最終話 始まりの季節に始まって
春という季節はなぜこんなにも『始まり』にふさわしいのだろう。
入学式や始業式といった人々の営みはもちろん、生命の息吹や陽の光に至るまでが、『始まり』を実感させてくれる。
それらに比べると超個人的かつ非常に小さいものだけれど、僕の心模様も『始まり』が到来していた。
自宅近くの公園。
僕にとっては新社会人、日和にとっては新学期1週目の休日。
春の象徴たる桜の木の下のベンチで、僕と日和は互いの手を重ねて座っている。
「平和だねー」
「だね」
春の日差しはぽわぽわと温かく、さらさらと流れる風は繊細な指先のように優しい。
日向ぼっこには最適な日である。
それは僕らヒト族以外も激しく同意のようで、
「あ、マヨ!」
にゃーん。
もはやお馴染みの子猫……いや、成猫の『マヨネーズ』がどこからともなくやって来た。
そして、日和の足に甘えるように頭を擦り付け始める。
「おっきくなったねー、マヨー」
よしよしと、マヨを撫でる日和がにへへと笑う。
お腹をごろりんと見せるマヨと同じくらい無防備で、あどけない笑顔。
思わず、言葉を溢す。
「もう、半年も経つのか」
「だねー」
この公園で、日和と出会ってから経過した期間。
それまでにあった数々の思い出を振り返ると、本当に半年も経ったのかと疑問が浮かぶ。
「早いねー、時間が経つのは」
僕と同じようなことを、日和も考えていたようだ。
澄み切った空を見上げ、懐かしそうに眼を細める。
「それくらい、充実してたということだね」
「うん、私もそう思う」
ただただ純粋で、嬉しそうな笑顔を向けられる。
見ていると、こっちまで口元が緩んでしまう笑顔。
その頭に手を伸ばし、そのまま撫でる。
以前はこの動作さえドギマギしていたところだけと、今となっては手馴れたものだ。
艶やかでさらさらとした、お馴染みの感触。
最近は毎日のように撫でているけど、一向に飽きる気配は訪れない。
多分、この先もずっと撫で続けることだろう。
「んぅー……」
優しく手を滑らすたびに、気持ちよさそうに喉を鳴らす日和。
撫でられるだけじゃ物足りないと、日和は自分から擦り寄ってきた。
そして、こてりと、僕の肩に頭を乗せてくる。
ふわりと漂う甘い匂いに一瞬、くらりとする。
この不意打ちの接触は付き合って2ヶ月経っても、未だに慣れない。
いやむしろ、慣れない方がいいのかも。
日和に感情を乱される瞬間は心地よく、自分の心がちゃんと機能していることの何よりも証明なのだから。
……幸せだなあと、改めて思う。
こんな日々がいつまでも続いて欲しいと、心から願った。
僕のことを深く想ってくれる人が、隣にいる。
これからもずっと、そばに居てくれる。
僕は今、世界で一番幸せだと思う。
非科学的で非論理的な思考だけど、そう思う。
そう思うなら、それでいいのだ、非論理的でも。
感情に素直になることも、幸せのひとつなのだから。
次、お賽銭箱の前で手を合わせる時には、神様に願おうと思う。
『日和との日々が、これからも毎日続きますように』って。
「ねえねえ治くん」
「ん?」
「すっごく唐突な質問なんだけどさ!」
至近距離から見上げてくる日和が、むふふと小悪魔めいた笑みを浮かべて言う。
「治くん、いつから私を異性として意識し始めたの?」
「本当に唐突来たね」
「そういえば、聞いてないなーって」
改めて、日和が僕を真正面に捉える。
「あんなにドライだった治くんが、どのタイミングで私にクラッときたのか、私も気になるのですよ!」
「クラッて」
「……それがわかれば、これからもたくさんクラクラッとさせられるかなー、なんて」
「え?」
「なーんでもない! で、どうなのん?」
星屑をばら撒いたような目を向けられて、腕を組む。
脳内の記憶フォルダをクリックする。
蘇る、日和との想い出の数々。
その中でも、僕が日和に理性を乱された瞬間はそれなりに……いや、滅茶苦茶あるな。
日和の笑顔を間近で見た。
手を繋いだ。
不可抗力で抱き寄せてしまった。
頭を撫でた。
頭を撫でられた。
膝枕された。
肩を揉んでくれた。
自分からぎゅーした。
日和からぎゅーされた。
後ろからぎゅーとされた。
『好き』と言った。
『好き』と言われた。
唇と唇と、重ね合わせた。
それらの思い出ひとつずつ、ランダムに浮かべていく。
そうしていると、自分の体温がみるみる上昇している事に気付いた。
心臓がバックンバックン高鳴っていて、今にも飛び出してきそう。
「どしたの、治くん?」
「……いや」
クラっとした瞬間を思い出す前に、クラクラになってしまいそう。
なんて口にすると、かーわいい! とか言って撫でられそうなので、平静を装った。
