第百十九節:誘惑する者

 

 そうして探索を始めて、どれぐらいの時間が過ぎただろう。

 クロエは腰から下げた小さな砂時計を確認した。

 時の経過を確認する為の砂は、まだ半分も落ち切っていない。

 さほど時間は流れていないようだが、何もない空間を探す行為は感覚を麻痺させる。

 意識しなければ、もう何日も彷徨っているような錯覚に陥りそうだった。

 

 「……何もないわね」

 「そうだな」

 

 休息地に選んだ、半ば崩れた部屋の周辺。

 その辺りを探り始めて、何度か繰り返した言葉。

 数えているわけではないが、そろそろ両手の指では足りなくなるだろう。

 ガルもまた何度目か分からない相槌を打ちながら、落ちている瓦礫を無理やり撤去する。

 長く、複雑に伸びる石の通路には、休息地にした場所以外にも多くの部屋があった。

 その大半が崩れて埋まっており、時には入り口の辺りが瓦礫で塞がれているだけの場所もあるが。

 

 「……ふむ」

 

 瓦礫を除き、ガルは首を伸ばしてその中を覗き込む。

 何もない。

 かつては何かあったのだろうが、やはり今は半ば崩れた部屋が其処にあるばかりだ。

 経年劣化だけではないだろう。

 恐らく、かつて此処を使っていた者達が、この場所を放棄する際にその痕跡を破壊したのだ。

 それは執拗かつ徹底的で、元の形を想像するのも難しい残骸が転がるばかり。

 

 「ほら、私の言った通りだろう? 此処には危ない物なんて、何もないのさ」

 

 笑いながら嘯くのは、ガルがその手に吊るした一匹の魔神。

 何者でもないジェーンと語る高位魔神は、クロエ達の行為を愉快げに眺めていた。

 まるでネズミが滑車を回す様を見て、その徒労を嘲るかのように。

 無論、それはクロエの方が一方的に感じ取っただけの事で、この魔神の真意は分からない。

 或いはそんなものは元から無いのかもしれないが。

 

 「……いい加減、吐いたらどうなの?」

 「ウン?」

 「とぼけないで。この場所が何なのかについてよ」

 

 あくまでふざけた態度を崩さぬジェーンに、クロエは詰問する。

 元より苛つく相手だったが、今は特に癇に障る。

 それはジェーンだけが原因でない事を、クロエ自身は理解していた。

 この場所に来てから、胸の内に霞が掛かったような違和感。

 何か、何かある。それが何なのかが分からない。

 この何もないはずの場所を見て、一体自分は何を感じているのか――。

 

 「

 

 そう言って、魔神は笑った。

 いっそ優し気に、ぐずる幼子を慈しむような柔らかい笑みで。

 

 「そう怯えずとも、此処には何もない。少なくとも、

 「っ……」

 

 その魔神の言葉に、クロエは小さく息を呑む。

 間違いなく、ジェーンはこの場所についての情報を持っている。

 今の発言からもそれは明白だった。

 けれどはぐらかすような答えは、それを正しく口にするつもりはない事も示していて。

 反射的に――いや、衝動的に。

 クロエは自らの魔剣の柄に指を掛けるが。

 

 「本当に、何もないんだな?」

 

 淡々と。

 確認を取る為だけの言葉を、ガルはジェーンに投げかけた。

 それから首根っこを掴んでいる手に力を込め、軽くその場で振ってみせる。

 魔神でも一応呼吸はしているのか、喉元が絞まった事でグエッと潰れた蛙のような声が上がった。

 

 「ちょ、待った待った! 流石にこれは酷くないかいっ?」

 「分かりやすく話をせんのが悪い」

 

 ジェーンの抗議に対し、ガルはやはりバッサリと一言で切って捨てた。

 それから落ち着きを無くしかけていたクロエの頭を、空いた方の手で軽く撫でる。

 

 「なかなか難しいだろうが、コイツの言葉を余りまともに受け取らん方が良い。

  コレは分かって言葉を弄ぶ類の相手だ」

 「…………」

 

