少年の詩

@carrotgentleman

第1話

 鳴ることを忘れた電波時計の7セグメントディスプレイが午後二時を報せていた。南中を通り過ぎた太陽がカーテンのすき間から机を照らしていた。日の漏れた部分のみが散らかった独り暮らしの薄暗い部屋を切り取って克明にしていた。一つしかない窓は道路に面し人々の会話をわずかに通していた。

やっとのことで体を起こし机の上を手探る。すぐに紙の直方体にいきついた。

「あっ」

 空っぽのソフトボックスを握り潰して気が付いた。昨晩で最後の一本を吸ってしまっていた。

 万年床から抜け出して正体不明の汚れのついたたコートを羽織る。中はジャージだがそんなことを気にする時期はもう過ぎた。この時間なら授業中で近所の学生も居はしないだろう。

 閑散として片付いているというよりも物がないという方が正しい六畳間。カーテンは乱雑に閉められ最後に開けたのはいつか、もう覚えていない。

 つっかけに裸足をつっこむと体温が奪われていく。今は冬なのだと久しぶりに思い出した。

 金属のドアノブも氷のようで今すぐにでも手放したかった。手のぬくもりでドアノブが暖まり始めたあたりでようやく扉を開いた。開け放たれた玄関から大量の日光が体中を貫いていく。思わず手で顔への日を遮った。眩しさで目が焼ける。頭がずきずきと痛む。これだけで死んでしまいそう。どうにか踏み出した足の裏を健康サンダルのいぼが刺激した。


 思惑通りコンビニは空いていた。カップ麺の上にワンカップ、それと原色だらけで目のやり場に困る玩具入りお菓子を乗せてレジに向かう。そこで見たくないものを見た。

 どこにでもいそうな女子大生の三人組。その中で一番背の高い女性。光に照らされると淡く金色に光る長いポニーテール。いわゆる普通の大学生然としたキャッチャーでシンプルなナイロンセーター。長い脚によく似合うシルエットのわかるデニムパンツ。忘れそうになっていたその端正な顔が振り向いた。

「あ、トモじゃん!なんか久しぶりだね。近くに住んでるってのになかなか会わないよね。」

「あれ、なんでこの時間に……。」

「なんでって、空きコマだからこの時間。それよりトモは最近どう?そろそろ彼女できた?」

「あ、まあ……ボチボチ、かな……。」

 まくしたてるように話かける彼女にタジタジになりながら馬鹿みたいな返答をする。

 久しぶりの彼女の顔はとてもきれいだった。月並みだがそんな感想しか出てこなかった。薄めの化粧は彼女の生まれつきの整った顔をとてもよく映えさせていた。

「ボチボチってホントに答える人初めて見たかも。」

 ケタケタと愛想笑いをしている彼女をただ呆然と眺めていた。沈黙が怖くて寝ぼけたままの頭を必死に働かせ次の話題を探る。

「スミレ!行くよ。」

「ごめん、今行く。」

 友達に呼ばれそそくさと会計を済ませ、彼女は僕の前を横切っていく。

「そんなお菓子買うなんてかわいい趣味してんね。」

 そんな捨て台詞を吐いて彼女は自動ドアを潜っていった。

「次でお待ちのお客様。」

 店員の声が聞こえるまで太陽に燦々と照らされた彼女の後ろ姿を見つめていた。

「タバコの52番一つ。」

 いつもの番号をいつも通り口にして千円札と小銭を少々。会計を済ませてコンビニを出る。店先の灰皿の横を陣取り買ったばかりのタバコの包装をやぶく。銀紙を片方だけ破り、もう片方を軽くたたいて一本だけつまむ。口に咥えコートのポケットをまさぐる。息を軽く吸いながらライターの火をタバコに近づける。いつもの所作、やり飽きた行為。ルーチンワークを終えると静かに煙を吐き出した。風がコートのすき間から入り込んで思わす身震いした。ポケットに突っ込んだ手は冬の乾燥でささくれていた。

