第30話
「シリオン」
振り返ると同時だった。
「走るぞ」
そう言われて、手を引かれる。
「あそこに誰かいるぞ!」
走り出したその一瞬の影を見咎められ、後ろにいる兵士達から声が飛んだ。
それが瞬く間に、近くにいる兵士たちに広がっていく。
「いたのか!?」
「いたぞ! 十賢だ!」
捕まえろという叫びが夜の山の中に津波のように広がっていく。
アースの手を引きながら走っていたシリオンが突然叫んだ。
「マルカ!」
「なんなりと!」
「今回は我慢はなしだ! 好きなだけやれ!」
「そうこなくては!」
そう言うと、二人して、一秒の違いですらっと剣を抜いた。
そして前の木立の側にいた兵士の二人に近づくと、シリオンの一閃で体を切り裂く。続けてマルカが、横に立つ兵士の首を跳ね落とした。
「うわあっ!」
悲鳴がまるで松明に焼かれたように赤くなったアルペーヌの山中に響き渡る。
「アース、離れるなよ !」
そう叫ぶと、シリオンがアースの前を守り、マルカがアースの背後から囲むように剣を敵に向かって構えている。
「ふん―――三人対百九十か。陛下、どちらが先に百人斬りを達成するか勝負しないか?」
「負けたほうは九十か? かまわんが、時間に余裕はないぞ?」
「ここまで散々我慢させられたんだ。少しは発散させろ!」
そう言うと、素早く剣を下から上に振りかざした。それと同時に、アースを捕まえようとやってきた兵士の一人の胴を切り裂く。
「護衛がいるぞ!」
「刃向かうつもりか!」
「はん」
とマルカが鼻で笑った。
「反逆罪まで犯して逃げたのに、おとなしく捕まると思っているとはなんておめでたい連中だ」
「まったくだな。俺からアースを九年奪っただけでも重罪だというのに、取り返そうとは片腹痛い―――」
そう言うと走ってきた三人の兵士の首を、まるでわら人形を切り裂くように、一閃で引き裂いた。
「強いぞ!」
「貴様ら、何者だ!」
「ふん、すぐにわかる―――と言いたいが、お前らには時間がない」
まるで剣が答えだと言うように、首から胴体に向かって斜めに切り落とした。
―――すごい。
ごくりとアースは目の前で繰り広げられる剣戟を見つめていた。
剣にそれほど詳しいわけではないが、二人の強さが飛びぬけているのは理解できる。
周り中を松明を持った兵士たちに囲まれて、どこにも逃げ場はなくなったのに、それでも相手が躊躇うほどに二人の剣技は、常人の域を超えている。シリオンの銅(あかがね)色の髪が炎の光を浴びて、黄金色に燃え上がっているのが、さらに彼を禍々しくも神々しく見せている。
おそらく鬼神というものが実在するのならば、まさにこんな感じなのだろう。
「バラバラでかかるな! 集団でかかれ!」
一対一では被害が甚大になると踏んだのだろう。追っ手の指揮官が兵たちに向かって叫んだ。
それと同時に、今までそれぞれでかかってきていた兵士が、五人が一塊となり、こちらに襲ってくる。
「マルカ!」
「まかせとけ!」
相手が刀を振り上げたその一瞬にできる隙で、シリオンの剣が一人の横腹を切り裂き、その腹から抜いた勢いのまま腕を返すと、もう一人の腕を切り落とす。その間にマルカは僅かに身を屈めると、下から二人の胴をまとめて切り裂いた。
その合間に体勢を直したシリオンの剣が腕を持ち上げた姿勢のまま、最後のもう一人の首を横に剣で跳ね落とす。
「ふん。傾国は殺せないとわかっていると守るのも楽だな」
ふふんとマルカは笑っているが、普通ならばとてもそんな軽口が言える状態ではないはずだ。
松明は既に周りを取り囲み、三人にはどこにも逃げ場はない。
本当にここにいる全員を殺すしか方法はなさそうだが、そんなことが可能なのかアースでさえも予想がつかない。
そう思う間にも、シリオンの前から今度は別の八人ほどが押し寄せてくる。
「シリオン!」
目の前には、もう剣と松明をもった敵の姿しかない。
それが暗いアルペーヌの山の中で、闇の海に浮かぶ船団の大群の明かりのように浮かび上がり、まるで水底からやってきた亡霊のように兵士たちの姿を炎でゆらゆらと自らの影を揺らせている。
それが剣を持上げた瞬間、シリオンに下から上になぎ払われ倒れた。
ほとんど、剣を交えない。
剣を持ち上げる一瞬の隙、もしくは体の向きを変えようとした一瞬で切り伏せられている。
マルカもだ。相手のどこを狙えば動きを止められるのかわかっていて、最小の動きでそこを狙いにいっている。
どれだけの鍛錬を積めばそうなれるのか予想もつかない。相手の骨の動き、筋肉の流れ、そして致命傷となる臓腑の位置まで知り抜いて、それが動きの中で出てくるほんの一瞬の致命傷を逃さない。
帝国が短期間で領土を広げたというその生きた証明を目の前に突きつけられて、アースはごくりと唾を飲んだ。
けれども、やはり数が違いすぎる。
既に相手の死体は夥しい量になっているが、それでもまだ半数近くは残っている。
―――いくら、シリオンとマルカでもこの数は無理だ!
