ランベイビー、ラン

真宿豪々々

第1話 雨の中、走る女。


 小刻みに激しくなったり、優しげにおとなしくなったりと、命の脈動を思わせる「動」と「静」を意図を持って体現しているかのように短い間隔で絶えず変化し続ける雨音。

 朝からそんな生々しく落ちつかない雨音を聴きながら、短髪の、若くて痩せた男がひとり、築三十年余りの木造アパートの二階、8畳の角部屋で面倒くさそうに洗濯物をたたんでいる。昼下がり。

 部屋干しにしたままなんとなく片付けるのを先送りしていたら、使い古した雑巾のような嫌な匂いが、外に着て歩くには無理でしょうというくらい強めについてしまったので、一昨日の晩再び、干していたものをすべて洗濯し直したのだった。


 大のお気に入りの青い生地のプリントTシャツを一番上に重ねて引き出しに収めようと男は箪笥のある窓際まできた。このTシャツもだいぶくたびれてきちゃったよなあ、と心の底から残念に思いながら。

 いたわるような柔らかい目つきを青いTシャツに投げやってひとつ長い息をつき、眉を寄せる。ほのかな力の入り加減で。

 それからふわりと力を解くと、おもむろに今着ているTシャツを脱ぎ捨て、するりと青いTシャツを纏った。


 よい想い出とともにある青いプリントT。裾の右端には、ついこの間まで暮らしていた実家で、母親がつくった好物のスープカレーをこぼしてしまい、できてしまった小さな薄黄色のシミがぼんやり残っていた。

 そのとき、小学校の卒業式を間近に控えた世話好きの妹が「お兄ちゃん、まかせて。シミ抜きしてあげるから」と、たぶんネットで覚えたのだろう、すぐさま大根を薄く切ったものを台所から持ってきて、カレーが沁み込んでいっているまさに今という生地を、たたたたたたたた、と細かく叩きだした。

 おかげでカレーがついた箇所は大根の水分を吸って青が濃くなっただけになり黄色いシミは取れたように見えた。妹は、芸事がいつも通り上首尾に終わった女手品師が顎を上に少し持ちあげ観客に讃えられるのを待っているかのような誇らしげな様子で微笑んだ。


 ひとしきり妹に礼を言い、「よかったねえ」と二人で言いあってTシャツをそのまま放っておいたら、乾いた裾のシミは、広がって滲んだ状態で浮かびあがって復活し、「あれまあ!」と勝手に虚を衝かれて慌てた二人は、ばたばた動いてまた大根の切れっぱしを準備し叩いてみたが効果は得られず、「それじゃあ」と急いで洗剤をつけて洗ってみてもシミはそこに張り付いたまま落ちなくなってしまった。

 妹は男の表情を窺いながらもじもじ身体をよじって申し訳なさげだし、男は男でずいぶん気落ちした。


 でも、普段着としてではあるが、男がまだ大切にそのプリントTを着ているのは、それが初めてできた彼女に告白するときに選んで着た勝負Tだから。ゲンがいい、というか、自分にとって良きものが宿っている、と男は信じている。

 ただ、彼女とは付きあい始めだけ盛り上がったがすぐにフェードアウトが始まり、いつしか関係は消滅してしまった。男は、その関係が消えてしまったのは『自然のなすがまま』のためだと思っている。どうやら、この世には個人の力ではどうしようもできない種類のしょうのないことがあって、自分の場合にあてはまったのがそういうものだったのだと思っている。


 つまり、相手にとって自分が退屈な存在ではなかったかどうかを省察してみるきっかけを男はまだ掴めていないのだ。

 

 短くも楽しかった記憶は甘くほろ苦い香りを漂わせながら胸をときおり疼かせ、胸の奥に巣食ったまま、そこから退こうとする気配は今のところまったく見せない。終わった恋愛のきちんとした省察がまだなのだから、記憶が不意に自分を生温かく浸してしまう瞬間があるのがどちらかといえば良いほうなのか悪いほうなのかにも、男は判断をつける段階にはない。だけれど、そうはいってもいずれ、自分自身と向き合うほうへと時間が男を促すだろう。そしてその時は、意外と近かったりするかもしれない。