「……まっず。」

「え、じゃあなんで吸ってんの?」

 突然の声に振り向くと、先ほどの端正な顔が大きな目を見開いて僕を見つめていた。急いで火をつけたばかりのタバコを灰皿に押し付けた。

「あれ、帰ったんじゃないのか。」

「買い忘れ。シャーペンの芯きれてて。」

 ほんの少しの沈黙が永遠のように感じられる。息ができなかった。

「てか、なんでさっきはあんな素っ気なかったの?」

「いや……お前友達と一緒にいたから邪魔しちゃ悪いかなって思って……」

「別にそんなの気にしなくていいのに。」

 彼女の妙な優しさが胸を痛めた。

 

彼女との出会いは小学校の頃だった。クラスが度々同じになったり、何度か遊んで彼女の家に行ったこともある。

高校になってからは学校が離れ疎遠になっていた。彼女が同じ大学に入ったのを知ったのは二回生の夏だった。友達伝いから別の学科にいるらしいと聞かされた。分け隔てなく接して人懐っこい性格から学科の中でも人気者らしいという。友人は羨ましそうに語っていた。そんな人気者と付き合いがあったことが羨ましいのだろうが四年も顔を合わせていなければ流石に会話も気まずかろう。こちら側から連絡を取る気にはなれなかった。その日は妙に酒が進んでいた。

それからスミレに再びあったのは同じ年の秋、長い夏休みが終わり文化祭に向け校内が俄かににぎわい始めたころだった。学区内をフラフラと歩いていた僕にスミレが気づいて話しかけてきた。

「あれ、もしかしてトモ……」

「え、あ、あの……」

 数年ぶりにあった彼女は化粧っけが増して昔の活発な女の子という印象から余裕ある大人の女性という感じに様変わりしていた。長い髪は金に染められているがそれが違和感を持つことなくしっかりと彼女の一部になっている。シルバーのネックレスと控えめなピンピアスが軟派な男を寄せ付けない雰囲気を出していた。正直誰だかわからなかった。

 困惑して歯切れの悪い僕を見越して彼女のほうから会話を促した。

「もしかしてわかんない?私だよ、スミレ。中学まで一緒だったでしょ。」

「あ、スミレかぁ。どおりで……」」

「どおりで?」

 思わず綺麗だと言いそうになったが流石にそんな気恥ずかしいことは言えなかった。

 それから最近の身の上話や学校のこと、共通の知人の近況などで多少会話をした。そんな話の流れで僕が大学近くのアパートに住んでいることを話した。彼女は冗談めかしく今度遊びに行くね、なんて言ってその日は別れたのだった。

 それから何度か近所や大学内で顔を合わせることがあり、世間話というにはあまりにお粗末な会話をそのたびにしていた。

 遊びに来る?なんて僕から言う勇気はなかった。


 「ねえ、聞いた話なんだけどトモ最近大学行ってないの?」

 思わず咳き込んで喉を傷めた。今一番触れてほしくない話を一番知られたくない人からされてしまった。回らない頭を全力で回すがなかなかいい言葉が思いつかない。

「ホントなんだ……。まあ私から言うことじゃないし耳にタコできてるだろうけど学校行きなよ。折角高い学費払ってんだからもったいないよ。時間も、経験もさ。」

 本当に耳にタコができるようなセリフだった。分かっている。そんなこと百も承知だった。自分自身が自分自身のやるべきことを分かって、それについて一番長く考えている。行かなければいけないという焦燥感はきちんとある。けれど夢も目標も何もかも進まずに、ただ慢性的に続く日常に耐えられないでいた。

「まあトモなりに考えがあるんだろうから深くは聞かないけどさ。もしなにか悩んでどうしようもなかったら私に話してよ。聞き手ぐらいにはなるからさ。」

 そう言うと彼女はコンビニの入り口に向かって歩いて行った。

「あと煙草やめたほうがいいよ。健康に悪いしモテないよ。」

ニッと笑ってスミレは店内へと消えていった。かける言葉も、言い訳もなにも思いつかなかった。

もう一本タバコを取り出し口に咥えるが、そのまま火をつけずに灰皿に投げ込んだ。白い巻紙が吸い殻で黒く濁った水に汚されていくのを眺めたあと、足早にその場をあとにした。


