第29話

 慌ててシリオンの手を引っ張り、今来た道のほうに戻った。


「何事だ、傾国」


 そう言いながら、マルカも二頭の馬の手綱を引きながらその後ろについてくる。


 夜の道を先ほど隠れた辺りまで戻ると、曲線になっている道の少し先が見えた。


 そこに大きな木が倒れ、周りにもそれと一緒に倒れたのだろう細い幾本かの倒木が散乱している。


「これは……」


 近寄って、シリオンはその倒れた巨大なアルペーヌ杉を見つめた。あちこちにまだ緑の葉が残っているところを見ると、倒れてからそんなに日はたっていない。


 一緒に倒れたと見える細い雑木も、まだ枝にたくさんの葉をつけたまま広がり、完全に道を塞いでしまっている。


「何でだ、前にはこんなのはなかったぞ!?」


 横で驚くマルカに、アースはじっとその木の裂けた黒い表面を見つめた。


「多分、雷だと思う。麓では小雨でも山の上だけ降ることはよくあるから」


「マルカ、最近降った日は?」


「そういえばおとつい、少しだけ小雨がちらついていたが……」


 木の裂けた表面に残った雷が地中に流れていく焼けた跡をみつめ、アースは立ち上がった。


「でも、これじゃあ馬は通れないよ。とうしようか」


「馬はここで置いていこう。人間なら、木の上を登ったり枝をくぐったりすればなんとか通れる」


 すぐにシリオンは決断すると、今まで二人を乗せてきてくれた馬の顔を優しくそっと撫でた。


「よし、よく頑張ってくれた。ここまで頑張ってくれた功績を称えて、お前には特別に皇帝ハニームーン号の称号をくれてやろう」


「いや、シリオン。それって馬にとっては罰ゲームな名前だと思う」


 けれども、マルカも同じように馬の頭を撫でる。


「よしよし、お前の名前は豪力無双号だが、今度からは陛下と傾国の愛の絆無双号と呼んでやろうな」


「馬が可哀想過ぎるよ! お願いだから、やめてあげて!」


 馬にすれば、ここで乗り捨ててくれてむしろ幸いだろう。新しい飼い主が見つかれば、ぜひそこでまともな名前をつけてあげてほしい。


「よし、じゃあ兵士には捕まるなよ」


 そう言うと、シリオンは軽く馬の尻を叩いて暗闇に向かって離した。


 そして、すぐに倒れた杉の木に行くと、その上に登る。


「うん、向こう側も何とかなりそうだ。来い、アース」


 そう言うと、手を差し出してくれた。それをためらいもなく取る。


 倒れたアルペーヌ杉をよじ登って胸近くまであるそれを越えると、更にその後に続く倒木の枝をかいくぐり、散乱した木の幹をまたいで、どうにか塞がれた道の先に出た。


 けれども、最初に思っていたよりも時間がかかった。


 道の先に出た頃には、元々そんなには離れていなかった追っ手の近づいてくる松明の炎が、道の遠くにちらちらと見え出す。


「来たな、走ろう」


 急いで夜の山道を走り出したが、松明の炎は後ろにどんどんと増えてくる。


 ―――石で防げなかったのが二百と言っていたのが本当だとして、さっき十騎倒したから残りは百九十!


 どう考えても、取り囲まれたら勝てる数ではない。


 闇の中に浮かび上がる炎が、振り返るとそのたびに増えてくる。


 さっきの騎士たちの死体と倒れた巨木の辺りでゆらゆらと揺れるそれが、まるで山に起こった野火のように見える。


 闇の中を走っていると、どうしても長い髪が邪魔だ。走るたびに、ひどく揺れて手足にまとわりつき、動きにくくて仕方がない。


 それに走り出してすぐに息が切れるのもわかった。


 ただでさえ運動など碌にしていないのに、今いるのは急勾配の山道だ。


 ―――足手まといになるな!


 必死に自分に言い聞かせて、アースは走った。けれども、段々と息は苦しくなり、シリオンについていくのさえ苦しくなる。


 ―――駄目だ! もっと周りを見て考えろ!


 それしかできないくせに! そう思っても、暗闇の中で足がもつれそうになり、完全に足手まといだと瞳を歪ませた時だった。


「うわっ!」


 突然派手な音をあげたかと思うと、後ろでマルカが転んだ。


「マルカ!?」


「どうした、マルカ?」


 驚いたアースと警戒したシリオンが同時に振り向く。


「くそっ! 転んだ!」


 心配した二人の前で、マルカは忌ま忌ましそうに靴を片方脱ぐと、中に入った小石を取り出す。


「失敗した!! 騎馬戦を想定してのドレスしか選ばなかったから! こんなひらひらで走れるか!」


 そう言うと、せっかくの美しいドレスの裾をびりびりに破こうと、足の付け根近くでドレスを持って、剣を鞘から抜きかけている。


「わっ! 一応ここに男が二人いるから、頼むからやめて!」


 ―――仮にも妙齢の女性が男の前で太ももを曝け出すなんて!


 慌ててアースが止めたが、するとマルカがにやりとアースを見つめる。


「ほう、まさか! 傾国は女に興味があるのか!?」


 そう言われると、考え込んでしまう。


「―――どうなんだろう?」


「おい」


 マルカがひどく呆れたようにアースを見つめた。


「今まで女性というと、フラウ姫しかほとんど接点がなかったから……」


 本気でわからない。


「おい、傾国。お前の返答次第で帝国の美女の運命が変わると陛下の形相が言っているから、慎重に答えろよ?」


「うーん……経験から言えば、多分迂闊に触ると危険。先ず半径三メートルの距離を開けて観察してから一歩かな?」


「お前の姫さんどんな人だったんだ……」


 思い切りマルカが呆れたように言ったときだった。


 後ろから、たくさんの松明が近づいてくるのが見える。僅かだが、響いてくる声が、前よりも距離が縮まったことを示している。


 たくさんの兵士が交わす声と、歩くたびに揺れて触れ合う剣の音。


 ―――もう逃げる暇もない!