もしされたら最後、頭がぷしゅーとなって家に帰れなくなってしまうだろう。
その時、
「あ」
記憶フォルダの奥の奥、たくさんの情報に埋もれていたワンシーンが、脳裏に浮かんで声が漏れる。
「お、それは閃いた顔だね!」
日和が身を乗り出し顔を近づけてくる。
端正な顔立ちが迫ってきて、また顔が熱くなった。
「これはあくまでも、僕の記憶の限りの話なんだけど」
記憶を鮮明し、当時の自分の感情を思い起こしながら言葉を並べる。
「日和に、僕の理性が乱された瞬間は、あの時が初めてかもしれない」
「え、気になる! いついつ!?」
口するか、逡巡してしまう。
だって『その瞬間』は多分、日和に取って予想外のワンシーンだろうから。
しかしここまで言った以上、やっぱり言えないなんて出来ないわけで。
この際だから言っておこうと腹を括り、口を開く。
「日和は、覚えてないかもだけど」
あれは、日和とこの公園で出会う前の出来事。
「去年の4月……ちょうど1年前かな? 僕が図書館で本を読んでる時に、日和が来て」
上京して、1ヶ月も経っていない時だったと思う。
「最初、日和を見た時はすごく綺麗な子だなーとか、自分とは世界の違う人間なんだろうなー、って思ってて」
日和の事を何も知らなかった僕は、彼女が明るく感情豊かな女の子であること知らなかった。
「だけど日和は、参考書を開いた途端にすごく険しい顔をしてさ。その時……ちょっと意外に思ったんだよね」
『静かに』が基本マナーである図書館で目にした日和は、僕からすると清楚で物静かな少女に映っていた。
それが、あまりにわかりやすく難しい顔をしてたものだから、意外に思った。
ギャップ、というものだろうか。
わからないけど。
「まあでも自分には関係ないかって、読書を続行したんだけど」
それは突然、視界に飛び込んで来たのだ。
厚い雲に覆われた大海原に差し込む、一筋の光のように。
「ふと、顔を上げたら、日和がものすごく嬉しそうに笑ってて」
難問が解けたのか、何か良いことでも思い出したのか。
ここ最近ずっと、僕に向けてくれるような笑顔を浮かべていた日和を目にして、僕は──。
「その時になんか……ドキッときたというか……?」
これは、今、恋人同士という関係になったからこそ言えているのかもしれない。
僕と日和が初めて出会った瞬間に、すでに惹かれていた。
という風に、出会いに運命性を加えて神聖化したいという脳内補完が働いている可能性も否めない。
でもあの時、確かに僕の感情は動いていた。
それは本当にほんの少し、砂糖を少さじでちょいっと掬ったくらいの機微だけど。
日和が浮かべた笑顔で、僕の感情は動いていた。
それだけは、確かだ。
「って、なに言ってるんだ僕は」
冷静さが戻ってきて、羞恥が湧き上がってきて。
誤魔化すように、後ろ手で頭を掻く。
恥ずかしい。
シンプルに、恥ずかしかった。
顔から火が出るって多分、こういう感覚のことを言うのだろう。
珍しく、日和が反応するまでに間があった。
僕の顔の温度が落ち着くくらいの間の後、日和は優しい声で言葉を紡いだ。
「なんだ」
それはまるで、何十年も放ったらかしだった誤解が、解けた時みたいな表情。
「あの時笑ってたの、そういう理由だったんだね」
全身の血液が沸騰するかと思った。
まさか日和にも認知されていて、しかもあの時の自分が笑みを浮かべていただなんて思わなくて、言葉に詰まる。
いや、そうか。
嬉しいのか、これは。
僕にとってのかけがえのない思い出を、日和も認知してくれていた。
そのことが、心の底から嬉しかったのだろう。
「て、てか、日和の方こそどうなの」
羞恥と、自分のことばかり掘り下げられてずるいという子供じみた感情が湧き出て、尋ねる。
「私? 私はね──」
くすっと、日和が微笑む。
かと思ったら、抱きつかれた。
柔らかい感触、自分よりも高い体温。
甘くて安心する香り、鼻先をくすぐる繊細な髪先。
日和の鼓動が、服越しに伝わってくる。
僕の心音といい勝負なんじゃないだろうか。
なんて思考が明後日の方向に飛んで行ってしまうくらいドギマギしていると、日和が僕の耳元に口を近づけて、囁くように言った。
「治くんと、同じだよ」
それは、心の底から湧き出た、喜びの感情が溢れんばかりの言葉だった。
始まりの季節に始まって。
再び訪れた始まりの季節に、僕たちはまた新しい日々を紡いでいく。
ーーー
これにて完結です。
ご愛読いただきありがとうございました。
本作品はどうだったか、☆やレビューなどで評価いただけますと幸いです。
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