すっかり疎遠になってからも月日は流れていく。黒板の日付が一日ずつ進むたびに、あのとき抱いた思いは自然に風化し、整理がついていく。しかし、稀に佐木里さきさとに出くわしたときには、彼女の顔を直視できないでいた。もっとも佐木里のほうも、こちらを避けているような感じがしたが。


 それでも接点が薄れれば、次第と互いを意識しなくなっていく。だから、彼女の周辺で変化が起きはじめていたとしても、木野谷きのやが気づくのは随分と後になってからだった。


 もうすぐ期末考査がある12月に入りかけた、そんな時期だった。最初の違和感は、特に尋ねていないのにもかかわらず、友人たちの口から彼女の名前が出てきたことだった。

 どういうことだ、と木野谷はいぶかしんだ。佐木里の名前が出てくるだけならともかく、変な噂まで飛び交っているようだった。


(あいつが、傷害事件を起こしたって、……そんなことするわけないだろ)


 真偽を確かめるために4組の知人、何人かに探りを入れてみたが、そもそも学校で事件があった事すら知らないようだった。

 もちろん木野谷自身も、学内で何かしらの事件が起こったなんて話は聞いたことがない。先生陣に変わった動きがあるわけでもない。


 引っ掛かりを覚えながらも、所詮は根も葉もない噂話と、そのときは片付けることにした。

 しかし、期末考査が終わった翌週のこと、四限が終わった後の昼休みに、噂とは別で、あまり良くない話が木野谷の耳に突然、飛び込んできた。


 ――――佐木里と野咲峰のさきみねが、喧嘩をしたそうだ。


 真っ先に佐木里を探そうとしたが、疎遠になった彼女が今、行きそうな場所の見当などつかなかった。仕方なく野咲峰のほうを当たる。喧嘩をして時間がさほど経っていなかったらしく、憔悴しょうすいした野咲峰とその友人たちをすぐに見つけることができた。話を聞いて、このとき初めて、木野谷は流れていた噂の全貌を知った。


 端的に言えば、傷害事件というのは、佐木里が転校前の学校で引き起こしたものだった。所属していた陸上部の先輩に対して、ナイフで斬りかかったという。原因は部活内で起きていたといういじめ行為。幸い被害者の怪我は軽傷で済んだらしいが、地方紙のちょっとしたニュースになっていたそうだ。それを学校内の誰かが偶然見つけ、噂として広がったようだった。


 野咲峰も噂を耳にして、あくまで確認のつもりで佐木里に尋ねたらしかった。しかし、まさか当事者だと肯定されるとは思わず、話の落としどころにきゅうした彼女は、話の流れで佐木里を責めるようなことを言ってしまったという。


 本来、なあなあにして落ち着けるつもりが、過去の心の傷を刺激されてしまった佐木里には通じなかった。逆上とまではいかなくても、涙を見せて教室を飛び出してしまったという。


 慌てて野咲峰たちも追いかけようとしたが、佐木里が速すぎて、困り果てた彼女たちが取り残されたというわけだった。

 話を聞きながら、そういうことかよ、と木野谷は奥歯を強く噛み締めた。


「木野谷くん、佐木里さんのこと前から気にかけてたよね? もしかして、どこか行きそうな場所、知ってる?」

「いや? 実のところ俺も正直、……今、心当たりができたかも。ちょっと見て来るよ」


 あまり心配をかけさせるわけにもいかないので、木野谷はあえて野咲峰たちに軽い調子で振る舞った。じゃあ私も付いていく、と野咲峰は食い下がってきたが、そもそも確信はなく、一人のほうが早く確認できるという理由を付けて丁寧に断った。


 廊下を駆けながら、記憶を呼び起こす。


 佐木里に初めて声を掛けたとき、彼女は何をしているように見えた?


 あのときの彼女は、本当に飛び降りようと考えていたんじゃないのか?



 ――自殺したいと願うほど、最初から追い詰められていたのだとしたら、――誰も信じられなくなって、好きでもない孤立なんかを望んだのだとしたら。


 ――――勝手に理解した気になっていたのは、俺の方じゃないか。



 事情をたいして知らないままに、差し出がましい助言をして、結果的に彼女を傷付けた。

 もし佐木里が、出会った頃と同じように、心の傷で苦しんでいるのならば、行きそうなのは、あのときと同じ場所。


 そして木野谷は、屋上へ入る扉の前に立った。

 五桁の暗証番号を入力する。10月に更新されて以降、佐木里に番号を教えていなかったが、一緒に屋上へ入ったことはある。覚えられていてもおかしくはなかった。

 扉を開いて見える屋上のフェンスの外、あの時と同じように、そこに佐木里の後ろ姿があった。


「佐木里」


 声をかけると、彼女は目を丸くして、こちらを振り返る。くまのあたりに涙の跡が赤く腫れ上がっていた。


「……木野谷?」

「こっち来いよ。そこは危ないだろ」

「今日は金曜日でも、まだ放課後でもなくない?」


 冗談めかした返事をする佐木里に、泣いてるくせに、と木野谷はボヤいた。


「屋上に来たんじゃない。お前を探しに来たんだ」

「……」

「とにかく、こっちに来いよ」

「……」


 彼女は首を横に振った。


「私、自分でも、何がしたいか、どうしたらいいか分からないんだ……」


 フェンスを背もたれにして、佐木里は屋上のふちに腰をつける。外へと投げ出された彼女の両足が、まるで飛び降りる準備であるかのようで、木野谷は内心ヒヤリとした。仕方なく木野谷は、彼女の背中と向き合えるような位置で、地べたに腰をつける。