 慌てて周りを見回した。


「こっち来て!」


「傾国?」


「アース!?」


「一か八かだけど!」


 少しだけなだらかな横の斜面を駆け上がり、上にあった洞穴にシリオンの手を引いて駆け込む。


 穴の中に身を滑り込ませるのと、下を兵士たちが通るのはほぼ同時だった。


 たくさんの松明がいくつかの集団を作りながら、その下を歩きながら声を交わしている。


「さっきこの辺で声がしたぞ?」


「辺りもよく探してみろ。どこかに隠れたのかもしれん」


 見下ろせば、松明をかざしながら暗闇を探す兵士の腰には、剣が携えられ、いつでも抜けるようにされている。


「逃げた十賢以外にも協力者が二人いるらしい。十賢以外の生死は問わないとお達しだ」


「十賢は殺したら駄目なんですか?」


「都の王子様のお気に入りだったんだとさ。王家の秘密をほかに漏らしていないか、ゆっくりと尋問するから、都に生きて送り返せとの話だ」


「へええ、お気に入り。そりゃあなんで裏切ったのか、そっちを吐かせたいのが本音なんじゃないですかね?」


 その言葉に背筋がぞくりと冷える。


 ―――捕まれば間違いない。一生彼の奴隷だ。


 誰にも会わせてもらえない。あの日のように、泣いても請うても許してはもらえない。きっと一生と全てを彼の為だけに使わせられる。


 そんな声が下に広がるのを聞きながら、アースは必死で震えそうになる体を隠した。


「奴ら、こっちにはやってこないな」


 ふと、一緒に見下ろしていたシリオンが不思議そうに呟いた。


「それにしても、お前よくこんな穴があると知っていたな?」


 それにアースは、ああとほっとして笑う。


「ここはアルペーヌ三大危険箇所の一つだから」


「は?」


 同時にシリオンとマルカが見つめた。


「今はお留守みたいだけど、アルペーヌヒグマの熊穴なんだ。下を通る旅人を狙うことで有名で、うっかり旅人が雨宿りなんて考えようものなら、入ったら死ぬぞと注意書きが国内で出ている超有名遭難スポット」


「お前まさか自殺と遭難の名所といっていたアルペーヌって!」


「そう、まさにここ! 今までの推定犠牲者百人以上。よかったね、アルペーヌ最大の観光ができたよ」


「残り二つはいらんからな! 絶対に!」


 ―――よかった、普通に笑えた。


 ふとシリオンの瞳を見つめた。


「まあ、だからいつ穴の持ち主が帰ってくるかわからない」


「そうだな、幸い下の兵士も少し切れたようだから、今のうちに出よう」


 そうマルカが言うと同時に、三人は熊の匂いの充満する穴を飛び出した。


 今下を通り過ぎた一団に出会わないように、道から外れた山の斜面を駆け上がって逃げる。


 けれども、道でさえもきちんと整備されているわけではないアルペーヌだ。


 足の下に滑る木の葉や転がる石でひどく走りにくい。


「マルカ、足は大丈夫?」


 さっき転んだときに捻ったりしていないかと心配して声をかけると、マルカはああと答えた。


「アース、ここから上の道に繋がっているのか?」


「ここを登れば、そうなはずだけど―――」


 下の道はさっきから松明が切れ切れに通り過ぎていき、もう戻ることはできない。


 それがさっきから山の森のあちこちに散らばり、まさに草の根をわけるように捜索を開始している。


「足跡があったぞ!」


 後ろの方でした声に、はっとした。


「新しいぞ!」


「まだこの辺りにいるはずだ。探せ!」


「関所を破られた時間からも、まだ遠くには行ってはいない! 見つけて連れ戻せば、一生遊んで暮らせる褒美が出るとのことだ!」


 そんな言葉の一つ一つがアースの心臓を冷たくさせていく。


 ―――嫌だ!


 絶対にあの王子の側には帰りたくない!


 少しでも早く山を登ろうとするのに、湿った土は思うように進ませてくれない。


 その間に、後ろから段々と松明の明かりが近づいてくるのが見える。


 ―――駄目だ!


 違うほうに逃げようと思った。


 それなのに、方向を変えてすぐにまた森の深い暗闇の中、遠くに松明がいくつも現れてくる。


 それが右に行ったり、左に分かれたりしながら、蜘蛛の巣のように炎の軌跡を描いている。


 暗い山の中は、たくさんの松明が動き回ることで、いつの間にかほのかに明るくなっていた。太いアルペーヌ杉の幹に体を寄せて、できるだけ体を隠しながら進むが、どちらの方向に逃げようとしても、松明が幾つも灯り、藪の中を掻き分けるようにしながら探している。


 斜め後ろから、また藪を剣で払いながら歩いてくる兵士の一団が見えた。


 それがゆっくりとこちらに近寄ってくる。


 前に、と思ったが、斜め前には違う二人の兵士がいて、ほかの集団と声をかけながら暗闇を松明で照らして回っている。その炎の、木を焼いて燃え上がる音さえもが聞こえるほどの距離だ。


 ―――駄目だ。もう逃げ場がない。


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