 階下では、道路際の敷地内にたくさん咲いている青い紫陽花にはじける雨水がさわがしかった。

 道の左、なだらかな坂をさらにさわがしく駆け下りてくる若い女がいる。傘も差さず、駆け足よりも速く路面を蹴り続けている。セミロングの髪。細身。ネイビーのテーパードパンツ。白いTシャツ。肩から掛けた黒いサコッシュ。靴はグレーのローファー。歳は男と同じくらいだった。


 気付いた男は、誰にも分かるくらいに心を乱した。一瞬で吹きだす顔の汗と、記憶の闇への丸い入り口と化した口があんぐりと開いている。

 雨の中を走る女と、故郷でつきあったあの女との間に、その走る姿勢や容姿にとてもよく似て見える雰囲気があったからだった。

 窓ガラスに左手をつき、脂の浮いた鼻まで擦りつけるようにして、走る女を眺め下ろした。右手はなぜか、プリントTの薄黄色のシミの部分をむんずとつかんだまま力んでいる。

 やがて判る。眼下の女は、故郷で自分の彼女だった人ではないことを。拍子抜けしながら同時に覚える青い安堵。

 

 雨がさらに激しく打つようになり、聴こえる一切の雨音は世界を破壊する音を思わせた。だが、よく耳を澄ましてみると捉えられるのだった。灰色の轟音の支配を蹴破る、自律した女の走る足音が。破壊をまったくの別次元として躍動する新しい秩序の足音が。それは消えゆきそうでもある頼りなさだったが、でもしっかりと、地に足のついた確かな質感を宿してした。

 あっという間に、女は男の視界を駆け抜けていこうとしている。衝動的に男は部屋を出た。鈍くさいながらも、出来得る限りのスピードで階段を滑り降り、つっかけた靴を履き直し、通りへと躍り出る。そしてすぐさま、抜け目なく右手に持ったビニール傘を差す。男は右の方を向いて、走っていく女のまだそれほど遠くない後ろ姿を眺めた。アスファルトからけたたましく跳ね返り、きりなく空から落ちてくるそれら雨水が、女の姿を煙らす。

 気付けば、男はそろそろと女の後を追い、走りだしていた。

 



 「なに、あれ。濡れそぼちながら走る女」

 学校を早引きしてきた自称文学好きの男子中学生が、振り向きざま右頬を引き攣らせ嘲るように小さく呟いた。二十歳前くらいだろうか、びしょ濡れの若い女がこちらに向かって走ってくる。白いTシャツの揺れる胸の下に、白いブラジャーの輪郭がうっすらと透けて見える。

 「あれだ、女メロスだ」とまたもや馬鹿にするように笑った。暴君ディオニス王と約束をして親友を身代わりにし、その親友と約束を守るべく走り続けたメロス。この女も誰かを身代わりにしたのかな、早く目的の場所に着かないとえらいことになるから走っているんじゃないのか。借金の身代わりかな、あはは。完璧に差した黒い傘による完璧な平和の中、彼の度の強い眼鏡にはほんの一粒の水滴すらついていない。眼鏡の奥に佇む目はいくぶん冷たい。


 「うわ、ヤバ」

 やがて、ペースを乱すことなく女が中学生の横を走りすぎていった。あれは、必死だった。できれば見たくない、様子であり場面だった。


 雨粒を身体ではじきながら必死に疾走する女が独特な存在感をまとって、不覚にも美しく見えてしまったのは否定できない。そんなのはダサいはずなのに、なぜ美しく見えたのだろうか、と中学生は考えようとしたが、考え始める前にきっと本能的になのだろう、咄嗟に考えを止めた。もしもそこのところをしっかりと考えてしまったら、今よりもずっと生きにくくなるような気がしたからだ。

 

 でも、もしや、とちょっとだけ思う。

 もしも考えた末、生きにくさにべったりと憑りつかれてしまったとしても、あべこべに、ずっと魅力的な別の生きやすさを見つけるのではないだろうか、と。

 

 はっと我に返って、走る女を目で見送る中学生は、この女には雨が似合うと思った。

 メロスは暑さに苦しんだ。お姉さんは雨の冷たさに苦しんで走るといい。それがお姉さんのオリジナリティで、だから似合うんだ、と。

 

 遅れて、ひょろりと痩せた男がビニール傘を差しながら女を追いかけるように走り抜けていった。女にくらべて、脚の上がり方がだいぶ低い。中学生は、男がどことなく不憫にみえて、見て見ぬふりをしてやり過ごした。雨は、まだ止まない。

