猫は夜を好む

Damy

夜の屋根を渡る

 人はクロとか、黒助と彼のことを呼ぶ。

 しなやかな肢体から生み出される跳躍によって、彼は今日も屋根の上を渡っていた。夜空に瞬く星がたくさん見える屋根の上は彼の定位置だった。


「なぁーご」


 青い空を望むような、暗闇に浮かぶ弱々しい光を慈しむような、鳴き声。その真意は計れないが、鳴き声が空に向かって消えていったのだけは確かだ。なんていっても、彼はいつも似た声音でしかその声を披露してくれない。

 聞き分けがついても、それはせいぜい四種類くらい。

 ご飯を食べている時の甘い声。縄張りに侵入してきた者を威嚇する声。お腹が空いて力のない声。人に撫でられ落ち着いた声。


「なぁーご」


 彼はもう一度、空に向けて、お腹が空いて力のない時と似た声を放つ。

 しかし、その声は屋根の下から響いた大きな声によってかき消された。


「ぎゃっハハハハハ! 足元がフラつく!」

「おいおい……しっかりしろよ」


 彼が屋根の上から下を覗くと、そこには二人の男が肩を組んで歩いていた。二人は赤らんだ顔をしており、ふらついているようだった。

 せっかくの静かな夜を邪魔されたことに、彼はかすかに腹を立て、静かに他の屋根へと飛び移ていった。

 彼のとんがった耳には二人の男の声は煩すぎたのだ。

 しかし、夜には彼が静寂を楽しめる場所はなかなか無い。

 いくつかの屋根を渡り、青色の屋根に足を止めた時、


「てめぇ! 何回言ったらわかんだ! いい加減クビにすんぞ!」


 怒気を孕んだ野太い声に、体勢を低く警戒する。

 似たような格好をした二人が屋根の下にいて、太い方が細い方を怒鳴り散らしているようだった。

 青色の屋根からはとても広く夜空を見ることができたが、大きな体躯をした男に怯えた彼はその場から逃げ出した。


 そしてまた、屋根を渡っていく。ここら辺は同じ高さの建物が多いため夜空がよく見える、彼のお気に入りの場所だった。その中でも特に気に入っていたのが赤色の屋根だった。あそこにいると、しわくちゃなお婆ちゃんがご飯をくれるのだ。それに、あそこはいつも静かで彼の気持ちを落ち着かせてくれる。

 赤い屋根に向かう途中、彼はしわくちゃんなお婆ちゃんの匂いを感じた。しかし、赤色の屋根はまだ少し先だ。不思議に思った彼は匂い方へと歩いていくと、そこには一人の女がいた。


「ふっ……うっ、お母さん……」


 女は涙を流し、肩をひくつかせていた。彼は匂いの先がしわくちゃなお婆ちゃんではなかった事に落胆を覚えた。しわくちゃなお婆ちゃんはご飯をくれるが、泣く女はご飯をくれそうになかったからだ。それに女の嗚咽は夜の情景を台無しにしていた。

 彼は再び赤い屋根に向かおうとした。


「お、お母さ、ん……う、あぁ」

「なぁーお」


 しかし、なぜだか屋根から降りて、彼は女の前で喉を鳴らした。すると女は彼に気づき、涙に濡れる瞳を見開いた。


「クロ……ちゃん?」


 クロといのはしわくちゃなお婆ちゃんが彼を呼ぶ時の言葉だった。彼はそれに返事をするようにもう一度、


「なぁーお」

「やっぱりクロちゃんだった……もしかして、今からお母さんのところに行くところだったの……? たぶん、そうだよね……」


 そう言って女は彼の下顎のあたりを指先で撫でる。彼はそのしわくちゃなお婆ちゃんと似た手つきに、ゴロゴロと喉の奥から落ち着いた時の声を漏らした。


「あ、そうだ、いいものあるよ」


 そう言うと、女はカバンの中を漁り、中から銀色の袋を取り出した。袋の口を切ると、そこから好物の匂いが溢れてきれ、彼は思わず銀色の袋から出てきた赤みがかった黄色のご飯を舐める。


「今日はこれで我慢してね」


 彼には人の言葉を理解することはできないが、女の声が憂いを孕んでいることは感じ取ることができた。袋の中身を食べ終えると、彼はしわくちゃなお婆ちゃんと同じ匂いのする女を心配そうに見上げる。


「ごめんね、それしか無いんだ。……でも家まで行けばもっとたくさんあるよ、クロちゃんとお友達になれるかもしれない子もいる。どうかな……クロちゃん、うちに来ない?」


 女は笑っているようだった。瞳から流れていた涙は止まり、雰囲気も落ち着いている。それがわかると彼はまた、赤い屋根を目指して屋根の上へと跳躍して戻った。


「あっ……」


 後ろから女の声が聞こえたが、彼は赤い屋根から夜空を眺めるため、それとしわくちゃなお婆ちゃんからご飯を貰うために屋根を渡って行くのだった。

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