(4)

 オパールは鼻をすする音を立て、レナルドの胸元にしなだれかかった。しかしレナルドはやんわりとその肩を押してオパールと距離を取り、彼女をその場に置いて未だ座り込んだままの妻の元へと向かう。その背をオパールが忌々しげに見つめていることにルビーは気づいた。だがオパールの表情はすぐに勝ち誇ったものへと変わる。


「ルビー、大丈夫かい?」


 レナルドから手を差しのべられても、ルビーはすぐに反応することが出来なかった。その胸中に渦巻くのは途方もない焦燥と恐怖心で、ちょっとすれば彼女の心は奈落の底へと落ちて行ってしまいそうになっていた。


「ルビー?」


 人の良さそうな顔を怪訝に潜めてレナルドはもう一度妻の名前を呼ぶ。そこでようやっとルビーは返事をすることが出来たのだが、その声はあまりにもか細かった。


 ――どうしよう。


 レナルドへどう申し開きをすれば良いのかルビーは必死で考えようとするのだが、言葉の端を捕まえるたびにそれは白い闇へと飲み込まれて行く。


 知らず、ルビーの体は震える。レナルドに幻滅される。あるいは、もっとすれば見放されるかもしれないと言う思いに駆られる彼女は、はた目に見ても明らかに平静さを失っていた。


「お義兄様……お姉様ったらひどいの。いきなりわたしをぶったのよ。もう怖くて怖くて、思わず悲鳴を上げてしまったの」


 オパールは俯いていかにも儚げに肩を震わせる。そんな妹の演技に常であれば動じないルビーも、平静を失した今は看過することが出来ない。


 けれどもルビーの心は完全に萎縮し切ってしまっていた。「それは嘘よ」という言葉すら今のルビーは碌に口にすることが出来なかったのである。


 そこには後ろめたさもあった。妹に初めて暴力を振るった直接の原因ではないにせよ、その下地にはレナルドは自分の方がふさわしいと言ってのけたオパールへの憎悪があったからだ。それは、レナルドには決して知られてはいけない本音である。ルビーはそれが知らず知らずのうちに漏れ出てしまって、レナルドに伝わるのではないかと言う、荒唐無稽な空想に取り憑かれていたのだ。


 ルビーは忙しなく目を泳がせる。そしてなにかから身を守るように合わせた両の手を胸元に押しつけた。その右手の指先は、左手指に嵌った結婚指輪の中石へと添えられている。その指が震えていることに気づいたのは、レナルドだけであった。


「ルビー……落ち着いて。ゆっくり息を吸って」


 レナルドの筋張った大きな手がルビーの背中を上下に行き来する。夫の言葉のままにルビーは深呼吸をする。それでも彼女の混乱は未だ収まりそうになかった。


 オパールはレナルドがルビーにつき切りであるのが不満なのか、夜の帳が濃い影を顔に落とす中で一瞬だけ不機嫌そうな顔を作る。だがそれもすぐに引っ込めて、芝居がかった歩みでレナルドの前へ出ると、いかにも世間知らずそうな女の顔をして訴えかける。


「お義兄様、わたしが悪いの」

「オパール嬢が?」

「わたし、お義兄様と会えたのが嬉しくて舞い上がってしまって……きっとお姉様は嫉妬してしまったんです」


 オパールの言葉にルビーは大げさに肩を震わせた。オパールはその肥大化した他人の弱点を察する直感を持って、ルビーにとって致命的な話題を引き出してしまったのであった。


「だから叱らないであげて」

「そんなことはしないよ。それよりも、もう夜も遅いから戻りなさい」


 レナルドは優しく諭すようにオパールに言って聞かせる。オパールはまだなにか言いたそうな顔をしていたが、すっかり弱ったルビーの姿を見下ろしたあとふたりに別れを告げて離れに引っ込んだ。


「ルビー」


 レナルドに名を呼ばれても、ルビーは夫の方を見ることはなかった。否、できなかった。


「ここにずっといては体が冷えてしまうよ。――さあ、戻ろう」

「……はい」


 そうしてようやくルビーはよろよろと杖をついて立ち上がることが出来た。だがその心中は穏やかならざる様相を呈し、さながらルビーの自己は嵐に見舞われた小船のようであった。


 レナルドは心配そうな顔でこちらをうかがう小間使いたちをサーバントルームへと帰し、おぼつかない足取りのルビーを抱えるようにして寝室へ連れて行った。


 ルビーを長椅子に座らせると、レナルドはその横に腰を落ちつける。そうして優しい声音で問うのであった。


「――それで、なにがあったんだい?」


 意図してきわめて軽い調子でレナルドはそう聞いたのだが、今のルビーにはそんな気遣いを理解できるほどの余裕はなかった。


「あ、あの……その。……少し、言い合いになってしまって……わたしが――わたしが悪いんです。その、オパールには、もう少し自分を大切にして欲しくて、だから、つい……」


 元来より小心者のルビーには嘘をつくことができなかった。しかし、かと言って真実をそのままレナルドの前に晒すだけの度胸も、またなかった。その結果、ルビーの言葉は核心を突かぬあやふやなものになってしまったのだが、レナルドはそれ以上妻を追求することはなかった。


