見下ろされたオパールは、尻もちをついたまま無様な姿で後退する。


「……もう夜も遅いのよ。部屋に帰りなさい。わたしが送って行ってあげるから」


 先ほどとの雰囲気とは一転して、ルビーはオパールを立ち上がらせる。オパールは姉の言葉に是とも否とも答えることはなかった。けれども抵抗する気力はもはや残っていないのか、ルビーの言われるがまま、彼女の自室をあとにする。


 廊下に出たオパールを、ルビーは監視でもするかのように一歩下がってついて行く。オパールは無言のまま粛々と暗い廊下を進んで行ったが、一歩二歩と行く内にふつふつと怒りが込み上げて来るのを感じた。


 どうして自分が姉に説教をされなければいけないのか。オパールは自らが演じた失態に、地団駄踏みそうなほど怒り狂う。


「もう階段ね。ここまでにするわ」


 足を引きずるルビーにとって階段の昇降は難儀な動作であった。だからオパールが大広間に続く階段に差しかかってそう言ったのである。しかし怒り心頭のオパールは離れに帰る前に一矢を報いてやろうと振り返った。


 そこにはルビーが立っていた。後ろからついて来たのだから、当たり前である。しかしルビーが立っている位置は――オパールからあまりにも近い。


 ルビーはどこまでも落ちて行けそうな、奈落のような暗い瞳でオパールを見ていた。オパールがなにか言おうと口を開くが、それよりも前にルビーの右手がオパールの肩を押す。


 態勢を崩したオパールはたたらを踏むが、すぐにその足はルビーの持つ杖をしたたかに打ちつけられ、あっという間に膂力を失った。

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