9 恋する乙女は『からだ』を語る part2
さて。
これは実質「特に質問とか所感とかがなければ次の話題に移りますよ」という宣言である。
先輩も、真面目な顔で考えを巡らせたようで、くるくると髪の先を弄びつつ、小さく口を開いた。
「じゃあ、少しだけ所感を」
「ぜひぜひ」
「まあ……。いずれにせよ、『からだ』部分は恋愛において大事な要素だってことだよね。それは同意する」
「………………」
あくまで淡々とした先輩の発言に、自分の外見にも声にも匂いにも(つまり『からだ』全般に)自信がないウーマンである私は、若干ジト目気味に先輩を見やった。
「……先輩もそっち派ですか?」
ぶっちゃけ話をしよう。
自分で『恋愛においては見た目超大事』とか宣言しておいてなんだが、正直、ここは先輩にちょっぴり否定とか……否定じゃなくても、疑問とかを挟んでほしかった乙女心があるのだ。
たとえダブルスタンダードだと言われようが、先輩にだけには、あんまり『からだ』を重視していてほしくなかった、というのが本音である。
なんでかって? 当然のことを言わせないでほしい。
そんなのもちろん、自分が『からだ』強者じゃない自覚があるからである。
いや、小顔が自慢でスタイルにはそれなりに自信があるし、ほっぺのもちもち力も絶品だと思うが、そういうことではないのだ。
シンプルに、足りない。多少の自信があっても、先輩のお眼鏡に叶うような『からだ』である自信にはほど遠い。
見た目も声も匂いも、その他諸々全部ぜんぶ。多少の自信くらいでは、先輩の前では全部が足りない。
そして、例え振られるとしても、そこが……『からだ』が重視されていたか否かというのは、乙女心的に重要なポイントなのだ。
そんな私の心情を知ってか知らずか、先輩はぱたぱたと手遊びのように膝を叩いてから、ぱっと両手を空に向けて肩をすくめた。
「そっち派もなにも、君が宣言した内容に同意してるだけだよ。つまり、強いて言えば君派」
「くぅ」
その言葉は嬉しいけど、けど。
本当なら、その場でくるくる踊りたくなるくらい嬉しいけど。
嬉しいような悔しいような複雑な気持ちになっている私の前で、先輩はぽつぽつと言葉を零し始めた。
「どれだけ取り繕おうが、人間にとって外見も含めた肉体はめちゃくちゃ重要な要素。さっきのプラトンだって、恋愛においては肉体も重要なファクターだよって言ってるくらいだ」
「そうなんです……? なんか、哲学者さんって、体じゃなくて心が大事だー! 人の本質を見ろー! とか言いそうなイメージですけど」
「哲学は物事の本質を探す学問だから、確かに『本質を見抜こう』的なことは言うんだけどね。その『人の本質』とやらに、人の体が含まれないとは言えないわけだから」
「……体が、本質ですか?」
「体『も』本質ね。もうちょっと正確に言えば、『肉体に対する愛も、本質的に愛の段階のひとつである』かな。……もっと正確に言うと、これを言ったのはプラトン本人じゃなく、プラトンの師匠のソクラテスだってことになってるけど……ここらへんまともに説明しようとするとややこしくなるから、いったんこれは置いておく」
いいかな? と尋ねる先輩に対して、正直すでにややこしくなっていた私は、素直にこくこくと頷いた。
それを確認した先輩は、立ち上がって伸びをする。
ずっとフェンス際で風に吹かれていて体が冷えたのか、ほう、と指先に息を当ててから、先輩はとんとんと靴の先を床に打った。
「いずれにせよ、僕もそれに同意する。人間だって生き物だし物体なんだから、肉体を無視するわけにはいかない」
……そう言って。
先輩が、不意に、ごく自然な動きで歩を進めた。
一歩、二歩、三歩、それでもう私の目の前だ。
予想外の光景を目の当たりにして、え、と言葉が小さく漏れた。
風に揺れる先輩の髪が、私の肩口を撫でる。近い。
思わず後ずさりかけた瞬間、ふわりと甘い匂いがして、私はその場で硬直した。
先輩は硬直している私の手を取ると、自分の右手に添えた。
指と指を絡ませる。握る。
思いのほか、ひんやりして冷たい。
指の肌がするするしていて、それでいて、ふわふわもしている。
先輩は握った手を眺めて、僅かに目を細めて口角を上げる。
その表情のまま、言った。
「ね? 君も僕も、『からだ』、あるでしょう?」
「………………」
「あれ、『からだ』、わからない? じゃあ、もうちょっと強く握ろうか」
──突然の接触に息が止まっていたので、反応が、遅れたのだ。
「い、いえ! 『からだ』あります! めっちゃあります! すごーくあります!!」
息を吸って、慌ててぶんぶんと首を振って、アピールする。
嬉しい。嬉しいけれど、多分これ以上はなんか、なんか、心臓が持たない。
震える唇をあわあわとそのまま動かしていると、先輩はふっと息を吐きだして、そのままするりと、私の指の間から抜け出していった。
あ、と漏れた声とともに、急な喪失感だけが指と手の平の間に残る。
