02
そのうちに日は傾き、初春の冷えた夕風に堪えた僕は立ち上がり、池の周りを散歩してから帰ることにした。
貸しボート屋が池の対岸に見える。掘立小屋のようにぞんざいな木造の事務所は、すぐ横の船台と繋がっている。船台もまた、そこら辺の板切れを適当に並べて釘とトンカチで取り敢えず固定してみたかのような、大変お粗末な代物だった。
五、六艘ほどの貸しボートが、船台に寄り添うようにして浮いている。赤、青、黄、けばけばしい原色に塗られたボートが並ぶ中で、右端のボートだけが、外から中まで真っ白に塗りたくられており、一際目を引いた。西日に照らされ光沢を帯びたその姿には、神秘的ともまた違う、淡くも妖しき不気味さが見え隠れしていた。
焦点の定まらない眼で眺めつつ、僕はあることを思い出した。半年前の夏に、僕とフジエダとオキツで集まった時のことだった。
三人は高校時代の友人同士だが、卒業後の進路は互いにバラバラで、フジエダは東京の大学へ進学し、オキツは県下の中心都市にある情報系の専門学校へ、僕はこの町に残り続けフリーター暮らし、という具合だった。僕達は高校を卒業する間際、それぞれの新生活が始まって暫く過ぎた夏頃には、三人で集まって近況報告会を開こうと約束していたのだった。
駅前の鄙びた喫茶店に入り、それぞれの暮らしをあれこれと話しているうちに話題も尽き、そろそろお開きかと思いつつコーラを啜っていると、突然オキツが切り出してきた。
「お前、まだ公園行ってんの」
二人は、僕が海浜公園に足繁く通っていることを知っていた。
「たまに」
「じゃあ、シロフネさんって、知ってる?」
初めて聞く言葉だった。それは何だと聞き返すと、オキツは呆けたような顔を見せた。
「あれ、知らない」
「何その、シロフネさんって」
「俺の弟が末っ子でもう中一なんだけど」
オキツが腕を組む。
「全然ガキだからまだ公園で遊んでて、それで聞いたんだけど」
曰く、毎週水曜日、決まって貸しボート屋に怪人物が現れるらしい。白いドレスを着た女性で、異様なことには、顔中に白粉をくまなく塗りたくっている。
昼前には公園に現れ、貸しボート屋横のベンチに座り、そのまま数時間、何をすることも無くひたすら佇む。が、夕方近くになるとベンチを離れ、ボートを漕ぐ。必ず右端の真っ白な舟を選ぶらしい。池を二、三周すること十数分、ボートを漕ぎ終わると公園を出て、どこへともなく消えて行くと言う。
夕暮れ、真っ白なボートに乗る真っ白な女、その光景の奇怪さに子供達は慄き、いつしか「シロフネさん」と呼ぶようになった、ということらしい。
「どんな人とか、住所とか、全然分からないんだ」
フジエダが口を挟む。彼は、僕達三人の中では最も好奇心が強い男だった。
「あいつ、友達と尾行しようとしたんだって。でも途中で分からなくなったって」
「ちょっと面白いな」
フジエダはテーブルを人差し指で何度か叩き、しばし何かを考えるような仕草をとっていたが、やがて
「平日はこっち帰って来れないんだよな」
と、明後日の方向を向きながら言った。話を持ち出してきたオキツもまた
「俺も無理だね、水曜だけは」
と呟いた。となると、残るは僕である。
僕も水曜日にはアルバイトのシフトを入れてはいるが、三時に退勤し、その足で公園に行けば十分に間に合う。この目で「シロフネさん」とやらを拝むことも、確かに不可能ではなかった。
「お前じゃん」
僕が何をどうと切り出す間もなく、彼らの合点はあまりにも早かった。まるで当然かのような口ぶりに、僕は思わず面食らう。
「えっ、何それ」
「シロフネさん、見たいでしょ」
オキツの言葉は白々しかった。
「とりあえず、行って来いよ公園に、水曜」
「まず、実在するか確かめるじゃん」
「写真とか撮って、バレないように」
「雰囲気的にアリだったら話しかけてみたり、どういう人なのか聞いてみたり」
「行ける行ける、お前行けるって」
自分らは参加できないことを盾に、言いたい放題である。赤の他人に、しかも顔中真っ白の変人に話しかけろと言う。どう考えようが、無理難題だ。
「来年の春には俺ら帰って来るから、その時までには大体分かってんだろ。いい話聞けるって期待してるから、本当に」
フジエダが僕の肩を叩き、息交じりのおかしな声で笑う。僕は彼の顔を薄目越しに眺めながら、弱々しく片頬を上げるより仕方が無かった。
そして三月も半ばとなり、彼らと顔を合わせる日は近付いていた。
すっかり忘れていた。無論、二人との約束を果たさなければ、という使命感など僕の中にはさらさら無かった。が、それはそれとして、オキツの言う「シロフネさん」の話が確かならば、確かに好奇心をそそられる存在ではあった。僕の住む町に、いつかどこかのテレビで見たような都市伝説が現在進行形で根付こうとしていると考えると、少しばかり夢があるな、と思えた。
