エピローグ

Labyrinth

十二月二十五日 午後七時二十四分



 何度も塗り重ねてきた漆喰の壁と切妻造の太い梁に支えられた礼拝堂にクリスマスキャロルの歌声が高らかに響いていた。聖歌隊が立つ講壇の正面の壁には小さいながらも緻密で艶やかな薔薇窓がはめ込まれており、その下には聖書の場面が色彩豊かなステンドグラスによって描かれている。

 下手側の壁に目を向けると、ドイツはベッケラート社製のオルガンがそびえており、大人の身長を優に超える金属のパイプを震わせ、荘厳な音色を響かせていた。

 私立グリシーナ女学院の礼拝堂は普段、学校の式典や朝の礼拝に使われ、一般には公開されていないのだが今日はクリスマスだ。講壇の前にはLEDの蝋燭でイルミネーションが灯され、それを取り囲むように扇状に広がった信徒席には生徒の父兄や一般客で埋まっている。

 アリアは二階のギャラリーに寄りかかりながら、その様子を見るとはなしに眺めていた。


「こんなトコに居たんだ? 探したよ、探偵さん」


 不意に声をかけられ、ビクリと背筋がこわばる。

 やってきたのは、黒いハイネックのセーターに膝丈のダウンコートを羽織った九野創介だった。


「な、何の用ですか、九野さん? ココ、女子校ですよ?」


 アリアが問うと隣に並んだ長身の大学生は困ったように苦笑いを浮かべた。


「何の用って……七時に迎えに行くって言ったと思うんだけど? 寮母さんに訊いたら部屋に居ないって言うし、グリシーナ《ココ》広いから、探すのにけっこう苦労したよ」

「ああ、そう言えばそんなことも言ってましたね」


 口ではそう言いながらもアリアの格好は昼間とは打って変わって、可愛らしいフリルの付いたブラウスにジャンパースカートの上からクリーム色のダッフルコートをまとい、チェック柄で揃えたミトンとマフラーはヴィヴィアンのお気に入りの品だ。


「せっかく事件を解決したお礼に清志会長が子満堂こまんどうのスイーツパーラーに招待してくれたんだし、行こうか?」

「ちょ、待っ――!?」

〈まだ心の準備ががががが!〉


 創介に手を取られ、アリアの足はますます床から離れられなくなってしまった。


〈姉さん、事件です……!〉


 クリスマス当日ともなれば半年以上前から予約が必要な子満堂本社の展望カフェで限定ブッシュ・ド・ノエルを突き回すことになろうとは、いかに〝名探偵〟でも予想できない。

 しかも彩夢は水泳部のクリスマス会とやらに行っているらしく、創介と二人きりなのだ。


〈クリスマスデートなんて、いったい何の話をすればいいのやら……!〉


 いつもは機械式時計のように精密で複雑なアリアの頭脳も、今夜ばかりはハムスターの回し車のようにカラカラと軽薄な音を立てていた。

 

「そう言えば、被害者が持っていたあの時計……あれって結局、誰のだったのかな? 被害者のものにしてはデザインが地味というか……」


 アリアが一人で空回っていると、唐突に創介がつぶやいた。

 車のトランクにしまってあったため、真犯人に持ち去られずに済んだ例の腕時計。その持ち主は一人しか居ない。


「ああ、アレは被害者の恋人・上野美子うえのみこさんの物ですよ。看護師という仕事柄、腕時計は必需品のはずなのに彼女の両手には血圧のメモしかなかった。つまり電池かベルトが切れて一時的に修理に出していたのでしょう」

