10 恋する乙女はエロースを知る
✕✕✕
下駄箱から取り出したばかりのローファーが、火照った足にひやりと冷たい。
先輩も先輩で、こんこんとつま先を床に打ち、靴の履き心地を整えている。
それから、床に置いた鞄をひょいと持ち上げて、右肩に背負って。
そして、不意に振り向いた先輩は、自然な動作で視線を下げて、ある一点を凝視した。
私の視線も、それに合わせてゆるゆると下がっていく。
視線の先には、先輩のスカートの裾を掴んだ、私の指先。
「……そろそろ離してくれても良いんじゃないかな」
「いやでしゅ」
勢い余って噛んでしまい、情けない発音になったのが尚更アレだ。いや、どれだ。
そう。とにかく。私の手は今、先輩の周防色のスカートを、全握力を持ってがっちりホールドしているのであった。
「いやですっ。情けなくても、変態臭くても、今の私には先輩のスカートを離せない理由があります!」
「その心は?」
「離したら、先輩、帰っちゃうじゃないですか!」
「それは、ほら、下校時間だから」
先輩はそう言って、鞄から取り出したスマホの画面を私に見せる。
犬のお昼寝写真という思いの外愛らしいロック画面に、時刻の数字が並んでいた。1,7,5,4。
つまり時刻は17:54。我が校の10~3月の下校時刻は18:00。
先輩の言う通り、我々の下校時刻はすぐそこに差し迫っていた。
×××
さて、現在の状況の起こりは、十数分ほど前に遡る。
床に寝転んで、思いがけない空の暗さに気がついた私は、そわそわと慌てだした。
我が校の一回目の下校のチャイムは、下校時刻15分前の17:45。
そして、3月初旬の日没時間といえば、17時半頃である。
「あのう、すみません。ちょっと場所変えませんか」
にわかに慌てだした私に、先輩は首を傾げた。
先輩の癖なのだとは確信しているのだが、今日何回先輩の首が傾いたか数えられない。
そんな事を考えながらも、私は上半身をがばりと起こす。
「……下校のチャイムが鳴るので、移動しましょう」
「移動?」
「屋上だとそのー……昨日、めっちゃ音大きかったじゃないですか。だから」
思い出すだけで鼓膜がびりびりと震えそうな感触。私は思わず耳を抑える。
ふむ、と瞳を逸らした先輩は、ぽそりと半分独り言のようにつぶやいた。
「……ああ、なるほど。でも、それでいいの?」
「え?」
私が目を瞬かせている間に、先輩は肩を竦めて、私の視線に合わせてしゃがみ込んだ。
今度は独り言じゃなく伝える意思を滲ませて、先輩はゆっくり口を開く。
「だって僕、まだ全然君から『説明』聞いてないけど。まだ全然途中でしょう? 人が人を好きになる要素には3つあるって意気込んだのに、結局1つ目しかちゃんと説明してないし、3つ目に至ってはもったいぶったまま提示さえしていない」
あっ。
なんとなくお叱りの気配を感じて、私はしどろもどろに弁明しようとする。
「えあっ。い、いや、それは」
忘れていたわけではない。
もちろん、それは最重要事項だ。
ただ、ちょっと、昨日のバカでかいチャイムの音が若干トラウマになっていて、
音が鼓膜に痛かっただけじゃなく、
先輩が私の横を通り過ぎて、独りで屋上から帰ったことを条件反射的に思い出して、無駄に寂しい気持ちを掘り起こしてしまいそうで。
それがちょっと、嫌だなーって。
そんな私の心情を知ってか知らずか。
先輩はじぃっと私の瞳を見つめて、口角をにっこりと吊り上げた。
「僕は君に言わなくてはいけないことがある」
「は、はい」
「愛は、別に美しくない」
「……はい?」
はい?
