シロフネさん

中洲エスア

01

 ホワイトデーが終わり、店頭に飾られたチョコレートを片付ける。ヤイヅが台車に積み上げたチョコレートの山々は、少し揺すっただけでも崩れ落ちそうな気配だった。

「なんとかバックまで持って帰ってきて」

 ヤイヅは言い、台車を僕に押し付けた。一片も崩さずにバックヤードまで運び切れ、と言う。崩れそうな部分だけを段ボールなりに詰め直してから運ぼうかとも考えたが、全神経を尖らせ慎重に運べば何とかなるだろうと、台車の取手に手をかけた。

 この時、つい勢い余って押し出すように掴んでしまったものだから、たちまちにチョコレート山は崩れ始め、一枚また一枚と床へ転がり落ちていく。

「ああ、もう」

 ウーロン茶のケースが積まれた台車を引きずりながら、ヤイヅが苦虫を噛み潰したような顔をしてこちらに駆け寄ってきた。

「相変わらず下手だねえ、押し方が下手なんだよ、ほら」

 ヤイヅは僕を押しのけて台車に手をかけると、腰を低く構え、取手を押し下げるように強く持ち、慎重に台車を動かし始めた。勤続二〇年弱、大ベテラン社員の彼にはお手のものなのだろう、チョコレート山は崩れることなく、均衡を保ちながらも平然と台車の上に構え続けている。

 ヤイヅは台車をゆっくりと止め、僕の顔を見た。「それ見たことか」と、「お前じゃこうはできないだろう」と、彼の眼が言う。

「落ちたチョコレートと、あとこのウーロン茶だ。後でバック持って帰ってきて」

 彼は吐き捨てるように言うと、バックヤードへと戻って行った。僕は床に散らばった何枚かのチョコレートを拾い上げると、天井の蛍光灯を睨み付けてはあまりの眩い光に思わず目を細め、あるいはわざとらしく首を捻るなどしていたが、やがて観念し、バックヤードに向かって台車をノロノロと引きずった。


 清涼飲料を補充しきったところで、丁度三時になる。僕は時計を確認するや否や、台車をバックヤードの奥へと放り投げ、シフトカードをタイムレコーダーに通し、そそくさとロッカールームに入り、着替えもせずにバッグを取り出し、店を出た。この間、僅か二分もかからない。いつだったか、仕事はともかく退勤は誰よりも早いとヤイヅに揶揄されたことをにわかに思い出した。

 実際、人一倍要領が悪い人間だった。誰かが一〇分かけて終えるものを、二〇分かけても片付けられない。ヤイヅが言うには、飲料の補充を退勤時間までかけていること自体がおかしいらしい。

 物心が付いた時からそうだったし、ある時を境に、これは習い性であって生涯治るものではない、と開き直ってしまった。更にこのスーパーで働き始めてから、今までぼんやりと「そうなのだろう」と考えていたものが「そうに違いない」と断言できるくらいには自覚してしまったので、悪化することはあれ、改善することは恐らく有り得ない。

 それもまた人生と、僕はこの手の心持ちに駆られるとき、どこかで聞いたような漠然とした言葉を借りることで、努めて静観しようとしていた。要領の悪さもまた人生、チョコレートを床に散りばめるもまた人生、ヤイヅに嘆かれるもまた人生、それもまた、僕には僕なりの筋書きに沿った人生、そう考えると、ある種の呆けのような楽観を多少なりとも得ることができるのだった。

 交差点を渡り、何の気無しに店の方を振り返ると、赤錆が目立つトタン製の看板に「スーパーシミズ」と書かれている。駅前の脇に建つ小さなスーパーで、ヤイヅが言うには、ここ十数年で、郊外に造られた巨大なショッピングモールに軒並み顧客を奪い取られているとのことだった。

「ここだけの話じゃないよ、駅前はもうダメよ」

 彼の言葉に嘘は無く、人口一〇万人程度の太平洋に面した地方都市の中心駅のロータリーに人影は疎らで、やたらと広いタクシープールが、かつての人混みが如何ほどだったかを証言しているようだった。

 かつて駅舎入口の左側には個人営業のドーナツ屋が構えており、オールドファッションが美味しいと評判だったはずだが、数年前に廃業した。ロータリーを挟んで駅舎の向かい側にあった小さな古本屋も、ドーナツ屋と同時期に閉店した。建物自体が取り壊され、今では更地になっている。柵に貼り付けられた看板を見る限り、近いうちに月極の駐車場になるらしい。

 徐々に鄙びていく駅前とは対照的に、郊外の国道沿いに出れば、件のショッピングモールを筆頭に幾つものチェーン店が並び、田畑がめっきり少なくなった。新しいアスファルトで固められ、奇麗に整備された国道を黙々と歩けば、この町の風景は着実に変遷を遂げていると、否応無しに実感させられた。


 僕は踵を返し、海浜公園へと向かった。海岸へは、駅前から歩いて十数分で到達する。そこに併設されている海浜公園にあるものは、海から水を引いた池、貸しボート屋、池の周りに簡単な散歩コース、あとは小さなグランドくらいだった。

 昔から苛立ち、焦り、その他諸々の穏やかではない感情に苛まれると、決まってこの公園に向かった。ベンチに腰掛けて目前の池をしばらく眺めた後、手頃な小石を拾っては池に向かって投げつける。それを何度も繰り返す。調子が良ければ、小石が水面で四、五回と跳ねる。僕はそれを見て、頭の中の靄がかりが少しばかり薄らいだような気味の良さを覚え、独りほくそ笑む。

 ベンチに座り、鈍く深く濁った薄緑色の池を眺める。何も考えず、ただ眺めるだけで良かった。この景色は、僕が物心付いた頃から何一つ変わることがなく、この町で生まれ、この町から出ることなく今日までを過ごした僕が、不変の存在を以て肯定されているようで、幾ばくかの心弛に浸れるのだった。

 この町で、僕と池の濁りだけが、いつまでも変わりない。

 漫然と考えた。考えることと言えば決まって、今現在の僕が、どのように生きてきた結果、どれほどの場所に立っているかについてだった。

 それほどでもない高校をそれほどでもない成績で卒業し、進学せず就職もせず、何者かになる意志も特に持てず、なし崩し的にフリーターとしてくすぶる道を選び、いよいよ二〇歳は目前だった。とにかく要領が悪く、周囲からは貶され呆れられ、その度に鬱憤と焦燥は溜まり続け、唯一の慰めは公園の池に小石を投げつけること。惨憺たるものだが、それでも考えずにはいられなかった。

 昔どこかで読んだ青年マンガの主人公が、大体似たような暮らしをしていたな、ふと思い出した。モラトリアムをこじらせた、若く弱くうだつの上がらない男の物語で、あの頃は特に何の思いも抱かず受け流したが、今の僕ならば、何を思うのか。

 腕を組み、目を閉じる。瞼の裏でどこからともなく思い浮かばれるのは、僕の半生がそのまま描かれたマンガを、他でもない僕が読んでいる光景だった。

 極端にデフォルメされた僕が生まれ、育ち、学校へ行き、働き、チョコレートの山を崩し、やはり極端にデフォルメされたヤイヅと思われしきキャラクターに嫌味を言われ、項垂れる。

 薄味の恥と、ちゃちな屈辱だけで頁数を稼いだ僕のマンガ、それを他人事のように真顔で読む僕がいる。我ながら、出所も分からず気味の悪い妄想だった。

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