「言われてみれば、本体に比べてベルトは新品だったね。でも、それが何で被害者の手元に?」

「宝石が埋め込まれていた文字盤を思い出してください」

「えっと確か十二、二、四――あ、もしかして?」

「そう、十二月二十四日。つまりクリスマス・プレゼントのつもりだったんですよ」


 派手なスポーツカーを乗り回していた被害者らしいキザなプレゼントだが、おかげで事件解決の糸口にもなった。いずれ事件が落ち着けば、警察から上野へと返されるだろう。


「なるほどね……ところでクリスマス・プレゼントといえば、ジブンからも探偵さんに一つ渡す物が」


 そう言って、創介は持っていた紙袋をアリアに手渡した。


「え?」


 中を覗くリボンとコサージュで綺麗にラッピングされた透明なケースが入っており、白磁と釉薬のコントラストが美しいコーヒーカップとソーサーのセットが見えた。


〈コイツ、まさかコレを渡すために時計の話をしたのか?〉


 勘の良い創介なら文字盤の意味や持ち主くらい気付いてもいいはずだ。

 真意を確かめようと見上げると、創介は少し照れくさそうにはにかんでいた。


「出会った時の印象が強烈だったからかな? 探偵サンというと、コーヒーのイメージが強くてカップにしてみたんだけど、どうかな?」

「ン、ま、まぁ……白熊のラテアートが乗ってないだけイイですケド」


 この時ほど、アリアは自分の捻くれた性格を後悔したことはなかった。


〈ちーがーうーだーろー! ちゃんとお礼を――!〉


「あ、ああああ、ありが――」

「随分、変わった形のイルミネーションだね」


 アリアが再び顔を上げた時、創介は下の礼拝堂を見ていた。

 その視線の先には講壇の下にLEDのイルミネーションで迷宮が描かれている。


「……アドベント・ラビリンスと言って、聖地エルサレムへの長く険しい巡礼の道を表しているそーデスよ」


 どこか不機嫌そうに答えるアリア。

 十一月三十日に最も近い日曜日からクリスマス・イブまでの約四週間、迷宮の入口から中心に向かって一日ずつ灯りを増やしていき、クリスマスの日にようやく聖地ゴールに光が灯るという寸法だ。同じような意匠はフランスのシャルトル大聖堂やドイツのケルン大聖堂などにも見られ、擬似的な巡礼体験として使われていたという。


「へぇ……迷路の発祥が教会だったなんて知らなかったよ」


 アリアの説明を聞いた創介は感心した様子で光の迷宮を指でなぞり始めた。


「細かいことを言うようですが、迷路メイズ迷宮ライビリンスは似ているようで違います」


 迷路は道が複数に分かれているのに対して、迷宮は基本的に一本道だ。螺旋のように何度も迂回しながらやがて中心部へと至る道程は一見複雑そうに見えて確かな秩序に基づいている。


「興味深いのはこの手のシンボルが中世の教会だけじゃなく、インドの寺院や古代ギリシャの粘土板からも発見されていることです」


 そう言ってアリアは財布の中から一枚の硬貨を取り出し、創介に渡した。


「これは?」


 黒ずんだ楕円形の銀板に細かい線で迷宮が彫られている。


「二四〇〇年前にギリシャで使われていた銀貨のレプリカです。前に姉からヨーロッパ旅行のお土産にもらいました。エーゲ海に浮かぶその小さな島にはかつて怪物を閉じ込めた脱出不可能の迷宮があったそうです」

「え? それってもしかして……」

「はい、有名な〝ミノタウロスの迷宮〟です」


 創介の言葉を先んじて口にしたアリアの双眸そうぼうは好奇心に満ちていた。


 古代ギリシャにおいてエーゲ海の覇権を握っていたミノス王はその驕りから神の怒りを買ってしまう。神の力で雄牛に恋をするようになった王妃パーシパエーはやがて人身牛頭の怪物――ミノタウロスを産む。

 そこでミノス王は神々の工匠ダイダロスに命じて脱出不可能の迷宮ラビリントスを造らせ、そこに怪物を閉じ込めたのだった。

 

「面白いと思いませんか? 古代ギリシャでは迷宮の中に居るのは怪物で、中世ヨーロッパでは聖地なんですから、全くの真逆です」

「探偵サンは相変わらず色んなことを知ってるね」

「ふふん、何でしたら古代ヒンドゥー教のホイサレシューヴァラ寺院に描かれた迷宮と輪廻転生思想の関連性についてもお話しましょうか?」

「ああ、それはクリスマスに話すにはぴったりの話題だね」


 すっかり話に夢中で、得意げに歩くアリアのために礼拝堂の重い扉を開けて持つ。

 最後にもう一度だけ大理石の床に描かれた光の迷宮を見た。

 実は創介が『珍しい』と言ったのは迷宮のことではない。最初にこの図形を見た時に真っ先に浮かんだのは人間の脳の断面図だった。

 迷宮の入り口とその横のくびれは脳下垂体と脳幹、複雑に層を成して折り重なるのは脳溝、脳梁のカーブも忠実に再現されており、やがて視床へと至っている。

 それは医学部に通う創介だからかその発想かもしれないが、同時に奇妙な符合も感じていた。


「善と悪が潜む迷宮か……」


 人間の脳もまた複雑怪奇であり、時に怪物を生み出してしまう。

 だが、英雄テセウスが王女アリアドネの力を借りて怪物ミノタウロスを退治したように、人間の脳が生み出す謎と狂気に満ちた事件も〝名探偵彼女〟が解決してくれるに違いない。

 創介は人々の迷宮の中心にあるのが、聖地であることを祈りながら礼拝堂の扉を静かに閉めたのだった。



                    了

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根岸アリアは殴りたい 原野伊瀬 @paranoise

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