どんなに強くても、さすがに僅かに額に汗が浮かんできている。息は乱れていないが、これで最後までもつとはとても思えない。
「シリオン……!」
思わず祈るように名前を呼んだときだった。
「おのれ! お前たち! たった三人に何をてこずっている!」
―――やめて!
思わずアースは口に出さずに叫んでいた。
「十人でも駄目なら、全員でかかれ! 全員でかかればどんな手錬だろうと、どうすることもできん!」
―――嫌だ!
全員が剣を構えたのが見えた。
―――シリオンが串刺しにされる。
逃げ場はない。いくらシリオンが強くても、一人で百人近くを同時には不可能だ。
―――嫌だ! シリオンが殺されるぐらいならイシュラ王子の下に行ってもいいから!
殺さないで! と叫ぼうとしたときだった。
「ふん、やっと頭を使ったな。でも、少し遅い―――」
そうシリオンが微笑んだ。
そして、向かってくる兵たちに向かい傲慢に笑うと、ゆっくりと片手を挙げた。
「ぎゃふっ!」
「げふっ!」
突然周りを取り囲んでいた兵士たちの後ろから異様な叫び声があがり、そのまま地面に倒れていく。
「な、なんだ? 何事だ?」
追っ手の隊長が慌てて周りを見回したときだった。
暗いアルペーヌ杉の木立の間から、正装した騎士団が騎馬にのって現れ、この戦場を包み込んでいるではないか。
「なっ!」
思わず絶句した追っ手たちが見つめた先には、剣を携えた正規兵が青黒い闇の中から整然とここを包囲している。白地に紺で縁取りをされた上着。そして紺色のズボン、間違いなく帝国軍正規騎士団のものだ。馬の面甲にも王冠を守る鷹とライオンが描かれ、帝国軍であることを無言で示唆している。
「ふん、俺が何の策もなくこっちに逃げてきているとでも思っていたのか」
酷薄にシリオンは笑った。
「元々、姫への求婚が断わられれば、そのままこの国を業火で焼き尽くし、アースを塔から連れ去るつもりでいた。それなら三方の国境全てに兵を配置しておいた方が、効率がいいだろう」
「ば、馬鹿な! アルペーヌはとても軍が越えてこられるような山では――」
「馬一頭が通れる山が、軍隊では越せないと? 馬鹿も休み休みに言え。馬が通れるなら騎馬兵も通れる。時間がかかるかどうかというだけの話だ」
ふっと嘲るように笑う。
「ましてや王都まで一日の距離。やらないほうが馬鹿だろう」
―――そうだ。だから危ないと昔思ったんだ。
でも大臣たちには一笑に付されて、まさかそれを実践に移すことができる者がいるとは思わなかった。
けれども今万を数える帝国軍に囲まれて笑っているシリオンは、王者の輝きに満ちて、誰にも近寄れないほどの威圧を放っている。
「武器を捨てて降伏するのなら命だけは助けてやる。どうするか選べ」
その言葉に、シリオンを囲んでいた兵たちのどこからか剣を地面に落とす音がした。続けてその音が増えていくと、やがて次々と剣が地面に落とされ、それと同時に空中にあげられる手が増えていく。
やがて全ての兵たちが手を空中にあげたとき、それを捕縛していた帝国軍の若い騎士の一人が、シリオンとマルカの前に駆けつけた。
「皇帝陛下、マルカ騎士隊長。ご無事でなによりです」
「うむ、ご苦労だったな。ミルドレン副隊長。待ち合わせの場所からおりてくるのに、実に手際の良い到着だった」
「マルカ隊長より、合図の笛があれば、すぐに下山を開始するようにと仰せつかっておりましたので――私の功績ではございません」