 

 

 

 四十歳を過ぎ、前厄に足を踏み入れたばかりの営業職の男が、風に吹かれたなら枯れ葉のように弧を描きながらどこかへ吹き飛んでしまいかねないくらいの生気の無さを隠そうともせずに歩いている。申し訳なさそうに濃灰色の傘を開き、背を丸め、足元にばかり視線を漂わせている様子は、長い時間迷子になり寄る辺を失くした子どもめいていた。そんな営業職の男が、前方から誰かがが駆けてくる音を聴いた。どことなく気に障ったので、迷惑そうに視線を上げた。

 「なんだ、傘も差さずに。びしょ濡れで何を急いでいる?もしかして、気がおかしいんじゃないのか?」

 しかしその瞬間、視界に捉えた女の真剣で力強い眼差しが、営業職の男の胸を一瞬で焦がしつける。そのくらい眩しくて、気持ちがひりひりと痛んだ。

 

 女の体型はすらりと整っている。営業職の男は毎日、酒を飲む。最近、たるんだ下っ腹がせり出るようになってきた。独りで酒を飲みながら、昔を懐かしみ、今を嘆き、未来に震える。その繰り返しの日々になって久しい。いや、甘く優しいはずの昔の記憶にすら、針先でつつくように責め立てられることも少なくなくなってきた。

 

 「危ないな」

 ペースを落とすことなく、営業職の男の横を女が通り過ぎた。

営業職の男には、すれ違いざま、女がすこし目を伏せたように感じられた。こんな自分が、ああいう女に意識されたのか、とその意外さに驚く。若い女からゴミを見るような目つきで見られたことは何度もある。それ以上に、道端に落ちている石ころと同じ扱いで、無関心さにさらされることのほうが多い。あるいは背後でこっそり笑われているのかもしれなかった。

 

 営業職の男は、ああ、そうだったか、と胸の裡で呟いた。自分の苦しみのほとんどは、孤独、いや、孤立にあるのだ、と続けた。

 たぶん、自分は他人に関心を持ったっていいのだし、他人から関心を持ってもらいたいと望んだっていいのだ。そこで想念が結晶化したかのように頭に浮かんだ『絆』なんていう言葉が小恥ずかしくて、湯気立つのではと思うくらい体温が急上昇した。

 恥ずかしさに身をよじるくらいなら、それよりもいつものように目をそむけていたい。でも、小恥ずかしさから目をそむけるほうを選んで生きてきたから、今、自分は孤立してしまい苦しいのではないのか。ならばいったいどうして、なんのために、俺は苦しみがこんこんと湧きでる“孤立する泉”を糧として選んだのだろう、と深く考えてみようとしたが、いきなり答えの尻尾が見つけられるとは思えず、とりあえず忘れないよう付箋を貼りでもするかのような感覚で注意をし、保留として、現実に戻った。

 

 女の姿は小さくなっていった。小気味よく、乱れぬリズムで女の脚は回転し続けていた。


 営業職の男は、この女には雨が似合うと思った。

 もっとびしょ濡れになれ、人生とはそういうものだし、今日、お前はほんとうの人生を知るよい機会のなかにいるのだ、と。それは、営業職の男なりの精一杯のエールだった。近頃なかった肯定的な気分がゆっくり胸に満ちていくのを感じていた。


 そこに、びちゃりと大きな水たまりに片足をつっこみ、ひるんだところを立て直してこちらへ走ってくる痩せた若い男が見えた。走り方のバランスも悪くて、ちょっと滑稽だった。すれ違ったあと、営業職の男は、ふっ、と吐息だけで笑ってしまった。そして、小さくではあっても、笑ったのはいつぶりだろう、と珍しがるのと同時に、痩せた若い男に気兼ねしつつ少し喜びもした。俺も、たぶんお前も、今日は人生を知るときなんだろうな。軽く微笑んだ表情の営業職の男は、まるで雨雲の隙間から射す一筋の光線を見たような気持ちになっていた。

 

 

 

 夕飯の買い物を終えた三十歳過ぎの女が、駅前のスーパーの入り口でタータンチェック柄の傘を差そうとしている。水色のワンピースにジージャンを纏い、口紅の赤が強い。今日は仕事が休みだった。