「死ぬ気か? 冗談でもやめにしてくれよ……」

「木野谷はさ、いいよね」


 佐木里は背中を向けたまま、胸のうちを吐き出すように言った。


「強がってみたけど、やっぱり私には耐えられないみたい。一人で居続けるのって辛い」

「別に、一人でいなきゃ良いだけの話だろ」

「無理だよ、もう。隠してたことがバレちゃった。みんなの輪に入るのが、今は怖い」

「…………」


 掛ける言葉に迷う。このままは良くないと考える一方で、安易に慰めの言葉を投げ掛けても、逆に佐木里を傷つけてしまうだけのような気がした。


 彼女は怯えていた。これ以上、心が傷つくのを恐れている。そこへ一度は彼女を傷つけた自分に言葉を掛ける資格があるのか、と木野谷は自問する。だが、見捨ておくという選択肢は、どうしても取ることができなかった。


 何度も葛藤しながらも、佐木里の言葉に触発されたからかは知らないが、気づけば木野谷は自分のことを吐露していた。


「……俺も、そうなのかもしれないな」

「――え?」

「自分自身のことを知られるのを恐れてる。素の俺のことを知ってる奴なんて、学校の中じゃ佐木里、――お前だけだよ」


 彼女は一瞬だけ振り向き、意外そうな目を向けてきた。そんなに驚くことないだろ、と木野谷は思う。


「話すついでなんだけどさ。前に、どうしてお前を手助けしたのか、訊いてきたことあったよな。今なら答えをはっきり言うことができるんだけど、今いいか?」

「うん」


 思い返せば、あの問いかけに答えられなかった、あの瞬間に佐木里との関係性に亀裂が入ったのだった。


「多分、最初は同情だったんだ。フェンスの外側で、思い詰めた顔で景色を眺め続けている、そんなお前を見てたから。ああ、こいつは俺と同じ孤独を抱えた奴なんだなって思ったんだよ。だから、せめて学校では上手く振る舞えるようにしてやりたかったんだ」

「……あのとき、実は嬉しかった。こんな私でも気にかけてくれるんだって思えて」

「そうなのか」


 一応は喜んでもらえていたということを知って、木野谷は少し頬を緩めた。だが、次には自虐するように懺悔ざんげする。


「でもな、俺はあれをやってみても駄目だったんだよ。確かに周囲に人が集まるようになった。けど、それは演技している自分に惹かれているにすぎないんだ。心の底からは、俺自身が誰とも打ち解けられなかったんだ」


 背中を向けたままだった佐木里が、再びこちらへ顔を向ける。どこか神妙そうな面持ちだった。


「要はお前に嫉妬したんだよ。お前が人の輪に馴染んでいくのを見て、楽しそうだと心から思った」

「……」

「文化祭のあと、冷たく当たったのは、間違いなくそれが原因だ。……ごめん」


 謝罪の言葉を口にして、木野谷はフェンス越しに、途中から黙ってしまった佐木里へ手を差し伸ばす。


「お前を傷付けた俺が言うのも、あれかも知れないけど。何かで不安になったら、俺が支えてやる。――取り敢えず、フェンスの中に入って来いよ。さっきから見ていて、心臓に悪い」


 佐木里は無言で、まず自分の顔を手で覆った。それから答えた。


「――なんだ。やっぱり木野谷にもあったんだ。寂しいって気持ち。……私、嫌われちゃったんだって、ずっと思ってたんだよ」


 涙声になりながら彼女は、木野谷が差し出した手をフェンス越しに掴む。それからもう一度、口を開いた。


「木野谷が支えてくれるなら、私ももう一度、頑張ってみる」


 こらえきれなくなった涙をこぼしながら、佐木里は笑顔を見せた。




 ◇ ◇ ◇




 その後、木野谷と佐木里は、まず野咲峰たちへ謝りに行き、なんとか大事にせずに済ますことができた。問題の噂についても、既に学内で佐木里の人柄が広まっていたということもあって、気づけば自然消滅していた。

 高校三年生ともなってくると、大学受験が見え始めたこともあって、塾のほうが忙しくなり、佐木里と過ごす屋上の時間も取ることが叶わなくなっていった。代わりに昼休みに2人で勉強会を開いたりしたが。


 関係性については、結局あまり変化が無かったように思う。こっちは佐木里に引け目があったし、彼女もこちらに遠慮があるようだった。




 ひとしきり彼女との思い出を振り返った木野谷は、卒業アルバムを閉じて本棚にしまう。それから携帯の画面を開く。最後に開いた画面だった通話履歴が表示された。


 そこには最も直近の履歴に、佐木里亜澄の名前が載っていた。


 そもそも卒業アルバムを開いたきっかけが、卒業五周年ということで催されることになった同窓会に参加するかを、彼女に聞かれたからだった。既に招待状には出席と返信していたので、行くと彼女には伝えた。


 卒業後、お互いの進路はバラバラで、大学も別のところに通っていたが、SNS上では、わりと定期的に連絡を取り合っていた。しかし通話したのは初めてで、掛かってきた電話から、ガチガチに緊張した佐木里の声が聞こえてきたときは、思わず吹き出して笑ってしまった。


 話した内容は、同窓会に参加するなら、せっかくだから一緒に待ち合わせて行きたい、たまには直接会って話したい、とのことだった。


 そして今日がその同窓会の日だ。携帯に表示された時計を見ると、そろそろ出発する時刻になっている。

 身支度を済ませた木野谷は、SNS上で今から集合場所へ出発することを佐木里に伝えて、部屋を後にした。

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放課後屋上の二人ごはん 瀬岩ノワラ @seiwanowara

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