インモラルセンス

やなぎ怜

(1)

 ――冷たい、と思った。


 しかしその感覚はすぐさま脳髄を突き上げるような痛苦の奔流にのみ込まれる。


 中途半端に見開かれたルビーの淡褐色の瞳ヘーゼルアイに映るのは見知らぬ男の姿。


「オパール」


 男の薄い唇からうめくように吐き出されたのは間違えようもなく、ルビーの双子の妹の名であった。


 ――わたしはオパールじゃない。


 冷めた脳の芯で乾いた感情がそんな言葉を浮かばせるものの、すでにルビーの意識の半分は強烈な痛みに持って行かれていた。手の先がしびれ、波が引くように冷えて行く感覚。男の手に納まった、鈍く光るナイフの先端はルビーの鮮血に濡れている。


 男はなにかに取り憑かれたかのようにナイフの切っ先をルビーに振り下ろす。そのたびに焼けるような痛みがルビーを襲い、大粒の涙をまなじりから零れさせた。


 痛みを耐えるために唇はきつく結ばれて、悲鳴を上げる余裕もない。それでも気がつけばどこからか自分のものではない甲高い叫び声が響いて来て、そのうちにルビーと男は多くの人々に囲まれた。


 そうしてやっとルビーは凶刃から逃れることができたのだが、そのときにはすでに、彼女は永遠に不具となることが決定されていた。



 *



 オパールの、彼女が持て余すほど多くの遊び相手のひとりに「人違い」で刺されたルビーは、幸いなことにその命までもを奪われることはなかった。しかしその右脚は神経を害された後遺症でまともに動かすことができなくなった。これはルビーにとって、とても辛いことであった。


 だが元凶たる妹のオパールは申し訳なさげにするでもなく、謝罪をするということすら頭になく、足を引きずる姉を見て「みっともない」と嘲笑するのだ。


「いやだ、こんなのが身内にできちゃうなんて――。これであたしの婚期が遅れたらどうしてくれるの?」


 オパールは恥ずかしげもなくそうやってルビーをそしることすらした。


 ルビーと同じ年、同じ日に生まれながらこのオパールという妹はとことん姉を見下している。


 たしかにオパールと比べればルビーはパッとしない女であった。顔こそ姉妹であるから似ているにしても、ルビーは流行りの化粧なぞしないし、パーティーでワルツを共にした男とベッドに入ったりなどしなかった。それどころか当年十八になるルビーは未だに男を知らない。


 社交的で世渡りの上手いオパールからすると、ルビーという女はとことんのろまな嘲りの対象であったのだ。


 ルビーにとってそれは苦痛ではあったが、もはや慣れてしまった日常の一部でもあった。つまり常に他人を見下していなければ気の済まない妹の相手はお手の物ということである。


 それでも足の障害について嘲笑われるのは辛かった。オパールばかり可愛がる両親はルビーを心配するそぶりも見せず、むしろオパールに倣ってルビーを厄介者扱いしだす始末である。


 そんな、鬱々とした日々からルビーをすくい上げてくれたのがレナルドであった。


 レナルドは南の城塞都市に本店を構える大商家の跡取りで、いわゆる若旦那というやつである。年はルビーより十五も上の三十三歳。砂色の髪に灰色がかった碧眼の持ち主で、いかにも人当たりのよさそうな、柔和な笑顔が印象的な男だ。


 話はよくあるものである。中流階級の成金が、貧乏な上流階級の娘を貰って家格に箔をつける――そういう段取りのもと、貧乏男爵家であるルビーの家に縁談は持ち込まれた。


 持参金は用意しなくてもよいというレナルド側の話もあって、ルビーの両親はすぐさまその縁談に飛びついた。無論、レナルドに紹介する娘はルビーではなくオパールだ。長女であるルビーには、ゆくゆくは婿を取り後を継いでもらう、というのが彼女らの両親の計画プランであった。


 十八になりそろそろ腰を落ち着けなければならないと思っていたオパールにとっても、その話はまたとない僥倖であった。おまけに相手は大商家の跡取り。嫁入りすれば贅沢し放題だと――実際にどうであるかはおいておくとしても――オパールは両親と共に浮かれていた。


 そこに水を差したのもまた、レナルドだ。


 ルビーとオパールの両親はたかが平民、とレナルドを侮っているふしがあった。つまりは、どんな人間であれ、貴族の令嬢ならば諸手を挙げて歓迎してくれるだろうと、そう浅はかな考えを抱いていたのである。


 だがレナルドはそんな考えを埃でも掃くかのように捨てた。レナルドが求めたのはオパールではなくルビーだったのだ。


 困惑するふたりの両親の前に出されたのは、オパールの身辺調査書である。要はふしだらで金にだらしのない女は妻にふさわしくないと、レナルドはオパールを突き返したのだ。


 両親はやむなくルビーを妻にするという結婚誓約書を受け入れた。


「なんであたしじゃないの!」


 その後のオパールは意気地のない両親を罵り、大いに荒れた。その怒りの矛先は当然ながらルビーにも向けられたが、レナルドの決定を覆すという選択肢は、もとよりないに等しい。


 じきにオパールはレナルドは自分にはふさわしくないと宣言して、前にもまして男遊びに精を出すようになった。


 自らが選ばれたことで、ルビーが優越感を覚えることはなかった。消去法で選ばれたその決定に、喜びを見出すことはできなかったのだ。


 それよりもルビーは不安でいっぱいだった。


「わたしは、面白い女ではありません」


 結婚を目前に控え、婚礼の衣装を仕立てるためにレナルドがルビーの実家を訪れたときのことである。採寸を終えた仕立屋が部屋を辞したあと、ルビーはレナルドにそう言った。


 レナルドは垂れ目がちの目をわずかに見開いたあと、まるでルビーをなだめすかすかのように微笑みを浮かべた。


「私は、夫婦生活に面白さは求めていません」

「でも、わたしは人づきあいも苦手です。商家の妻が……いえ、まずはひとりの男性の妻として、務めを果たせるのかわかりません」


 ルビーは言いながら、泣き出しそうになった。情けないことを言っているのは百も承知である。それでも口にせずにはいられなかった。最初から相手にされないことよりも、幻滅されることの方が何倍も恐ろしかったのだ。


