現状維持のガラスを砕け
violet
ガラスが割れた
現状維持は怠慢でしょうか。
私がそう尋ねてみると、彼女はキッパリと言い切りました。
「怠慢でしょ」
「どうしてクリスマスパーティに誘わないのよ」
学校の教室。その真ん中辺りの席に私は座っていました。麻友ちゃんはその席の前で腕を組み、私に問い質しました。
「だって
私は恐る恐る答えました。何せど真ん中の席ですから、東西南北どの方向にもクラスメイトがいるのです。聞かれてしまっては堪りません。
「嘘つきなさいよ」
はい、嘘でした。あわよくば恋人の関係になりたいと、私は常々思っていました。しかし、何せ私たちは生徒と教師の関係です。二の足を踏んでしまうのは、仕方のないことなのです。
「嘘じゃないよ」
私は嘘を押し通します。親友である麻友ちゃんにまで嘘をついて誤魔化すほど、私は弱い人間でした。
「ふーん。そうなんだ」
麻友ちゃんは意味深に言いました。
「じゃあ、私が真田先生を取っちゃうから」
麻友ちゃんは冗談のつもりで言ったのかも知れません。しかし私にはとても、冗談には思えませんでした。だって私は日頃から、麻友ちゃんの気持ちには疑問に思っていたのです。その疑問とはすなわち、麻友ちゃんも真田先生が好きなのではないか、ということです。
「いいよ。別に……」
私は自身が言った言葉が、あまりに情けなく感じました。麻友ちゃんも真田先生のことが好きなのかも知れない。しかしそれでも私の恋を応援してくれる。そんな彼女に対し私は、やはり嘘を押し通してしまうのでした。
*
ガラガラと、教室の前方のドアが開きました。そしてそこから、私たちの担任が入室して来ます。
私の大好きな、真田先生です。
私は乙女心宜しく、真田先生を潤った瞳で見つめてしまいます。今日もいつも通りモジャモジャの髪の毛。パーマではなくて癖毛のようで、本人は嫌がっていたのですが、とても先生らしい私好みのチャーミングな髪型です。丸メガネもいつも通りでした。その丸いレンズから覗く気怠そうな目もいつも通りです。体格はスラッとした感じで、背は高く痩せ細っています。
「は、はい。で、では……その、ホームルームを、
真田先生は吃りながらホームルームを開始しました。彼はとても内気な性格で、それもまた私好みでした。むしろ私の気弱な性格と、大変相性が良いのではないかと思います。
真田先生の進行は独創的でした。ただひたすらにブツブツと呪文のように、必要最低限の事項を呟いていきます。あまりに声量が低くて、クラスメイトの皆は真剣に耳を傾けます。
「す、すいません。聞きにくいですよね。直したいとは思っているのですが。はあ」
真田先生は皆の様子を見て、そう言って落ち込みました。いえいえ先生。いつも通りのことを、いつも通りにしてくれて、大変感謝しております。私は内心で、先生に頭を下げました。
いつも通りです。今年最後のホームルームも、いつも通りでした。これが終わったら学校主催の、自由参加のクリスマスパーティがあります。もちろん私は参加しません。実は麻友ちゃんを誘ってみたのですが、断られてしまいました。あなたは真田先生を誘いなさい、と言われてしまったのです。まあクリスマスパーティなんて華々しいイベントに参加しないのも、いつものことです。
そのいつも通りが淡々と進行していました。穏やかに過ぎ行く時間に、私は芸術性さえ感じていた頃。ふいに教室の前方のドアが、ガラガラと開きました。ホームルーム中にドアが開くなんて、いつものことではありません。
何事かと、私を含め教室にいる誰もがそのドアの先に注目しました。
すると一人の女性が、教室に入ってきました。私はその女性をまじまじと見つめて、ドキッとしてしまいます。
ボブカットの髪型。指摘されない程度に茶色に染まっています。化粧も、スッピンと押し通せるほどに薄く施されていました。白く染みのない肌。しかしその頰は妙に紅潮していました。
身長は高くもなく低くもなく。胸の大きさもそれなり。イマドキの女子高生という感じの女性。
まさしく、私の親友である麻友ちゃんでした。
麻友ちゃんはそのまま、ズカズカと教室を進み、真田先生の前に立ちました。気弱な真田先生は、あまりの事態に何もすることができない様子でした。ただ驚いた表情でじっと、目の前の麻友ちゃんを見つめています。
かくいう私も、事態の把握が出来ずに先生と同じ状態となっていました。いえ私だけではありません。麻友ちゃんを除く、教室にいる誰もがそうだったことでしょう。
「真田先生」
すっかり静まり返った教室内に、麻友ちゃんの声のみが響き渡りました。凛とした、美しい声だったと思います。しかし私は、その声に若干の不安を感じ取りました。
結構な不安を抱いているであろう麻友ちゃん。恐らくクラスメイトの視線を、一身に感じ取っているはずです。しかし麻友ちゃんは、じっと先生を見つめたまま、目を離しません。その堂々たる佇まいに、一切の私語が許されていないような、そんな雰囲気がありました。
そしてついに、麻友ちゃんの口が再度開かれました。
「私は、真田先生のことが好きです」
なんと告白が始まったのです。同時に、ようやく私は事態を飲み込み始めました。我に返った、といっても差し支えないでしょう。
親友の麻友ちゃんが、私の好きな人に、告白している。
その事実は平穏を求め続けた私の心を、途端に騒つかせました。
「ずっとずっと、真田先生のことが好きでした」
麻友ちゃんは告白を続けます。