ドアノブに手をかけ鍵を締め忘れていたことに気づいた。コンビニに行く程度だと慢心して田舎住みの頃の習慣が抜けず鍵をかけなかったのは不用心だと承知はしていた。

「ただいま。」

 返事のないはずの暗い廊下にお決まりの挨拶をする。返事は本来、ないはずなのだ。

「おかえりー。」

 独り暮らしの部屋からは返ってこないはずの返事が聞こえる。

 それは幼く少し舌っ足らずが残っているが、凛として響く声だった。

「あれ、起きてたのか。お菓子買ってきたんだけどこれでいいんだっけ。」

「ん、そーそー。あんがと。」

 けだるそうな感謝を述べながらテトテトと軽い足音が近づいてくる。明かりのない部屋へと続くキッチンを兼ねた短い廊下で、亜麻色の髪の少女がこちらを見上げていた。目をこすりながら僕のもつビニール袋を品定めするように眺めている。

 全体的に色素が薄く、四肢は儚く折れてしまいそうなほど細くて長い。髪は腰まで届くほど長く、目に少しかかっている。華奢という言葉がピッタリと当てはまる。少女はその小さく真っ白な指で僕の手から菓子だけ取り出してそそくさと日の明かりだけが照らす部屋へと帰っていく。

 服装はどこにでもいる小学生が休日に友人と遊ぶ時に着るようなダボダボのセーターと野暮ったいロングスカート。けれど日の漏れる部屋へと向かうその後ろ姿はどこか懐かしさと同時に胸の痛みを抱かせる。

「なんだ、またこれかぁ。」

 乱雑に開けた包装紙から欠けたウエハースが覗いている。少女はそんな菓子には目もくれず中にあったおまけのアニメのカードに夢中になっていた。が、それがすでに持っているものだと分かるや否やすぐに興味をなくしていた。

「それ食わないのか。」

「まあ食べるけど……食べる?」

「じゃあ。」

 そう言って焼き菓子を手にとる。ボロボロとカスが落ちるが気にせず口に運ぶ。サクッと軽い音とともに口の中が甘ったるさと乾燥に支配される。

「久しぶりに食べたがこんなもんだっけ、もっと美味かった気がするんだけど。」

「ウエハースってそんな美味しいものじゃないでしょ。」

「そんなもんか。」

「そんなもん。」

 ぶっきらぼうな会話は内容がないままに終わる。電気のスイッチを入れるとタイムラグで部屋が明るくなる。時刻はまだ二時半だがカーテンを開けるのは躊躇われてしまうのでいつもこの部屋の光源は電気のみだ。

 少女は部屋の隅で壁を背もたれにしながら少女漫画雑誌を読んでいる。それを一瞥して炬燵の前に腰を落とす。天板の上はものが散乱しているが辛うじて真ん中あたりには作業するスペースが残っている。そのスペースにはすでに先客がいる。

 黒い瓶には液体が並々とあり、先が金属の木製のペンが数本、端に転がっている。極小のドットの並んだ薄い紙が幾枚も定規やカッターの下敷きになっている。そして中央には鉛筆で乱雑な線がほんの少し引かれた、真新しい紙が横たわっている。見る人が見ればわかるような、典型的なアナログ漫画を描くための机だった。


「……うん。」

 意味もなくため息が出る。この机に向かってから既に二時間ほどたっているが原稿用紙は一枚だって黒くなる気配はない。構想はあらかた頭の中にはある。しかし実際にそれを現実にアウトプットするとなると途端に手が止まる。これでいいのかと細かな自問からはじまり、そもそもこれは面白いのか、他人が読んで面白いものではなくただ自分がやりたいことをやっているだけのエゴではないのか、いや漫画なんてそんなものだ、と思考の堂々巡りが始まる。こうなると完全に手が絵を描くことを拒否し始める。プロットを書き出した紙を何度丸めてゴミ箱に投げつけたかもう数えられない。