 その晩、床の中でルビーはふと考える。もし、オパールの暴言のことをレナルドに言ったら、彼はどうするだろうか? ――と。


 もし、それでレナルドが怒りをあらわにすることが嬉しい。そうしてオパールを追い出してくれれば――。


 けれども、ことはそう上手くは運ばないだろうし、ルビーにはそう出来る自信もなかった。すべては空想の中でこねくり回すことすら栓なきことであろう。


 それどころか現実は逆にオパールに手ひどいしっぺ返しを食らってしまうかもしれない。なにせ、ルビーは妹ほど処世術に長けているわけでもなく、比例して口もあまり上手くないのだ。


 ルビーの脳裏にオパールの勝ち誇った顔が浮かぶ。レナルドには自分の方がふさわしいと言うオパール。レナルドと談笑するオパール。レナルドにしなだれかかるオパール……。


 ルビーの下腹部に不快感が渦巻く。それは紛れもなく憎悪で、そこには明確な殺意が存在していた。


 冴え冴えとした目で天蓋を見つめるルビーは、直視に耐えぬ醜悪な己の本性を暗闇の中で幻視する。これ以上レナルドに本音を零すような真似をしてはいけない。ルビーはそう固く誓う。そしてそうすることは、レナルドのそばに少しでも長くいられることに繋がると、信じて疑わなかった。



 *



「食欲がないのよ」


 恰幅の良い年配の女中頭に近頃の体調について気遣われたルビーは素直にそう告げた。


 食事の進みが悪いのはレナルドに対するあてつけではない。小心者のルビーにそんなことはできないし、幼稚な嫉妬心で邸で雇っているコックに失礼な真似をしたくはなかった。


「お医者様に診て貰いましょう」


 難しい顔をした女中頭はルビーの返事を待たずに小間使いを呼びつけて往診医を呼びに行かせてしまった。


 ひとり残されたルビーは深いため息をつく。



 あの晩の出来事から、オパールは明らかに増長していた。相変わらずレナルドの前はもちろん、使用人に対しては愛嬌を振り撒きながら、裏ではルビーを中傷することに精を出している。レナルドとその使用人たちというぬるま湯を知ってしまった今のルビーにとって、オパールの雑言は以前のように心を鈍らせて受け止められるものではなくなっていた。


 だがそれよりも辛いのはオパールがレナルドに近づくことである。


 ルビーが忙しいレナルドと共に過ごせる時間のほとんどすべてにオパールは闖入し、夫婦の時間を無駄に消費させて行く。隙あらばレナルドの体に触れて、オパールはにたにたと嫌らしい笑みを浮かべてルビーを見るのである。それはだれの目にも明らかな挑発だった。


 そのたびにルビーはオパールの頬に張り手をして、そのお綺麗に整えた髪をつかんで、レナルドのそばから引きずって離したい衝動に駆られる。あるいはレナルドの前で跪いて縋って、泣き叫んでオパールに構うのはやめて欲しいと哀願してしまいそうだった。


 無論これらはすべてルビーの中で殺され、散々にされ、はらわたの裏側の、もっと奥底へと捨てられる感情だ。けれどもそれはいくら押し潰しても消えてはくれない。湖の底にある水源から滔々と流れ出すように、ルビーの心から欲望と衝動は潰えない。


 そうした感情の荒波に振り回されるルビーは、はた目に見ても元気を失って行った。食は細くなり、安定しない眠気に悩まされ、もとより色白の肌はますます不健康な見た目になる。その原因の一端が自分にあることがわかっているであろうオパールは、それすらもあげつらって嗤う。


「気持ちわるーい。女捨てすぎじゃない? そのうち捨てられるんじゃないのお?」


 ルビーにはそれらの中傷になんらかの返事をしようと言う気力はなかった。それでも心にはレナルドに迷惑をかけてはいけないという思いだけが、強固に残っているのである。それはほとんど病的と言っても良かったが、当人であるルビーは気づけないでいた。



「おめでとうございます。ご懐妊されております」


 初老の往診医の言葉に、ルビーは瞳を瞬かせる。先に喜びをあらわにしたのはそばについていた女中頭であった。


「さっそく旦那様にお知らせしなければ!」


 そう言って小間使いを呼び寄せるのだが、当のルビーはと言えば未だに呆然としたままである。どこか夢見心地な頭のままで、薄い腹に手を置いて見たが、やはり実感はない。


 その後、往診医は妊娠中の注意事項を言い含めて邸をあとにした。その頃には邸中にルビーの懐妊は伝わっていて、特に古くからこの家に仕えている女中頭などはすでに乳母の手配にまで頭を回している始末であった。


 そうであるから当然オパールの耳にもその話は入っていた。だが予想に反して彼女はなにも言っては来なかった。ルビーにはそれが不気味に思えて仕方がない。脳裏によぎるのは嫌な予感ばかりだが、それでもなお同じくして穏やかな感情がルビーの中に湧き出る。久方ぶりの安息にルビーはしがらみから解放された気分になった。


 ――子供が産まれれば、この醜い妬心も少しは収まるかもしれない。


 ルビーはまだ胎動を感じられない腹を撫でてそう思った。



「おめでとう、ルビー」

「……それはわたしのセリフじゃないかしら?」


 仕事から帰って来たレナルドは珍しくオパールの相手もそこそこにルビーを抱きしめる。向かい合ったレナルドの目もとは心なしかいつもより下がっている気がして、ルビーはくすりと笑った。このときだけはオパールのことは気にならず、ルビーはレナルドと見つめ合うことが出来た。


「触れてもいいかい?」

「ええ……でもまだわからないわよ」

「いいんだ」


 レナルドの指がルビーの腹に触れる。じんわりと、レナルドの体温が伝わる。ルビーはそこに、今までとは違った充足感を覚えた。

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