「だがよくここがわかったな?」
「敵の松明が陛下の居場所を教えてくれました。その動きで急いだ方が良いと判断し、放牧地に駐留させておりました全軍を動かしました」
「なるほど、マルカは部下に恵まれた」
「いや、素直に私の功績も認めろ」
そうマルカが腕組みをして言うのに、シリオンは暫く考えて、マルカを見つめた。
「よくやった、マルカ」
それだけで、マルカの顔がにぱっと花が開いたように笑う。
「陛下達を追っておりました兵は全員拘束しましたが、いかがいたしましょうか? あと、それと本日放牧に来た羊飼いに軍を見られたので、上の山小屋に一人拘束しております」
「明日、我々が帝国に退却した後、その羊飼いの男を放して関所に知らせよ。そうすれば、ここに放置しておいても、すぐに迎えがくるだろう」
「はっ。仰せのままに」
たくさんの騎士に囲まれ、恭しく挨拶を受けているシリオンを見ると、急に少し遠い存在になってしまったような気がする。
少し不安そうな顔をしていたのだろうか。
シリオンがこちらを見ると、安心させるように笑いかけた。
「もう大丈夫だ。これで帝国に一緒に帰れるぞ」
「うん。―――シリオン、軍を連れてきていたんだね」
ああと、少し慌てたようにシリオンは言葉を紡いだ。
「黙っていて悪かった。だが、もし万が一でもお前を奪還されたら、そのままこの兵を率いて王都に攻め込むつもりだったから―――もしどこかで聞かれているとまずくて」
えっとと、必死で言い訳を考えている。
それがいたずらをされたあとの昔のシリオンを思い出して、少しかわいくなってしまう。
「いいんだ。僕も―――帝国に連れて行ってくれるの?」
あのことを怒っていないのと言外で尋ねると、シリオンはそれに気がついたようにアースを見つめて自分の側に抱き寄せた。
「お前が俺に恋をしていないのはわかった」
「――ごめん」
「それでも、俺の恋心を必死で受け止めようとしてくれたのが、正直に言えば嬉しくてたまらなかった」
「シリオン」
「だから、俺は、お前に俺を恋させることにした」
突然の宣言に驚いて見上げる。
「シリオン」
その前で、シリオンはその端整な面に晴れやかな笑みを浮かべて、アースを見つめている。
「安心しろ。俺は宣言したことは、必ず実行してきた男だ。お前が俺を恋しくてたまらないように、必ずや俺に惚れさせてみせる」
あまりにも自信家すぎて、もう笑みしかこぼれてこない。
けれども、それはなんと幸せな笑みなのだろうか。
「うん。僕もシリオンに恋したい」
それは心からの言葉だった。決してそれは不可能な夢じゃない。そんな予感さえしてしまう。
美しい笑顔で話されるアースの言葉を聞き、シリオンの顔がこれ以上ないくらい真っ赤に染まっていく。
その様子に、側で二人の会話を聞いていたマルカが、思わずおーっと拍手をした。
そして帝国軍のみんなに向かって叫ぶ。
「みんな喜べ! 我々の活躍で陛下の超不可能ぽかった恋が、三分の一だけ叶ったぞ!」
それに鬨の声が起こるのに、もう笑みしかこぼれてこない。
きっと幸せが待っている―――そんな予感で、アースは笑えた。
帝国の花嫁 明夜明琉 @yuzuazu
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