「今度のはどんなの?」

 漫画をあらかた読み終えやることがないのか少女は部屋の隅から僕の後ろへと移動し机の上を眺めていた。

「青年漫画……一応。」

「一応ってなに。青年漫画って具体的にどんなの?戦うの?恋愛?チューすんの?」

「する時はするんだろうけど今んとこその予定はないな。」

「うわー、エッチだ。」

「だからしないって言ってんだろ。キスごときでエッチってガキか。」

 ガキだった。

実際のところキスシーンまでいくかどうか以前に、そもそも結末すら決まっていなかった。

主人公は都内の私立大学に通う一人の男子。その男子は大人になりたいといつも考えていた。このままじゃいけない、はやく大人にならないとという焦燥感と不安のうちで悩んでいる。そんなある時高校時代の女子の後輩と出会い、将来について語り合う。自分の夢と彼女の夢。けれど彼女の夢があまりにも素敵で、自分の夢がとても惨めなものに思えてきてしまう。子供の独りよがり、理想を語るだけで自分の夢は七夕に笹に書き込んだ願い事と変わらないじゃないかと絶望する。そのあとにちょっと恋愛したり夢を追いかけ挫折する。その中で大人になるとはどういうことか、という問いにもがき苦しむ。夢と現実の狭間でさまよい続ける。様々な人との出会いと経験を経て少年はようやく答えを見つけて大人になっていく。大雑把に言ってしまえばそんな内容の漫画だった。

少しマイナーな月刊誌の賞への応募を画策していた。しかし一向に筆は進まず〆切までギリギリの状態だった。僕は基本的にラストを決め、そこに向かって物語を構築するタイプなので結末が決まらないことにはどうにも話を進めるに進められなかった。答えがまだ見つかっていなかった。

大人になるとはどういうことか、漠然としていて先人たちが何度も問うて、結局はっきりとした答えが今だにないこの問題が物語の骨子となる。結末は必然的にその答えだ。当然というか自分はそれがわからなかった。偉大なる先達者が導いてきた答えはどれも違っている。だから僕なりの大人とは、を自問し続けた。そもそも自分は大人なのか。成人はしているから法律上から見れば大人なのだろうが、そんな解答を求めているわけではもちろんない。欲しいのは納得感だ。ふとした瞬間に大人になってしまったなと感じ、すんなりと受け入れられるような納得できる解答。他者にそれを伝えてなるほどな、と言ってくれるような答え。それが欲しいのだ。

 そんな哲学めいた問答を繰り返しているうちに時間はずんずん進んでいた。ただの娯楽漫画にこんなどうしようもない問答を入れてどうするのだと思ったことはあったが、どうしてもこの漫画はこの問いに答えを出さねば完成しないし自分も満足しないというある種の直感があった。そうは言ってもそもそも完成しなければ意味をなさない。これが約三か月、学校にろくにいかず考え続けていたことであった。


ちょうど少女が現れたのも三か月前のことであった。原稿に取り掛かり始めたが一向に進まずダラダラと毎日をすごしていた。夏休みも終盤に差し掛かっていたある日、週に三日のバイトを終えて帰宅すると年端もいかぬ少女が暗い部屋の中で僕を出迎えていた。明かりは入り口から入る街灯の光だけ。僕の影が廊下に長く伸び、その中で少女はにっこりと笑っていた。ホラー映画のようで一瞬驚き後ずさりしたが、その姿をよく見ていくと自然と恐怖心はわいてこなかった。真っ白な肌と黄色がかった薄茶色の髪がわずかな光の中でもはっきりと見て取れた。今日と寸分たがわぬ姿で少女は僕の中でうごめいていた。

「おかえり。」

 今では慣れ親しんだ挨拶が少女の第一声だった。頭の中で湧いていた様々な疑問を蹴飛ばして僕の口から出たのは

「ただいま。」

だった。なんでこんな男の一人暮らしの部屋に女の子がいるのか。鍵は。歳は。君は。なぜ問いただすことをしなかったのか。本来なら動揺して逃げ出してしまったかもしれない状況を僕はすんなりと受け入れてしまっていた。その時のことは催眠術にでもかかったのだろうか、それか夢の中の出来事のように今ではあまり思い出せない。

 そこから少女との奇妙な共同生活が始まった。共同生活というには少女はただ存在しているだけで生活しているという感覚ではなかった。むしろ妖精か幽霊だか何だかの類が住み着いているといった感覚に近かった。僕から何か少女にアクションを起こすことは基本的になかった。ただ部屋が人一人分狭くなって時々喋る話し相手ができた。お菓子が欲しいの漫画が読みたいだの細々とした要望を言ってくることは多々あった。

彼女の行動は食って寝て遊んでいるだけだった。炊事洗濯などしてくれるのなら助かるのだが彼女は特に僕に対して有益な行動はしない。ただ部屋に鎮座し僕が買い与えたお菓子や雑誌で暇を潰し、眠くなったら寝て、起きたいときに起きる。

