03
初めてシロフネさんを拝んだ日から、早くも一週間が過ぎた。
その間、僕はスーパーチトセに行けば無能ぶりを如何なく発揮し、ヤイヅにどやされ、公園の池を日暮れまで睨み続け、石を投げれば水面を跳ね返った回数に一喜一憂し、家に帰る頃には決まって「くたびれ」ており、夕食もとらずにベッドに倒れこみ、そのまま朝まで寝続ける生活を繰り返していた。
人間として、こつこつと実直に後退し続けている。確かに焦っている。そのくせ、状況を打開せんともがく気概はそこに無く、その片鱗をどこかから見つけ出すこともまた、至難の業だった。
今日も公園のベンチに腰を下ろし、首を二、三回捻ったり、走る子供が手に持つ赤い風船が風に揺らめくところを目で追い掛けてみたり、その風船が子供の手から離れ、春の薄ら明るい空へ吸い込まれて行く様を見て、わけも無く名残惜しんだりしている。
温い春風に瞼を煽られ、いつしか目を閉じた。またしても僕が、大変面白くない僕のマンガを読んでいる。そこに金で縁取られたサクセスストーリーは無く、落陽の如きお先真っ暗の地獄道も無い。川の水が常に低い方、低い方へと向かうように、緩やかに加速も付かずに底へとたゆたい続ける、まったくもって退屈な展開のマンガよ。
微睡を押しのけ、ベンチを立ち、小石を拾っては池の向こうへと投げた。投げ方が悪かったか、水面が春風で微かに揺らめいていたからか、小石は二回程軽く跳ねたところで、水中に吸い込まれた。
陽光は橙を強め、ベンチに腰掛けた僕の影は、長く引き伸ばされる。それを見て、いつかのオキツの言葉を思い出す。夕方近くになると、シロフネさんはベンチを離れてボートを漕ぎ始めると言う。
よもやとは思いつつも池の向こうへ目を凝らすと、舟が一艘だけ浮かんでいた。水面を染め行く暗がりの中で、そこだけが白く朧に浮かび上がっており、恐らくは、と思った。ベンチを離れ、貸しボート屋へと足を進める。彼女の姿を、この前のように草陰に隠れてではなく、より近くから拝んでみたかった。
シロフネさんが舟を漕ぎ終え、船台へ戻る。店主にオールを返し、緩々とした足取りで事務所を出る。白に包まれた彼女を、紅みがかった陽光が覆い尽くし、新手の妖怪か、それとも神か仏か、妖しくも荘厳な気配をも感じられる。
シロフネさんは、真正面に立っている僕の姿に気付き、ふと足を止めた。
「あっ」
その時、確かに彼女と目が合った。シロフネさんが僕を見ている。気付いてしまった。
思わず、委縮してしまった。手足が動かず、ものを言おうにも口が開かず、マネキンのように固まった僕を、シロフネさんの眼差しが射貫いている。数秒、十数秒、時間だけがじりじりと過ぎ行く。
影の奥に隠れ、シロフネさんの表情が微かに揺れ動く。息を飲む。彼女が口を開く。張り詰めた夕のしじまが、軋みを立てて動こうとしている。
「あの、貴方」
丸く、艶がかった声だった。陽が落ち、冷たさを湛え始めた空気に、その一音、一音がやけに澄んで聞こえた。
その奇怪な容貌とはかけ離れた、あまりにも真っ当過ぎる第一声だった。僕は面食らってしまい、二、三歩ほど後退りしてしまった。身体の自由は、いつの間に取り戻している。
「はっ、はい」
「何ですか、私に何か」
彼女の瞳は、僕を捕えては放そうとしなかった。
言葉が出てこない。相当の言い訳が思い浮かばない。正直に白状することもできない。額を汗が伝う。胃がすくむ。喉の奥が、やたらと渇いている。
「いや、すいません」
僕はそれだけの言葉をやっとのことで吐き出し、瞬間、一目散に出口へと駆け出した。
強張った手足はそのまま、なけなしの力に任せ、とにかく僕は、ただただ走り続けた。走り続けることで、僕と僕に一生付いて離れないであろうマンガを、恥を恥で塗り固めたような僕のマンガを、何とかして振り切りたかった。
興味本位で赤の他人に近付いてしまった僕の恥、いざ当人を目の前に竦んでしまった僕の恥、意外にも素直な彼女の声に拍子抜けしてしまった僕の恥、何をも抱え切れずに走り出すことを選んでしまった僕の恥、恥、恥。今日だけでいくつもの恥が生まれ、僕のマンガに加筆されていくことだろうか。
喧騒が近付いては遠ざかり、また次の喧騒に覆われては消えていく。鄙びた商店街のネオンが放つ光が視界の端から現れては重なり、溶けては沈んでいく。履き古したスニーカーがアスファルトを蹴り付ける音だけが、僕を執拗に追い掛ける。
シロフネさん、僕は貴女をコケにしたつもりはない。ただ、貴女にそれを伝えられなかった以上、僕は走り出すしかなかった。分かってほしい。僕は、貴女が何者かを知らないことがこれほど怖いものだとは、思わなかったのだ。
部屋に戻り、床に身を投げ出しては、フローリングの隙間に溜まった埃を眺めていた。
つくづく、恥晒しな男だと思った。寝返りを打ち、天井の蛍光灯に目をやると、円の外側から滲み始め、このまま無理矢理にでも寝入ってしまおうかなどと考えたりもしたが、目を瞑るほどに雑念が四方八方から僕を揺さぶり、また目が冴えては眠れない。
初めて耳にした彼女の声が、いつしか頭の中で反芻されていた。彼女は僕を見て、私に何か用か、と言った。僕はまともな返答もできずに、その場を一目散に逃げ出した。なんたる情けなさよ。人と対峙する覚悟を持ち合わせないまま、目の前に飛び出してしまった間抜けな男の顛末だった。
ケリを付けよう、僕は考えた。
来週の水曜日、もしシロフネさんがいつものように姿を現したならば、ひとまず今日の非礼を詫びよう。彼女の言葉に、誠意を以て応えよう。ことがうまく運べば、あわよくば、二人して白いボートに乗ることができるかもしれない。白粉に覆われた彼女の向こう側を、彼女の持つマンガのさわりだけでも、捲ることができるかもしれない。
それは何とも独りよがりで身勝手な決意だったが、考え終わる頃には、既に僕はその気になっていた。
フローリングから立ち上がり、気を新たにした僕は、ひとまず顔を洗おうと思った。重く垂れ下がった目尻が再び張りをたたえて立ち上がるまで、何分間でも洗ってやろうと思った。
シロフネさん 中洲エスア @nakasuesua
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