 女は高校を卒業してからずっと水商売の仕事をしている。生来、お酒には強かったし、それなりに身体への配慮もしてきたので、今まで身体を壊すこともなく続けてこられた。そして、自然と幾多の様々な恋愛を経てきた。不倫も二度した。二度とも、修羅場を迎える前に相手から別れを告げられた。思い返せば、悔しい恋ばかりだった。

 店に来るには風貌も物腰も清廉な七十歳くらいの年齢の客と、女はプラトニックな関係でずいぶん仲良くしていた短い期間があったが、実はそれがもっとも幸せな時期だったのではないかと、遍歴を吟味するといつも思うのだった。

 

 水商売の女が傘を差し、スーパーの入り口から一歩外へ歩み出したところで、ふと異常な気配を感じ取り、左の方向へ目をやった。若い女が傘も差さず濡れねずみの態でこちらへ走ってくる。なかなかの速度でこちらへ向かってくるので、水商売の女は余計に面食らった。しかし、呼吸はけっこうはずんでいて、はっ、はっ、という息を吐く音が耳に届いてきた。

 

「さては、男ね」

 水商売の女はそう胸の裡で閃かせながら、両眼を鋭く細めて走る女を睨んだ。恋敵か、浮気された相手か、もしくは浮気した彼氏本人に復讐しにいくために走っているのではないかしら。水商売の女は、これはおもしろい場面に遭遇したものだ、と弾むような楽しい気分になったが、太陽に雨雲がかかるかのようにそれはすぐに翳り始める。

 この女は恋に真っすぐだから、こうして雨の中を走っているのだろう。そう考えてみたら、そこに若い頃の自分が思い起こされて、重なってしまったのだ。自分にも、そういう激しい情熱に突き動かされた、報われない恋があった。そして情熱というものは、ふつふつと漲っていくもののない今となっては、どうやら私には失われた性質のようだ、と小さく嘆息した。

 「歳は取りたくないものだけれど、仕方ないわね」

 水商売の女は目の前を駆け抜けた若い女を羨ましげな目つきで見送ると、小さな石ころを蹴る。

 

 なぜ、情熱は失われたのだろう。自分に問いかけてみる。案外すぐに答えは見つかった。生きていくことに疲れてしまったのもある。でも、本当のところは違う、こっちのほうだ。それは、もう若くない、と自分で決めつけたからだ。その歳じゃもうカッコ悪い、と他人の目を気にしたから。

 水商売の女は、自分はこれまで強くたくましく生きてきたと思っていたが、こんなに怖がりな面もあったのだなあ、と人知れず日陰でしおれた花を見つけたみたいに慈しんであげたい気持ちになった。

 さほど迷惑じゃなければ、自主規制なんてすることはない。他人様のルールに従って生きていくなんてつまらないじゃないか。たまにそんな、地に足をつけて前向きに攻めて考えるのが、水商売の女のその美貌を抜かした内でもっとも魅力的な美点として、これまで多くの男たちを惹きつけてきたのだった。


 走り続け濡れ続ける女の後ろ姿を再びじいっと見つめながら、水商売の女は、彼女には雨が似合うと思った。

 雨に濡れるのにも構わず走る執念、その情熱は、怨霊のようにもみえる。それでこそ、女よ。女の怖さを思い知らせてやりなさい。


 水商売の女は真っ赤な唇を閉じたまま口角を上げて微笑むと、走る女とは逆方向へ歩き出す。雨もたまには悪くないものね、と青く濡れた街並みに気分をよくしたところで、ぎょっと目を瞠る。若く痩せた男が大きく口を開き、苦しげにぜえぜえと息をしながらビニール傘をあみだに差して迫ってくる。傘を差しているわりに、かなり雨に濡れていた。また、脚の上がりが悪くて、たまに靴の底を路面に引き摺っているのだった。

 「この男のほうは理解不能ね」と無表情になった水商売の女はすぐさまそこを立ち去るため、足を速めたのだった。

 


 

 雨は勢いを弱め、細くなった。

道行く人々の手の、様々な柄の傘へかかる重苦しさが緩くなる。まるで奇襲攻撃から街を防衛する、その成功が近づいてきたフランス国民軍のように、それぞれが誇り高さを取り戻し、活気づき、にぎやかさを取り戻しつつあるのだった。