少女は食事をほとんどしない。僕の食事から好みのものがあったら一口欲しがるか、アニメの玩具入りお菓子を買ってこいと迫るだけだった。見た目から言えば育ち盛りでそんな食事ではやせ細ってしまうだろうに少女は三か月前と変わらず艶やかな肌と髪をしていた。風呂にも入らないし服もそのまま。本当に幽霊かなにかのように少女の姿形は三か月前から何一つとして変化していない。その上この部屋からは一歩も出ない。そして、少女は自分のことについて何一つ語らない。

 少女は僕に自分の名前すら教えていない。


「この人はなんで大人になりたいの?」

「え?」

 振り向くと少女は文章のプロットが書き殴られた紙切れをまじまじと見つめていた。

「なに勝手に読んでんだよ。」

「結局人に読ませるんだからいいでしょ。」

「う……ま、まあそうだけどさ。完成前は気恥ずかしいんだよ。完成したら見せるから。」

「ふーん、じゃあ楽しみにしとく。で、なんでこの人は大人になりたいの?子供じゃダメなの?」

「なんでってそりゃ……。」

「ん?」

 不思議そうな顔で見つめてくる。そういえばなんでこの男は大人に固執しているんだ。物語上主人公の男子には子供ということにコンプレックスを抱かせている。子供でいることが嫌で嫌でしょうがなくて、大人になりたいと喚き続ける。そんな姿は子供そのものだということに気づかずに。だがそもそもなぜ子供ということに拒否反応を示すのだろうか。幼少期のトラウマ?周りの同世代が大人に見えて自分が酷くみじめに見えるから?物語の発生源を僕は設定し忘れていた。それは結末が思いつかないわけだ。始まりが確固としてないものにしっかりとした結末なんて付けられるわけがなかった。この男はどうして、大人になることを切望しているのか。

「そうだな……そいつは多分……」


ピンポーン


 気の抜けた機械音が狭い部屋にこだまする。予想外の音に思わずビクリとする。しばらくの間我が家に来訪者はなかった。おおかた宗教勧誘か新聞契約の催促だろう。重い腰をあげドアスコープを覗く。

「え?」

 そこには想像していない姿があった。日の沈みかけたうす暗い部屋の前には数刻前に見た姿がもう一度立っていた。一瞬逡巡するがドアノブに手をかけ予想外の来訪者を出迎えた。

「スミレ……?なんで……。」

「心配になって来ちゃった。上がっていい?外寒くって。」

ああ、なんて言葉にならないような返事をしながら彼女を部屋に入るよう促す。

「割と綺麗なんだね。もっと荒れてるのかと思ってた。」

「荒れてるってなんだよ。」

 僕の特になにもない部屋をスミレはまじまじと見渡していた。いつの間にか同居人の姿は消えていた。隠れるような場所は特にない。いったいどこに行ってしまったんだろうか。

「これは?」

 彼女は机の上に煩雑に置かれた道具たちを指差していた。

「あっとそれは……漫画を描く用の道具……だけど。」

「え、漫画!?」

 そんなに驚くことかと思うほど彼女は大袈裟にリアクションをとった。

「そっか。昔から絵上手かったもんねトモ。じゃあなに、漫画家になるの?」

「なるっていうか目指してるだけだけど。」

「えーでもすごいじゃん漫画描けるなんて。私は絵とか描けないから……。」

 絵を描けないと卑下する彼女を僕はどれだけ尊敬の眼差しで見ていたことか。彼女は絵を描けないというが正直絵が描けてなんになるのか。友達と会話して笑って遊んで喧嘩して。そんな彼女にとっては当たり前のようなことを僕は何一つ出来ていなかった。彼女にとっての当たり前は僕にとってはどうしようもなく手の届かない夢物語なのだ。

「もしかして学校行ってなかったのってこれが原因?」

「そう……だよ。」

「そっか……。」

 彼女は適切な言葉を慎重に選んでいた。きっと僕を気づ付けまいと今言ってはいけない言葉と伝えるべき事柄を真剣に吟味している。その優しさが僕にはとても辛かった。彼女を悩ませていることに今すぐにでも謝りたかった。

