(2)

 ルビーは、自分のことを大人しい人間だと思っていた。実際に周囲の人間も彼女のことをそう評す。


 だが、現実はどうだろうか。ルビーは今や心臓を焼き尽くしそうなほどの、激しい嫉妬の炎を絶え間なく燃やし続ける、見た目の従順さとはかけ離れた愚かな女になり下がってしまった。


 今のルビーはだれが見たって幸福な花嫁だろう。生まれて初めての、本気の恋の相手が夫で、純潔を捧げ夫婦の契りを交わし、そして当の夫から愛されている――。非の打ち所のない、幸福な生活だ。


 けれどもルビーはその幸福さを噛み締めながらも、同時に心臓を焼き尽くさんまでの嫉妬の炎に苛まれていた。その穏やかならざる心は、気を抜けばルビーを衝動のままに感情を振るわせる、理性なき獣へと変えてしまうだろう。そのことはルビーもじゅうぶん理解していた。


 だからいつもルビーは指輪を撫でるのである。結婚指輪にと送られた、自身と同じルビーを冠した宝石をあしらった美しい指輪を。なだめすかすように撫ですさり、心の中で哀願するのだ。「どうか戻って」と。


 そうやって理性を呼び覚まして、破裂しそうなぎりぎりの瀬戸際で己の感情を制御しているのが今のルビーの状況であった。


 ルビーはレナルドに恋をして、それがいかに甘美なものなのかを知った。そして嫉妬という感情が、いかに破壊的なものなのかということも。


 嫉妬は、ルビーのなにもかもを壊そうとする。理性を、大人しい自分を、穏やかな感情を。そして恐らくは夫婦の関係をも、ルビーがその手綱を握り続けることができなければ破壊し尽くしてしまうだろう。


 レナルドが女性に笑顔を向けることすら、今のルビーは許せなくなっていた。そうすれば当然、触れることなど言語道断である。女がレナルドに触れるのならば脳を突き上げんばかりの怒りの感情が、レナルドが女に触れるのならば奈落へ落ちるような絶望が、ルビーを責め苛む。


 レナルドに近づく女のことを考えるたびにルビーの体には虫唾が走る。付き合いで妓館に赴く夜など、一睡もできない。優しいレナルドが自分を裏切るような真似はしないだろうと理解していても、それはもうどうしようもなかった。頭で理解していても感情が先行してルビーの思考を掻き乱してしまうのである。


 妓館へ行く夫の背中を笑顔で見送りながら、その裏では狂わんばかりの嫉妬の炎を燃やす。ルビーは本当は泣き叫んですがりつきたかった。「行かないで」と言いたいが、ルビーの残された理性がその愚かな行動を抑制する。けれどもそれがいつまで続くのかルビーにはわからず、まるで死刑宣告を受ける被告人のような気持ちでいるしかないのであった。



 足を引きずるルビーはパーティーに出ることができない。そういうとき、華やかな場へと赴く夫の背を見送りながら、ルビーは身を引き裂かれるような悲しみと、途方もない嫉妬心を抱くのである。


 一度だけ、レナルドに秋波を送る女が主催するパーティーにレナルドが出席すると知ったとき、ルビーは仮病を使った。苦しくもないのにそのようなフリをしてレナルドの気を引いた。優しい夫が心細いと訴える新妻を無視できないと知っていて。


 レナルドはパーティーに行かず、臥せるルビーのベッドのそばに一晩中ついてその手を握っていてくれた。ルビーはその自分よりもひとまわり以上大きな、筋張った手を握りながら、せめぎ合う優越と罪悪の心に苛まれた。


 レナルドの優しさにつけ込んで、彼をいいように扱う己のなんと醜いことか。


 こんな感情が万が一にでもレナルドに知られてしまえば、きっと嫌われてしまうに違いない。ルビーはそう信じ切っていたから、己の本心を夫に打ち明けようなどとは一度として思ったことはなかった。


 しかし、考えたことはある。知って欲しい、と思ったことがある。こんなにもあなたを愛し、それゆえに苦しんでいるのだということを。


 だが知られたくないと思う。おぞましいほどに醜悪なこのルビーと言う生き物を、彼はきっと愛してはくれないだろうから。



 ――レナルドは、わたしのものなのに。


 そう、何度思ったかは知れない。呪文のように何度も何度も心の中で繰り返して、いつも頭の中を巡っている恐ろしく傲慢な言葉を、ルビーは消し去るすべを知らなかった。


 明日はレナルドがパーティーに出席する日。そういうとき、ルビーはなけなしのプライドを投げ打ち、わずかな経験を掻き集めて必死にレナルドを誘惑する。心に渦巻く激情のままにレナルドを激しく求めて、一時いっときでも心の平穏を得ようとするのだ。



 褥に移った熱も落ち着いた頃、ルビーはようよう瞼を持ち上げる。もとより室内にいることの方が多く、足を害してからはとんと外には出ないものだから彼女には体力がない。だからレナルドとの営みの終わりに差しかかるとどうにも気絶するように眠ってしまうのであった。


 いつものシニヨンを解いて背に流したブルネットの乱れ髪が、白いシーツの上に散らばっているのを、横たわった視界で捉える。そうして未だに体の芯に残る甘い痺れを感じながら、ルビーは自らが嫉妬から解放された感情の中にいることを実感した。


「体調はどう?」


 レナルドはルビーの乱れ髪を梳くように指を差し入れる。大きな手のひらから伝わる熱にルビーは目を細めた。


「……だいじょうぶ」


 そう言いながらルビーは甘えるようにレナルドの胸板へと頬を寄せる。そんなルビーの姿にレナルドはほほえましいものでも見るように微笑わらった。


 レナルドは、わたしが不安に思っていることをわかっているようだ――とルビーは思う。ただ、その表面化した部分は氷山の一角に過ぎず、さらにその下には醜悪な感情が渦巻いていることなど知りもしないだろう。いや、ルビーにとっては知られたくない、致命的な感情なのだから、決して悟らせてはいけないのである。