 

 アパートを出てからずっと走り続けてきた若く痩せた男は、自分以上に長く走り続けた女に今、追いつこうとしている。喋れないくらい、息が上がっていた。パンパンに張った太ももとふくらはぎの泣き言と文句が激しい。それでも一歩一歩確かに、足を運んで男は女に近づいた。女は前方で立ち止まっている。

 

 女の行く先を塞ぐ黄色と黒に塗られたバリケード。その前に白い看板が立ち、赤い文字で『工事中につき通行止』と書いてある。女は作業員の男に何か話しかけている。だが、作業員の男は、女を追い払うような手の振り方で応え、相手にせず身体を翻そうとしている。

 若く痩せた男は思う、万事休す、と。と同時に、やっと立ち止まって休める安堵、女を気の毒に思う気持ち、そしてきちんとした正当な終わりにたどり着けなかった不満足なもどかしさなどを感じた。

 

 女は両膝に両手を置き、身体をくの字に曲げたまま次の行動を起こさない。眉をハの字に落としたびしょ濡れの顔が、近づく若く痩せた男にもだんだんとはっきり見えてくる。

 工事現場に目を移すと、迂回路を示す看板があった。女は前方へ曲げていた背を起こし、工事現場の先にある建物をうらめしそうに眺めた。建物は『聖ジャンヌ病院産婦人科』。

 男は、女がこれだけ走り抜いてきたのだから、彼女自身が妊娠しているわけではないだろうことはわかった。女のそばまで歩み寄るかたちで、男も立ち止まる。迂回路はいま走ってきた道を引き返しもするし、かなり遠回りになるようだ。


 「……姉が、あぶないんです」

 さめざめと降る、ほとんど音もなくなった雨を背に、二人の間でその言葉はしばらく漂い続けた。

 

 荒い息を飲みこむようにしながら、男は作業員に声をかける。この方、あそこの病院に、用が、あるんですよ、お姉さんが危ないんだ、そうです、これって、重大な理由、でしょ、どうしても特別に、通してあげて、ほしいんですよ。

 「だめだめ。そんなことしたら、規律違反になる」と作業員には取りつく島もない。男は作業員につかみかった。


 なにをする、と作業員は一瞬狼狽したが、冷静に考えてみるとこの男はひ弱そうだと判断できたので、作業員のほうからも男につかみかかり、道路上に男を組み伏せようと力をいれた。男はへなへなと屈しそうになりながら、女に、さあはやく、今のうちに、と通行止めの道を突っ切るよう促した。女は躊躇している。なんだなんだ、と別の作業員が二人、こちらへ歩いてくる。若く痩せた男は金切声をあげて、再度女を促した。

 

 女はひとつ、しっかりと頷くと、冷えきった身体を奮い立たせ、震える脚をたたいてからバリケードを越えた。焦り出す二人の作業員たち。彼らは「おい、入るな!」とドスの効いた声色で警告を発すると、女を捕まえるために小走りになった。

 若く痩せた男は、だめか、これは、と呟く。自分も、女も、取り押さえられてしまう。天を仰ぎ、わあ、と叫んだ。


 三つの人影がバリケードを越えたのはその時だった。道端には、開いたままの三つの傘が、持ち手を上空に向けた格好で投げ捨ててある。

 

 三つの人影が女のそばまで走っていった。三人は女を一瞥すると、女の横をすり抜けて二人の作業員に通せんぼした。三人は学生服を着ている。彼らはたまたま居合わせた男子高校生たちだった。高校生のひとりは女に向かって、

 「なんかさ、俺たち、味方になりたいと思って」と爽やかに微笑んだ。

 

 それを見た、若く痩せた男にしがみつかれている作業員が、男を振りきって女のいる方へ向かおうとする。そこへ今度は、ひとつの人影が通せんぼする。ショートカットの髪の女子高校生だった。

 「お姉さんって、何故か助けたくなった。そういう雰囲気出してるんだもの」

 いつのまにか、歩道の上には、開いたまま捨てられた傘が四つになっていた。

 