「そっか……ならしょうがないね。夢のためなら学校なんて行かなくても」

「そんなことない。しょうがなくなんかないんだ、本当は。」

 彼女の言葉をさえぎって口をつく。しょうがないという言葉が妙に頭の中で反響していた。独白にも似た懺悔の言葉が次から次へと思い浮かぶ。

「今売れている漫画家できちんと学校に行ってた人はごまんといる。夢を理由にやめていいことじゃない。僕は言い訳が欲しいだけなんだ。夢なんて口触りのいいことで普通の人が当たり前に過ごす日常をやめるなんてそんなの弱いだけだ。子供のわがままと変わらない。」

「……?」

 息を飲んだ。どうしてこんなことを僕は喋っているんだ。それもスミレに。

「本当は……本当はそんなのやめちゃえってはっきり言って欲しかった。才能がないのはわかってる。僕は凡人だ。弱い人だ。まだまだ子供なんだ。だから……。」

「トモは漫画家を諦めたいの?」

「ち、違う……。」

沈黙が耳に痛い。

「いや、そうなのかもしれない。誰かに引導を渡してほしいんだ。そんなの無意味だ、無謀だって。夢を諦めるきっかけが欲しかっただけなんだ。」

「今さら?」

短い言葉がずしんと重かった。スミレの声は聞いたことがないほど低かった。静かに怒っているのがわかる。

「三か月、トモがこの部屋に一人でこもってる間に他の人はどんどん先に進んでるよ。勉強も資格も交友関係も何もかも。それを投げうってトモは漫画描いてたんでしょ。それを今さら捨てるの?三か月じゃない、絵が上手くなるためにこれまでずっと長い間頑張ったんでしょ。それを今さら私にやめさせろって言うの?」

 怒気をはらんだ声がGペンを震わせていた。

「それは流石に虫がよすぎるでしょ。私がここに来たのはトモがなんか深刻な悩み事でも抱えてるのか身体でも悪くしてるんじゃないかと思ってきたの。煙草も酒も前はしてなかったから。実際すごく悩んだんだろうけど、私はトモの悩みの助けになりたかっただけなの。夢の介錯までは出来ない。そもそもそれは人に頼むことじゃないよ。自分で決着つけることでしょ。それにトモが夢を諦めた後にいちいち私が原因だったなんて思い起こされるのはまっぴらだよ。そこまで面倒見れないよ。子供のわがままに付き合うほどお人好しじゃないよ、私。」

 しんと部屋が静まり返る。気まずい空気が漂う。今にでも逃げ出したい気分だった。

「大人になってよ、トモ……。」

最後の言葉が僕にとどめをさした。それは今一番言ってほしくない言葉で、今一番言われるべき言葉。

「……ごめん、ちょっと言い過ぎた。今日はもう帰るね。」

「あ、ああ……。」

「学校、行けたら行きなよ。過去問とか友達に聞いてあげるからさ。」

 そう言って彼女は玄関に向かった。見送ろうと廊下に向かう彼女の背中を追ったが、それがどうしてかとても遠く、いつまでも追い付かない気がした。品のある靴を履きながら彼女は僕を見る。

「えっとね……頑張って。」

「……うん。」

 それだけ言って彼女は扉を閉めた。二度と開かれることのない扉を僕は数分ずっと眺めていた。何かがぷつりと切れる音がした。


 部屋に戻ると真っ暗になっていた。電気はいつの間にか消えていた。自分で消したのか付け忘れていたのか判別できない。ゆっくりと机の前に腰を落とす。煩雑な机上をただ眺めることしかできなかった。どれがどのペンで、インクで、トーンで、原稿用紙なのか真っ暗で何一つわからない。大きく息を吸って吐く。自分の息が少し煙草臭かった。

「おしまい?」

 静まり返る部屋に少女の声。いつの間にか少女は僕の後ろにいた。

「うん……おしまいだ。全部。そうだよな……当たり前じゃないか……こんなことに気づかないなんて。」

もう一度息を大きく吸う。肺が痛む。

「何が大人とはなにか、だよ。そんなの大人になってみなきゃ分かりっこないじゃないか。」

 少女はくるりと回りながら僕の前、机を挟んだ向こう側に立つ。

「答えは出たの?」

「ああ……そうだな。答えはわかったよ。大人になるってことはさ。」

少女が天井を見上げる。なにもない暗い空を少女はまるで天使のお迎えがくるかのように微笑んで見つめていた。

「大人ってのは夢を……夢を見なくなったら。夢を見なくなったらもう人間は子供じゃいられないんだ。夢を見ない子供はいないさ。」

「それが答え?」

「うん、そうだ。これが僕の……俺なりの答えだ。」

 大人になりたいと願うのは子供にしかできないこと。大人は子供に戻りたいと嘆くことしかできない。だから大人とはと問うのをやめた瞬間に、子供の時間はぷつりと切れる。それが大人への合図。

