ある晴れた5月の日に。

Nakime

第1話

 彼女が突然、東北に旅に出ようと言ってきた。

 あまりにも脈絡が無い一言だった。僕は彼女を見つめ、彼女は僕ではなく遥かの空を見つめていた。春の初めの夕暮れだった。そして風はまだ冬の足跡を残した雲を束ねて南へと押し流している。開いた部屋の隙間から、柔かなチェロの音色が顔を覗かせていた。

  僕は流石に戸惑いもした。なぜ彼女が東北に行きたいのか検討もつかなかった。その理由を訪ねたい焦燥が僕を覆い尽くそうとしていた。けれど、僕には断る理由も思いつかなかった。彼女ははっきりと僕の目を見ていたし、僕も彼女の瞳を覗き込んでいた。「いいよ」と僕は返事をした。「じゃ、決まりね」と彼女は少し笑いながらまた道の先を歩き始めた。僕は、約束を取り付けて満足した彼女の後ろ姿を眺めていた。

 この話題に関しての彼女との会話はこれっきりだった。綿密なプランを建てる訳でも無く、本当にただフラッと出かけてみたいらしかった。それから別段変わりなく散歩を済ませ、家に帰った。目に触れた景色は少しだけ冬の面影を残していた。ほんの少しだけ。

 実を言うと、僕は東北にはあまりいい思い出が無かった。もちろん、その事は彼女だって知っていたはずだ。あそこには、僕が過去に転がして失くしてしまったものがある。掴もうと藻掻いていたけれど手に入れ損ねたモノがある。

 トラウマという言葉の中に仕舞っておけるほど、優しい記憶ではない。やや考え深く舌触りが悪い記憶がうっすらと脳内をよぎる。そういった経験は時間的距離を置いたところでまた思わぬ場所で鉢合わせになるものだ。自分が良しとしない部分を切り落とし、道に捨ててもまたそこに戻って来てしまう。必ずだ。これらの招かれざる客たちに対して僕はいつもの如く手を振って迎えるしかない。僕はあの時よりもこんなに大人になったんですよ、とか。あれはまだ僕自身が若すぎたのかもしれませんね、とか。そんな他人行儀に過去の自分を語るしかない。それは他人の評価という蓑に隠れてやり過ごしている事実に気づき始めているのに。

 

5月のある連休。

観光客で賑わう中尊寺を背に、僕と彼女は電車に乗らず狭い車道に面した道を歩いていた。

やはりこの場所を歩くと考えてしまう。

まるで思考が僕の手を離れて飛び立つように。


僕が忘れたもの。

僕が失くしたもの

僕が無くしたもの。

僕を型どっていたもの。

そして。

何も無い僕に彼女が。

彼女が贈ってくれたもの。

彼女が贈ってくれた言葉。


僕は彼女の何処に惹かれたのだろうか。

僕は彼女に何を贈れただろうか。

僕に出来る事は。

僕が心から。


それはきっとずっと前から。



誰も居ない静けさだけが住み着いた小道を2人。

並んで歩いている。

太陽はまだ2人の頭上を謳歌し、空の淡い青さを苦笑いしている。

燕が2羽、春の青海をを飛ぶように泳いでいる。

電車が走る音が遠くから聞こえる。

2人が乗るはずだったものだ。

それは2人のこれからの道行きを示しているのかもしれない。

僕は何をここで失ってしまったのだろうか。

彼女は何も言わずに歩いている。

時折、太陽が気まぐれにをして彼女の顔を隠してしまうけれど。

その横顔を眺めながら、僕が今持っているものと、あの時僕が持っていたものを考える。

温かな春の想いだけが僕達を包んでいる。

風が彼女の艶やかな黒髪を揺らし、深い真珠の瞳を隠してしまう。

見蕩れるような永遠が、しかし、瞬きの間には消えて無くなってしまう永遠が。

2人の足元のすぐ側を流れていた。

遠くから電車の走る音だけが響いていた。

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ある晴れた5月の日に。 Nakime @Nakime88

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