「……夫婦と言うものは突然なれるものではないと思います。もちろん、神前で誓いを立てればふたりは夫婦になれます。けれども実際はふたりの生活の中で、一歩一歩夫婦になっていくものだと、わたしは思います」


 レナルドの話はルビーには聞いたこともない価値観であった。


 ルビーの念頭にあったのは、「初めから完璧でなければならない」という一種の強迫的な観念である。それは長い生活の中で培われた思考回路であった。


 世渡りの上手いオパールは不出来でも許されたが、愛嬌のないルビーは一度ひとたび失敗すれば冷たい視線を浴びせかけられる。その視線から逃れたい一心で、ルビーはいつも、なにごとをも完璧にこなす必要があった。


 だけれども、レナルドはそうではなくていいと言う。


「だれだって最初は初心者なのですから、そう気負わなくて大丈夫ですよ。大事なのは学んで行くこと、そしてその姿勢です。私は、そうやって先のことを考えられる貴女なら大丈夫だと、そう思っています」


 ルビーにとって、それは初めての感覚だった。それが恋の萌芽だと気づくのは、もう少しあとの話である。


 レナルドとの結婚はルビーの人生において大きな転換点となった。ルビーは実家という呪縛を解かれ、自分に無関心な両親と、常に姉を罵ることしか考えていない妹から離れることができたのだ。


 そこでルビーは初めて心の安息を得ることができた。ルビーの実家よりもずっと多くいるレナルドの家の使用人たちは、彼女を下にも置かない態度で、そこでは大っぴらにルビーをさげすむ人間はいなかった。


 そうした穏やかな生活の中で、ルビーは夫となったレナルドに恋をした。それは当然の帰結でもあった。


 レナルドはいつだって年下の妻を可愛がり、結婚という目的を果たしたあともルビーをないがしろにすることはなかった。ルビーが実家では与えられることのなかった様々なものを与え、激務の合間のささやかな休暇さえをも彼女と過ごす時間に当ててくれる。


 ルビーにとってこんな風に大切に扱われることは初めてで、当初は戸惑いの方が大きかった。だがそれもやがて激しい恋情へと変わる。


 レナルドの妻になって、ルビーは初めて人並みの幸福を手に入れたのだ。



 *



 小間使いが馬車が帰って来たことをルビーに告げる。ルビーはレースを編む針を止めて、全身鏡の前に立つとさっと身だしなみを整える。そうして急いで玄関ホールへと向かうのだ。


 左手で杖をついて、動かない足を引きずり行くのは楽とは言いがたいが、結婚してからルビーはこの習慣を欠かしたことはない。


「ただいま、ルビー」


 一分の隙もないスーツを見にまとったレナルドは、出迎えの妻を軽く抱きしめる。ルビーもそれに応えるが、その動きは結婚して一年が経とうとする今でもどこかぎこちがない。これでも、最初に比べてずいぶんと自然な動きができるようになった方なのだが。


「今日はランの鉢植えを貰ってね。覚えてるかい? マクリーン商会のナディーン嬢から新種を頂いたんだけれども……」


 そう言ってレナルドは庭師を呼び寄せてわざわざルビーにランの鉢植えを見せてやる。唇弁しんべんの中心の深いワインレッドから、端の純白にかけて鮮やかなグラデーションを描く花は見事な大輪で、その道に明るくない者が見ても立派なものだと一目でわかる。


 ルビーはランの花を見やり「素敵ね」と微笑んだ。左手の薬指に嵌められた、紅玉の指輪を指の先で撫でながら。



 夜も深まり草木も眠りに就く静寂の中で、ルビーはひとり暗闇の中にいた。じっとしているだけで汗ばむ温室の中にたたずむルビーの眼前には、つい数時間前にレナルドが見せてくれたランの鉢植えがある。


 ルビーはおもむろに手を伸ばすと、その見事なランの大輪を無造作に萼から引きちぎった。純白の花弁が散り散りとなって砂まみれの地面へと落ちて行く。美しさと切り離され、無残な姿となった花弁をルビーは無表情で踏みにじる。執拗に、何度も、固い靴の裏で踏みつける。


 煮えたぎるような苛烈な感情の海の中で、ルビーは冷静にこれから起こるであろうことを思い描く。


 朝、目を覚ました庭師が無残なランの鉢を発見するだろう。けれどもレナルドは庭師を責めたりはしないはずだ。優しい夫は野犬でも入り込んだのだろうと言って、むしろ庭師を励ます――。


 脳裏にレナルドの笑顔を思い浮かべたルビーはハッと我に返る。足元には黒茶の土が撒き散らかされ、つやつやとした塗りの表面が美しい鉢植えは、粉々になって散らばっていた。


 ルビーは左手の薬指に手をやる。そこに嵌った紅玉ルビーの結婚指輪に触れると、己の中で渦巻く激情がしばしのあいだ治まるのを感じられるのである。だからルビーはよく指輪に指先を這わせる。それはほとんど癖と言ってもよかった。


 理性的な感情を呼び覚ますために、ルビーは指輪を撫でる。


 ――ルビーは、人並みの幸福を手に入れた。しかし同時に、狂おしいほどの妬心までもを、その内に収めてしまったのである。

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