俺はあの瞬間、スミレが扉を閉めたあの瞬間に全部諦めてしまった。スミレが家を訪ねてきた瞬間に脳内に淡い期待があった。ここで終わらせてくれるんじゃないか。答えのない問答を繰り返すという建前で三か月間ほぼ何もしてこなかったことに対する罪悪感と焦燥感。デッサンが所狭しと並んだスケッチブックと、とほんの数ページだけ描かれた原稿用紙、結末の抜け落ちたプロット。それらがたまっていって今にも潰れそうだった。だからそういったものを一掃してくれる何かがあるんじゃないかと突然の非日常に期待してしまった。そんな都合のいい話はもちろんなかったわけだが。 

「どうしよう、これ。」

大雑把な下描きの原稿用紙を一枚取り上げる。主人公とヒロインが口論をするシーン。まるで先ほどのスミレと俺のようだなんて感想が出てくる。

「それはとっておいてよ。」

 そう言ったのは少女だった。

「完成はいつだっていい。未完成だっていいよ。でも捨てないで。最後に、それだけは。」

暗闇の中で少女の姿だけはハッキリととらえることができた。少女の指先は薄くなって今にも消え去りそうだった。夢が終わりを告げたように、幻想もいずれは消える。この少女との物語に終わりが近いのだとすぐに気が付いた。

「そう、お別れか。ありがとう、俺のわがままに付き合ってくれて。」

「私は何もしてないよ。ただそこにいただけだもの。」

「でも……ありがとう、スミレ。」

スミレと呼ばれたその少女はゆっくりと後ろを向いた。

「さようなら、俺の少年時代。」

「元気でね、トモ。体には気を付けて。あまり無理はしないで。」

指先から肘、肩、そして首にかけてどんどんと彼女の姿が消えていく。はじまりがそうであったように、おわりもまた唐突に迎える。霧が晴れていくように少女の全身が徐々に見えなくなっていく。夢から醒める前にと最後の言葉を残す。

「ありがとう、初恋の人よ。」

「またね。」

 さようならと言わず、少女は跡形もなく消え去った。あの日の姿のままで。


案外あっけないものだったなと思う。終わりが来るのはわかっていたけどもしかしたら泣いてしまうんじゃないかと思っていた。いい夢から醒めた後にもう一度あの世界に戻りたいと駄々をこねる子供のように。けれど不思議と悲しみも喪失感もない。むしろ晴れやかな気持ちだった。

「さて……。」

まずは電気をつけてから辺りを見渡す。すると食べ残されたお菓子とその包装紙が床に転がっていた。食べかけのウエハースに手を伸ばす。

「うん、割と美味しいな。」

もさもさと頬張りながらプラスチックの包装紙をゴミ箱に投げ捨てた。



 その日は晴れていた。日はまだ昇ったばかりで山のすそから光が伸びている。眩しくて思わず手をかざした。コートの襟を引っ張って首元からの風を遮る。予報で今日は雪が降ると言っていた。どこまで信じたものだろうか。

「あれ、トモじゃん。おはよう。」

 聞き覚えのある声に振り向くとそこには長身の女性が立っていた。

「昨日はごめん、ちょっと言い過ぎたよ。でも学校行くようになったんだ。」

「いいよ、あれは必要なことだったから。むしろありがとう、おかげで決心がついたから。」

「そう、ならよかった。」

ほっと胸をなでおろすスミレの顔を朝日色の髪がそっと撫でた。

「そういえばあの漫画はどうなったの?」

「ああ、あれは。」

 雲一つない空を見て天気予報は噓っぱちだと笑った。吐く息を白く染めながら俺は答えた。

「いつか完成させる。そしたら一番に読ませてやるよ、スミレ。」

カラスが笑った。

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