「実はね。プラトンの著作『饗宴』に曰く、愛こと『エロース』は美しくも善くもないっていうんだ。また醜くも悪くもない中間的なものらしい」
「……は…………」
「昨今は自由恋愛も増えてるし、愛を賛美する傾向があるけれど……。ソクラテスたちは『愛自体は別に美しくもなんとも無い』と主張している。そして、僕もそれに同意する」
「はぁ」
何を言われるかと戦々恐々としていた私は、突然の話題に目を白黒させた。
なかなかの、文脈のジェットコースターである。
「ちなみに、エロース自体はギリシア神話の愛の神の名前であり、エロティシズムなどの語源になっている。転じてプラトンの著作内では、性的な意味合い以外も含めた包括的な「愛」を語るために使われた言葉だね。現代日本語における「エロ」の語源の語源みたいなものだけど、性愛に限っていない分、ちょっと違った意味合いだ」
「えーっと、あの」
「つまりね、念の為言っておきたいんだけど、エロースは別にエロくない」
先輩は小さく付け足しつつ手を伸ばしてきた。
何をするかと一瞬身構えたが、先輩は床に仮置していた2個めのいちご牛乳パックを掴んで、ストローを私の口元に突っ込んでくる。
飲めということだろうか。それとも、今は口を挟むなということだろうか。
「話を戻すね。で、ソクラテスが言った内容をざっくり要約すると、エロース自体は善でも美でもないからこそ、美や善を求めるのだって」
「…………」
「これは人間の中の『愛』にも通じている。愛自体が別に美しくも善くもなんともない……つまり『美しさも美も欠けている』からこそ、愛を身の内に宿しているはずの人間も、欠けた部分を埋めるかのように、美しい他者、善なる他者を求めようとする。だからこそ、人は美なるもの、善なるものを永久に所有しようとする欲求がある」
「…………」
わかるような、わからないような。
私は無言でいちご牛乳を吸い上げつつ、じっと、目の前の美しい人の顔を見つめてみる。
確かに、自分にはない美しさとか、善さとか、そういうものに憧れて手に入れたいという気持ちは否定できないかもしれない。
「でも、結局、永久にってのは無理なんだよね」
「ふぇ」
「人はいつか死んでしまうから、美なるもの・善きものを永久に所有し続けるのは無理なんだよ。死は永久を途切れさせてしまう……まぁ、つまり、死んだら全部終わりだからね」
「ほつせんかはしいははしになひはしはね?」
突然悲しい話になりましたね?
ストローに口内を侵食されながらも口を開くが、舌が回らない。
先輩はちょっと目を丸くすると、何故かくすりと笑った。
「まあ、それが悲しいかどうかはその人の価値観によるだろうけど」
「ほーへふ?」(そうです?)
「ただ、とりあえず愛に関しては、人は『自分以外の物の中に、自らが手にした美と善を残す』方向に解決策を求めたんだ」
そういった先輩は、おもむろに私の手を握る。
「ふへっ」
急速に体温が上がって、情けない声が出た。
先輩の方は何事もなかったかのように、自然に話の続きを話し始める。
「ここで、さっきの『からだ』の話に戻るんだけど」
……先輩の中では、もしかして、『からだ』の話=さっきの「片手にぎにぎの刑」と紐づけられてしまったのだろうか。
「そういうわけで、人は『子どもを作る』ことで、自分の死後も『美しきもの』との思い出・幸福を未来永劫確保しようとするんだ。これが性愛、肉体への愛。そして……」
先輩は、そのタイミングで、私の手を握った片手に力を入れてきた。
「これが、さっき君が説明してくれた『からだ』への愛の、ソクラテス、あるいはプラトン的な説明になる。……そういうわけで、『からだ』への愛は決して否定されてはいけない。それは万人の、不滅なる美への健全な欲求だ。これはいいね?」
「ふぁい…………」
先輩の掬い上げるような視線に、先程までの流れを思い出してなんとも言えない情動に襲われつつ、こくこくと精一杯うなずく。
同意。同意です。もうからだ軽視しません。
先輩はどこか満足げに頷いて、それから頬に手を当てた。
「その上で。もともとプラトンの『饗宴』って、少年愛について語ってる著作なんだよね」
「……?」
少年愛?
「少年愛。パイデラスティアー。成人男性と思春期前後の少年の間の恋愛のことね」
「ぷはっ」
いちご牛乳を吹き出すかと思った。というか、若干吹いた。
別にそういうのに偏見はないつもりだが、そういう話だとは思わないじゃないか。古代ギリシアの偉い哲学者さんの著作が。
「ただ、勘違いしないでほしいんだけど、古代ギリシアにおける少年愛は当たり前のものでね。立派な文化人は、少年と特別な恋愛関係をもつことで、少年に対して文化的教育を施すことが義務とされていたんだ。つまり、少年愛は当時の文化人にとって極めて一般的な恋愛形態であり、『饗宴』もそんな時代背景のもとに書かれている」
……そこで、先輩は私の口にストローを突っ込んでいた方の手を、ようやく下におろしてくれた。
口内がようやくいちご牛乳から解放された瞬間、私は心の中に浮かんだ素直な感想を口にする。
「すごい時代ですね……」
「我々の時代の価値観から見ればね。まあ、価値観なんてひょんなことでどんどん変わっていくものだから」
「そういうものです?」
「そういうものだよ」
そういうものなのか。
正直あんまりぴんと来ないが、先輩が言うならそうなのだろう。
「まあ、とりあえず、『饗宴』が本来少年愛について語ってる、ということを前提にすると、さっきの『からだ』の話は絶妙に足りないんだよね」
「足りない?」
「愛の説明として、足りない。人は美しきものを永久にするために、『からだ』への愛として子作りをする……という話だけど」
「は、はい。そういう話でしたけど」
先輩は、両手の指を立てて、自分の顔の前でバッテンを作った。
「成人男性と少年が性交渉しても、子どもはどう頑張ってもできないでしょう?」
猫先輩と、フラれるための恋愛哲学 殻付飛鳥 @uzura1414
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