「レナルド」


 湧き上がる焦燥感を誤魔化すようにルビーはレナルドの名を呼ぶ。情事の余韻を引きずる気だるい体を軽く引き起こしてレナルドを見つめる。そうして彼を俯瞰するように見て、その灰色がかった碧眼に自らの姿が映っていることを確認すると、ルビーはひとり心の中でほくそ笑む。


 ――レナルドは、わたしのもの。


 傲慢な言葉が頭の中で反響する。


「ご機嫌だね」

「そうですか?」


 一度離れたレナルドの指先がルビーの頬に触れる。そのまま指の腹がまろい顔の線をなぞり、ルビーはくすぐったそうに肩をすくめた。


「家を空けてすまないね」

「……いいえ。わたしこそこんな体で――」


 五体満足であればレナルドのパートナーとしてパーティーに出ることも、そうして妻の役目を果たすこともできるのに。そんな思いを込めた言葉はレナルドによって遮られる。


 ルビーの唇に滑るように当てられたレナルドの指先は、彼女の唇をなぞるように楕円形を描く。


「それは言わない約束だよ」


 ルビーにとって足の障害はレナルドに対する負い目となっていた。しかしレナルドはそうして萎縮してしまうルビーに公の場に出ることだけが妻の仕事ではないと説いた。そしてルビーの足のことは気にしていないとも。


 実際に、ルビーの足がこうなってしまったことに彼女の過失はない。けれどもこれが先天的なものか後天的なものか、そして後者であればいかにしてそうなったのか、はた目にわかることではない。それをルビーが痛感したのは、陰でレナルドが不具の妻を貰ったことについてあれこれと口さがないことを言われていると知ってからだ。


「――これは夫婦の問題ですから。それにわたしはルビーが妻でよかったと思っていますよ」


 邸を訪れた口さがない親戚に対し、レナルドは怒るでもなくただ穏やかな笑みをたたえたままそう言った。あれこれと庇われたり、長所を上げて反論されたりするよりも、ルビーにとってはずっと心に響く行いであった。


 それからルビーはレナルドをひとりの異性として意識するようになったのである。――そのときはまるで夢見る少女のようで、まさか後々このように苛烈な感情を抱くようになるとは思いもよらなかったわけだが。


 ルビーが再び褥に体を横たえると、今度は背中にレナルドの腕が回る。そのまま抱き寄せられて、どちらからともなくふたりは口づけを交わした。


 ふたりのあいだには幸福があった。たしかな幸福が。だがしかしその下ではえも言われぬおぞましき感情が渦巻いているのであった。



 *



「オパールが?」


 ルビーは思わずそう聞き返した。


 晩餐を終えてドローイングルームで一息ついていたルビーの元に現れたレナルドは、おもむろに「オパールを預かることになった」と言ったのである。久しく聞いていなかったその名にルビーは虚を突かれた。


 正直に言って、できれば耳にしたくはなかった名である。彼女の男遊びが原因で不具となった身としては、その名には苦いものを感じずにはいられないのだから。


 オパールを恨んでいないと言えば嘘になる。けれども彼女が代わりに刺されたらよかったとも思えない。どれだけ貶され、嘲笑われ、見下されても、やはり血の繋がった妹なのだ。恨みがましい感情を持ちたくはなかった。だからルビーはレナルドと結婚してからというもの、オパールという存在を忘却の彼方へと押しやったのである。


 そのオパールを預かることになったとは、いったいどういうことだろう? ルビーは疑問に思ったが、すぐにその感情は羞恥で染め上げられることになる。


 要は島流しと同じであった。ルビーたちの両親は今さらながらにオパールの現状が「マズい」ということを悟ったのであろう。聞くところによるとまたしても痴情のもつれから刃傷沙汰を起こしたと言うのだから、ルビーは大いに恥入った。


 そこでルビーの両親は田園に囲まれた城塞都市に居を構える長女夫婦へ、次女を押しつけることにしたのであろう。なんとかしてくれないかとレナルドに厚顔無恥な申し入れをする姿が、ルビーには容易に想像することができた。


「それで、お受けしてしまったんですね」


 ルビーは知らず、レナルドに対して非難がましい言い方になってしまう。そのことにすぐ気がついて謝るが、レナルドはいつも通り柔和な笑みを浮かべたままである。


「彼女に思うことがあるとは思うけれども……なにかあっては寝覚めが悪いしね」

「ええ、まあ、わたしにとっては、たったひとりの妹ですもの。心配ではありますけれど――でも、なにも貴方に相談しなくたって……」

「私は気にしていないよ。それよりも事後報告になってしまって悪かったね。ルビーと相談すべきだとは思ったんだけれどもね、なんでも二日前に送り出してしまったと言うから」


 ルビーは重ね重ねの恥に消え入りたくなった。


「……ごめんなさい。ご迷惑おかけしますわ」

「気にしないで、ルビー。困ったときはお互い様。そうだろう?」


 レナルドにそう言われてもルビーの心は軽くはならなかった。


 両親はオパールをほとぼりが冷めるまでこちらに滞在させるつもりのようであったが、レナルドの計らいで彼女は母屋ではなく離れに居を借りることになった。


 ――なにごともなく、済めばいいのだけれど。


 ルビーはせめて恥の上塗りだけはしないで欲しいと願いながら、憂鬱げな顔で妹の到着を待つことになった。

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