 作業員が「邪魔するな!」と威嚇したので、女子高校生は気圧され、たじろいでしまったが、瞬時に気持ちを立て直すと強気に出て「私をはねのけていける?」と構えた。

 そこで、一度は振り切られた若く痩せた男が、作業員の足にしがみつき動けなくした。離せ、お前、なんなんだと作業員は歯がみする。若く痩せた男は、それから言葉になっていない言葉を大声で発したのだが、女子高校生にはその意図が伝わり、わかったよ、といって、女のもとへ駆けていった。


 女は足を引きずるように、工事現場を縦断しようとしている。駆けつけた女子高校生が女に笑顔を投げかけて肩を貸す。男子高校生たちはうまく周りをとり囲んで、作業員の足止めをしていた。女は力を出し尽くせるまで振り絞り、肩を借りながらくしゃくしゃな表情で歩いていく。それは泣いているのかもしれなかった。しかし、雨が化粧を全て洗い流し、顔をびしょびしょに濡らしているのだから判別がつかない。

 

 若く痩せた男に足を抱きつかれたままの作業員は、この状況にたまらなくなって「お前たち、警察を呼ぶぞ!警察だ!」と叫び声をあげた。

 すると、作業員たちにとっては好都合なことに、背後から偶然通りかかったミニパトカーがそこに停車した。中から警察官が落ちついた態度で降車し、こちらへと歩いてくる。


 しかし、女と女子高校生は、通行止めの区間を渡りきるところだった。二人は最後のバリケードをまたぐ。女は若く痩せた男のほうを振り向いた。ありがとう、と小さく言うのを、女子高校生は確かに聞いた。

 

 若く痩せた男は地べたにどたりとくずおれながら作業員にまだしがみついている。顔は泥だらけだ。近づいてきた警察官に何か言われると、作業員をつかんだ手を離した。また何か言われて、脚をわななかせながら立ちあがる。このまま、警察署へ連行されるのだろう、という小さな諦め。取り返しのつかないバカなことをしてしまったのかもしれない、という小さな悔い。

 それでも男は「よかったんだ」と心から大きく肯くことができたし、それとは別に、青いTシャツのゲンの良さだなとも喜び、満ち足りた気分にもなった。

 

 女子高校生に肩を借りたまま、女は産婦人科病院の敷地へと入っていく。男子高校生の三人も、男のそばに来て、素直に警察官に従った。その後、病院から女子高校生も出てきて、男と男子高校生の中に加わった。

 


 

 当たり前だが、こっぴどく叱られた。でも、警察署を出てくる彼らの表情は、ようやく止んだ長く激しい雨の後の空のように、澄んで明るかった。立派な虹のかかる空だった。

 

 お姉さんと赤ちゃんは無事だったろうか。若く痩せた男は、拭えない不安を持ち続けていた。

 「虹はこの世とあの世をつなぐ橋とも言われてなかったかな」

 男は虹の美しさをよそに、隣に並んだ女子高校生にそう話しかけていた。死者が虹を伝ってあの世へ行くというどこかの地域の伝承を誰かから聞いたことがあったのだ。

 「じゃ、赤ちゃんに魂が宿るための虹じゃない?」

 女子高校生は屈託なく微笑む。楽観的な未来を信じ切っている。でも男もそのとき、そうかと納得した。たぶんそうなんだ、いや、きっとそうなんだ。

 


 

 男は走る女に自分では思いもつかないような種類の希望を期待していたのかもしれなかった。どこに辿り着くのか、何が待っているのか、何を全うするのか、何をエネルギーとしているのか。それらを知ることを希望として、期待を抱いたのかもしれない。

 でも、最後まで見届けてみれば、走る女はごく個人的な理由で走っていたに過ぎなかった。その感情の強さには凄みがあったけれど、そこにあった原動力は自らの希望に沿う種類のものではなく、ある種の祈りや願いだったのだ。とはいえ、祈りや願いにそれほどの力があるなんて、初めて知ったことだったし、そこに真摯さの素晴らしさをも知った。

 そしてその真摯さを知った場所から見える景色は、これまでとはちょっと異なるものだった。今まで見てきたものを思い返すと、それらは色褪せて見えて、とてもつまらなかった。そんなつまらないものしか知らなかった自分は、きっと他人からもつまらなかっただろう。ああ、付きあっていたあの彼女は……。唇を固く結び直した表情でそう思う。

 

 女には雨が似合っていたと男は思った。本当によく似合っていたと。その走る背中を回想しながら、男はまた大きな虹を見上げた。

 

【了】

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