 そう、高位の魔神とは即ちそういう存在だ。

 ただ凶暴で破壊衝動に忠実なだけの下位の魔神とは、その在り方は根本的に異なる。

 時に巧みに、時に大胆に。

 相手の心の波を掬い取り、其処に毒の言葉を垂らして落とす。

 そうして惑わされ、破滅に転がり落ちる人間の有様を何より甘美と笑う。

 知識として、頭の中では分かっているはずなのに。

 クロエは小さく呼吸を整えてから、頭を撫でるガルを見上げて。

 

 「……ごめんなさい」

 「む」

 

 尻尾を力なく床に垂らして、沈んだ様子でクロエは謝罪を口にした。

 魔神相手に心を乱され、此処まで随分と無様を晒してしまった気がする。

 思い返した自身の様子にクロエは恥じ入るばかりだった。

 それに対し、ガルは喉の奥で小さく唸りる。

 

 「別に謝る事はない」

 「けど……」

 「単純に、心配だっただけだ」

 

 そう言って、ガルはもう一度クロエの頭を撫でた。

 

 「今度、同じように心が乱されたと思うなら、俺を頼れば良い。

  小難しい話は分からんが、相手を素直にする術なら心得ているつもりだ」

 

 文字通り、それは暴力的な自信に満ちた言葉だった。

 吊るされているジェーンが露骨に嫌そうな顔をするので、クロエも思わず笑ってしまう。

 未だにこの場所に対する違和感は消えないが、それでも幾分落ち着いた気がする。

 肩の力を少し抜いて、クロエは小さく頷いた。

 

 「ええ、次からはそうするわ。……ありがとう、ガル」

 「良い。さて、本当に何もないようだからいい加減に戻るか」

 

 あちこち瓦礫ばかりで崩落の危険も考えたが、其処まで劣化もしていないようだった。

 故に特に大きな危険は無いと判断し、ガルとクロエは今いる部屋を後にする。

 変わらず吊るされたままのジェーンは、わざとらしく肩を竦めて。

 

 「やはりどうにも、私は君のような相手は苦手だよ」

 「そうか」

 

 魔神は虚偽を語らない。

 ならばそれはジェーンの本音なのだろうが、ガルはさして興味はなかった。

 

 「蜥蜴人という奴は、大体君のような手合いが多い。私も何度か関わった事があるから良く知ってる」

 「そうか」

 「大体が単純シンプルで、そして奇妙な人生哲学を有している。

  戦士の生き方という奴は、私には少々難解だったが」

 「そうか」

 

 滑らかに舌を回すジェーン。

 それでもガルは、温度の無い態度で短く言葉を返すのみ。

 クロエは傍らに並びながら、黙ってそんな二人の様子を見ていた。

 

 「大いなる『混沌』を起源とする君ら蜥蜴人は、ある意味では我々の同類とも言える。

  事実、数多の魔神の種族には竜、或いは君らに似た姿の者も存在するからね」

 「そうか」

 「強く在る事、力を得る事に貪欲な君らは、時には我らの側に足を踏み入れる事だってある。知っていたかな?」

 「いや、興味がない」

 

 あくまで簡潔に答えるガル。

 長広舌をたった一言で切って捨てられるのに対し、ジェーンは特に苛立った様子はない。

 むしろ心底愉快そうな笑みを見せて。

 

 「……成る程、君は強いな。あぁ、私が知る中では特に強い戦士だ」

 「そうか」

 「だからこれは提案なんだが」

 

 笑う。魔神は闇を湛えた深い亀裂のように笑う。

 

 「――私と契約を結ばないかい?」

 「不要だ」

 

 甘く囁く声にも、ガルの答えは変わらない。

 

 「必要な取引はした。それ以外は不要だ」

 「そう釣れない事は言わずに。君は確かに強いが、それでも定命の者である以上は限界がある」

 

 これ以上なくハッキリと拒絶の意志を示されても、ジェーンは言葉を止めない。

 御伽噺に記された悪魔そのままの執拗さで、更に誘惑を加速させる。

 

 「元より、君も私も起源は同じく深淵の底だ。その力に触れる事を禁忌だとは思うまい?