丁度、水曜日だった。僕は勢いを付けてベンチから跳ね上がり、足元に散らばった小石からできるだけ平たいものを拾い上げ、池に向かって投げ込んだ。静かな水面の下へ小石が浅い傾斜をつけて落ち、三回、四回と跳ね上がり、僕は鼻を鳴らした。
池の周りを歩き、対岸の貸しボート屋へと向かうことにした。天気は悪くなかったが、平日の四時前という半端な時間帯もあり人の数はまばらで、ボートも出ておらず、緑に淀んだ池の水が微風に煽られ、頼り無げに揺らめいているだけだった。
そして、確かに貸しボート屋横のベンチに、シロフネさんと思われしき人物はいた。
オキツが言った通りだった。彼女は白いドレスを身に纏い、顔中に白粉を塗り、腰まで届きそうな長い黒髪の上に、やはり真っ白なキャペリンハットを被っている。柔らかな日光が差し込み、木の葉が穏やかに揺らめく和みに満ちたこの公園の中で、彼女とベンチだけがまったく別の空間として切り離されているような、何とも言い難い光景だった。
僕はその異様さに思わず息を飲むも、シロフネさんに気付かれぬように忍び足で徐々に近付くと、ベンチの向こう側の木陰に隠れた。こうしてより近くで観察するに、彼女は顔だけはなく、脚に穿いているタイツも、手に付けている手袋も、全てが真っ白だった。腰を立ててしゃんとベンチに座り、些細も動くことはない。白粉に隠され、表情がいまひとつ読み取れないが、どこか澄ましているようにも見える。
しばらく木陰で彼女を眺めていたが、ある段階で、怖気付いている自分に気付いてしまった。ただ、右手が震えていた。胃が締まり上がる感覚を覚えた。気付いてしまった以上、僕の意識だけではどうしようもないことだった。
ここまでにしようと、木陰を去り、公園を離れた。話しかけるなど、到底できたものではない。彼女は、ただひたすらに白かった。彼女の偏執めいたホワイトニングが、まるで純であることを頑なに固持し、他の一切の色との交わりを拒絶する意思表示のように見えてしまい、話しかけることはおろか、近付くことさえできたものではなかった。
公園の出口を抜ける際、突風が吹き、砂埃が大袈裟に舞い上がった。風は生暖かく湿っており、春が来たな、と分かった。僕は肩の周りに鈍い倦怠感を覚え、両手をだらしなく下げながら帰路に就いた。
部屋の鍵を開け、そのままベッドの上に倒れる。全身が余すことなく萎えていた。ベッドのシーツが、妙な湿り方をしていた。
ベッドに沈み込み、しばらく動かなかった。池の上で小石が三回または四回跳ねようが関係無く、僕の脳髄の奥の先の下のまた底流に沈殿する鬱々たる靄がかりが、この身体ごと鉛のように重くさせているような、まったくもって煮え切らない気分だった。
突如現れた春風は多分に水気を含み、重く、生温く、僕の背中をくすぐるように抜けていったが、それにしても、この儀式を以て僕の中でもいよいよ季節は一回りしたようだった。
去年の春に高校を卒業した。一九歳の誕生日も迎え、こうして春が目の前に迫り、口を開けていればやがて新年度が始まり、あと半年足らずで二〇歳になるだろう。
成人なのだ。フジエダは大学生を続け、オキツは専門学校を卒業し就職するとして、僕は何者なのだろうか。一体何に当てを見出し、何をコンパスとして邁進すれば良いと言うのだろうか。
「ダメだ、これはダメなやつだ」
ベッドから跳ね起き、頭を左右に激しく振った。別のことを考えて気を紛らわそうと、再びシロフネさんについて思いを巡らせる。
彼女はあの公園の中で、間違い無く一際奇異な存在だった。純白である。何物にも染まらない純潔さは、見方を変えれば非常に攻撃的でもある。僕が彼女に、あれ以上近寄れずに立ち竦んでしまった理由だった。一人の人間と人間との間に、クレバスのように地の底まで刻まれた、言い知れぬ排他性をそこに覚えた。
しかし、彼女は一体どのような心持ちに動かされ、毎週水曜日の決まった時間帯に、あの格好で佇むことを選んだのか。
何時間も黙って座り続け、退屈するくらいの感情は持ち合わせているのか。腹は減らないのか、そもそも、何かを食べるのか。笑うのか、時折、泣いてみたりするのか。何かに打ちひしがれ、恥を覚え、居た堪れなくなることが、彼女にもあるのだろうか。
ふと、公園で見た「気味の悪い妄想」を思い出した。僕は再び湿っぽいベッドに寝転び、彼女のマンガを読みたいと、強く思った。
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