「肉体を無視して、内面だの魂だの精神だの、『目に見えないもの』だけを愛することを賛美する人が時々いるけど、僕はそれはナンセンスだと思っている。だって、見た目も声も匂いも、『からだ』はそこに確かにあるものなのに、わざわざ見ないふりするのはおかしいでしょう?」
ね? と先輩は自分の右手を顔の高さまで掲げて、ぐー、ぱー、と動かしてみせた。
白い指の隙間から除く先輩の瞳に、なんだか妙に気恥ずかしくなって、自分の片手を胸に添え、こくこくと頷いてみせる。
先輩はなぜだか少し満足げににこっとして、くいっと左側に身体を傾けた。
そのまま、何かを観察するように私の瞳を覗いてくる。
「先輩、あの、なんか近……」
「というわけで、うん。僕の持論はもともとそんな感じだから、君の論には非常に納得できた。わかりやすい説明をありがとう」
なんと、今の先輩、話を聞いてくれない。
近い、という私の言葉には全く耳を貸さず、つまり相変わらず近いまま、先輩は薄い笑みを浮かべてとつとつと言葉を紡ぐ。
なんでこんな急に近く、と混乱する頭に、次の言葉はひどく響いた。
「だからこそ、君自身のその態度は気に入らない」
……私は再度硬直した。
「え」
「……別に、責めているわけじゃないけど……いや、一応、ほんのりとは責めてるのかな。とにかく、」
先輩は、つん、と指先で私の額を弾いた。
「君が打ち立てた論を、君自身が自分の態度で否定してどうする」
「.............ごめんなさい」
弾かれた部分がじんわりと熱くなって、私は顔を伏せた。
私の心情は、もやもやしていたのは、バレていた。
いや、バレるか。さすがにバレるか。
言われたことが正論だからこそ、これはさすがに恥ずかしい。
しおしおと俯いていると、頭上から先輩の声が降ってくる。
「……まぁ、こういう場面で、「『からだ』部分は恋愛において大事な要素だ」って言う論を否定してもらいたがる心情とか理由は、一般論から大体想像はつくのだけど」
「うぐ」
つまり、私の乙女心までお見通しというわけだ。
それはもっと恥ずかしい。
先輩の顔は見えないが、口調はいつもどおりのフラットな感じで、特にマイナスの感情は乗っていなくて、それだけが少し救いだ。
先輩はそれきり数秒沈黙した後、事も無げな口調でぽつっと呟いた。
「僕はいいと思うけど」
「え」
思わず顔を上げる。
「な、なにが」
先輩は、笑っても怒ってもいなかった。いつもの、真顔だった。真剣な顔だった。
「君の容姿が。そこ気にしてるんでしょう?」
「へ」
まさか。まさかまさかまさか。これは。
先輩が、なんかこう、急に少女漫画のヒーローみたいに見えて。
不意に微笑ってみせた顔が、私がずっとずっと誰かに欲しかった言葉をくれるような気がして。
先輩が小さく口を開くのを、私は目を見開いて見つめていた。
「僕にとっては……」
「今日会話していた1時間半ほどの印象だけど、僕にとっては、君の『からだ』、眺めていて非常に愉快だったよ」
「…………!!!!」
…………。
………………?
あれっ。
「愉快ってなんですか!!!!???」
身体の奥を熱くさせていた期待が、斜め上方向に弾けとんで、暴発した。
かぁぁあっと顔が熱くなって、胸の奥からふつふつと湧いてくる感情が行き場を失って、手足をばたばたと動かす。
先輩は一瞬ぽかんとした顔でこっちを見て、きゅっと眉根を潜めた。
「え……」
「い、今の、もしかして私のこと褒めたつもりになってます?」
「褒めたよ。愉快だって」
「違うんですよ! 『愉快』は、花も恥じらう女子高生を形容する褒め言葉じゃないですよ!! 褒められたのは嬉しいですけど、微妙に嬉しくないんです! なんですかこの気持ちは! 私どういう顔すればいいんですか!!?」
「えっ……笑えばいいと思うよ……?」
「えゔぁ!!! 違う!! そういうパロディの場面じゃないですから、ここ!!」
さっき、先輩が、なんかこう、急に少女漫画のヒーローみたいに見えて。
『君は可愛いよ』とか、言ってくれるかなとか、思ったんだけど。
先輩はなんというか、少女漫画のヒーローじゃなくて、やっぱり先輩だった。
「かわいいって言ってくれてもいいじゃないですかぁ……」
「僕、あんまり『かわいい』って感覚よくわからないんだよね。わからない言葉で君のことを形容したくないんだよ」
「なんですかそれ……」
私はしおしおと力なく崩れ落ち、そのままなんだかひどく自堕落な気持ちになって、ごろんと床に横たわる。
床、冷たい。制服越しでも冷たい。
「なんかこう……どうでもよくなっちゃいました」
「そっか。それはよかった。……いちご牛乳、飲む?」
「飲みます」
先輩が拾い上げてくれた最後のいちご牛乳にストローを刺して、飲む。
横たわったまま見上げた空が紫紺色で、いつの間にか結構な時間が経っていたことに気がついた。
……床面からじわじわと這い寄る冷気に、頭が冷えたのかもしれない。
大事なことを、思い出す。
「あ」
「うん?」
私は恐る恐る声を上げた。
「先輩、あの、今何時です?」
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