  木っ端のような下位魔神では話にならないだろうが、私は君にもっと大きな力を提供出来る」

 「限界がどうのと、勝手に線引きをされてもな」

 「だが事実であるし、それが現実だよ。まさか自分が戦いの神が如くに無敵の存在だとは自惚れていないだろう?」

 

 ニヤリと笑って、ジェーンはその口元から蛇のように長い舌を覗かせる。

 それから吊るされたままの姿勢で手を伸ばし、蜥蜴人の冷たい鱗を指でなぞった。

 

 「今の君では扱えぬ魔導の知識か、それとも恐るべき狂戦士の呪いか。

  はたまたその身に流れる竜の血を更に色濃いものとして、それを存分に振るう魔力でも良い」

 「…………」

 「そのどれであっても、私は君に偽りなく与える事が出来るよ。ガル=ロゥ。

  なに、ちょっと良い魔法の武器を得るのと何も変わらないよ。魔神の力を厭う倫理や道徳など関係ないはずだ」

 

 最早一々言葉を返すのも面倒になったガル。

 その様子を見ても、ジェーンはむしろ誘惑の言葉に熱を入れる。

 硬く冷たい鋼も、熱を加え続ければいずれ柔く解けるのだと。

 それを示そうとするように、更に続けようとするが。

 

 「嗚呼だからガル=ロゥ、強く雄々しい戦士。私は君に望むだけの、いや望む以上の力を」

 「

 

 一撃。

 自制も躊躇もなく、クロエは手にした魔剣で思い切りジェーンの頭をぶっ叩いた。

 刃ではなくあくまで腹でだが、可能な限り全力でのフルスイング。

 ジェーンはやはりグエッと蛙じみた声を上げつつ、ガルに吊るされた状態でグルリと身体が半回転した。

 その一撃で黙ったのを確認すると、クロエは大きく息を吐いた。

 

 「……ほら、行きましょう」

 「む。あぁ」

 

 クロエに促され、ガルは頷きながら休息地へと足を向ける。

 先ほどの、魔神の言葉に惑わされていた時とは明らかに違う感情の動き。

 それが気には無かったが、クロエの様子からして突っ込まない方が良いとガルは判断した。

 

 「……まったく」

 

 あぁ、腹立たしい。

 ガルを心配させ、己の未熟を恥じて自制を科したばかりだというのに。

 早々に感情を激してしまった事を反省はしつつも、クロエは後悔はしていなかった。

 怒りに殺意を混ぜた視線を、吊られたジェーンへと向ける。

 相変わらず痛がっている様子だが、それも恐らくは演技だろう。

 あと十回は殴り回したい衝動はあったが、それについてはクロエは我慢した。

 ――本当に腹立たしい。

 この魔神が何を考えているかなど分からないが、先ほどの行動の意図は明白だ。

 向こうも隠す気はなかったのだろう。

 唐突に言葉の矛先を変え、熱心に自分と契約を結ぶよう誘惑し始めたのは、ガルに対する嫌がらせではない。

 間違いなく、自分クロエに対する嫌がらせだ。

 ……そう、嫌がらせだ。嫌がらせ以外の何者でもない。

 けれど魔神は虚偽を口にする事はないはずだ。

 仮に、そう仮に、先ほどの言葉に嫌がらせ以外の意図が含まれていたとしたら――。

 

 「……ガル」

 「む」

 「貴方も、余りそいつの言葉にまともに受け答えはしないで頂戴」

 「む……」

 

 言われて、ガルは少し考えるように視線を宙に向けてから。

 

 「……そうだな。その方が良いだろう」

 「ええ、是非そうして」

 

 了承したガルに、クロエは満足げに頷いて見せた。

 ジェーンがまた笑っているような気配を感じたので、もう一発魔剣の腹で叩いておく。

 あぁ――本当に、この魔神には腹が立つ。

 今一時は必要だとはいえ、そうでなくなったら絶対に刃の方で殴る。

 言葉にはしないまま、クロエは密かに己に誓いを立てた。

 

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りざーどまんのおよめさん 駄天使 @Aiwaz15

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