ずっとずっと。その言葉が私の脳内で何度も繰り返されます。麻友ちゃんは私の恋をずっとずっと応援してくれました。しかしそれと同時に、麻友ちゃんは真田先生のことが、やはり好きだったのです。ずっとずっと、そんな状態だったのです。
「私の恋人になってください」
麻友ちゃんは私と違って、嘘偽りなく言いました。
当人の真田先生も、ようやく事態を飲み込めたようです。途端に顔を真っ赤にさせました。とても彼らしい、わかりやすい反応でした。
ああ。このままでは、麻友ちゃんに取られてしまいます。私の大好きな真田先生が、私の親友に。
しかし、それも仕方のないことなのかも知れません。だって見てください。麻友ちゃんのあまりに破天荒な言動に、誰もが狼狽え、口を挟むことが出来ません。
私もその一人です。真田先生はこういった押しに弱いと思われます。本当なら私がどうにかしないといけないはずなのに、しかしどうすることもできないのです。ただ指を咥えて、成り行きを見守るしかありません。
「私とクリスマスパーティーに来てください」
そして麻友ちゃんは口を閉じました。真田先生の返答に備えて、ただじっと身構えています。
「ああ、うう……」
真田先生は狼狽えていました。無理もありません。もともとこういったことが苦手なのに、半ば不意打ち気味に告白されたのですから。
しかし、ならば麻友ちゃんに勝機はあるのかも知れません。普通なら教師と生徒の関係ですから、勝ち目はほぼ無いでしょう。しかしこう虚をついてしまえば、判断力が鈍ってオーケーしてしまうかも知れません。
そうなってしまったら、いよいよ真田先生は麻友ちゃんのものです。私の恋は、本当に叶わぬ恋となってしまいます。
でもまあ、それでも良いかな。
私と真田先生は結局いつも通りの関係のまま。麻友ちゃんは恋人が出来ても、きっと私にはいつも通りに接してくれるでしょう。
ならばそう、結局はいつも通りです。ええ、いつも通り。
私の望んだ、いつも、通り……。
何故でしょう。いつも通り、いつも通りなのです。私の大好きな言葉のはずなのに。それを反芻すればするほど、嫌悪感が湧き上がってきました。
その嫌悪感を、私はどうにか見て見ぬふりを試みます。しかし無理でした。その嫌悪感に、私は目が離せません。
そりゃあ嫌でしょう。私の好きな人が、私じゃない人と付き合うなんて、絶対に嫌です。それは親友であっても同じです。だってそれじゃあ真田先生は、私のものにならないじゃないですか。
嫌だ。嫌だ嫌だ。しかし内心で駄々をこねたところで、どうにもなりません。きっとこの後、先生は麻友ちゃんの告白を受け入れるのでしょう。しかしそれは嫌です。どうすれば、どうすれば良いのでしょうか。
すると麻友ちゃんは、初めて真田先生から視線を逸らしました。そして真っ直ぐに、私を見つめてきたのです。
その目はどうにも、挑戦的な、挑発的な目に見えました。明らかに私を煽っていました。私は告白したぞ、お前はどうする。まるでそう言われている気がしました。
私は、麻友ちゃんの真田先生に対する気持ちに、薄々気が付いていました。こんな私でも気付いていたのです。きっと麻友ちゃんなら、私の嘘でさえ見抜いていたことでしょう。
「ぼ、僕は……」
真田先生がついに開口して、私はハッとしました。もう時間の猶予はありません。そう実感すると、急速に頭が回転し始めました。真田先生が了承してしまう。どうすれば良い、どうすれば良い。そんな言葉がぐるぐると廻ります。
ああもう、どうにでもなってしまえ。
ガタンと思い切り音を響かせて、私は立ち上がりました。
「せ、先生!」
私は叫びました。ここ最近で最も声を張り上げた瞬間でした。するとその瞬間、二人に注目していた教室内の視線が、一気に私へ集中しました。
ひぃ、と私は悲鳴を上げるのを、ぐっと堪えました。この場にいる全員の視線は、それほどに強烈なものだったのです。
私は思わず周囲を見渡します。目の前の二人を含め、全員が私を見ていました。どこに視線を逸らしても、必ず誰かと目が合ってしまいます。
目のやり場に困りながら、生々しい、いえ刺々しい視線を一身に浴びて、私の脈拍は急上昇しました。呼吸が荒くなり、息苦しさを感じます。緊張感で手汗が酷いです。
麻友ちゃんはこんな状態で、あんな告白をしたのです。しかし私もその一歩目を踏み出しました。麻友ちゃんには負けたくありません。ならば麻友ちゃんがしたことを、私もしなくてはなりません。
「わ、私も……」
その言葉の先は、抵抗力があまりにも強くて、喉に詰まりました。何とか口は開きますが、しかしどうしても声は出せませんでした。
まずい、どうしよう。そんな焦りが全身を駆け巡ります。すると皆の視線が、余計に痛く感じました。
「現状維持は、怠慢だよね」
私が押し黙っていると、麻友ちゃんが言いました。妙に優しげな声色だったと思います。
「でも、あんたはずっとそうだった。だから私はこのタイミングで告白したの。このタイミングなら、あんたに見せつけられるし、かといってあんたは止められない。そう思ったから」
私は俯いていた顔を上げました。麻友ちゃんは、私に微笑みかけていました。
「でも違った。あんたは今、立ち上がってる」
麻友ちゃんの言葉は、とてもドキドキさせられます。
「あんたは何の為に、立ったの?」
吐く息に、熱がこもってしまいます。
「いつも通りの自分を、ぶち壊す為に、立ったんじゃないの?」
麻友ちゃんに言われたその瞬間、ふつふつと煮えたぎっていた感情が、溢れ出しました。
「現状維持は、必ずしも怠惰ではないと思う。変わらないことも、凄いことだから」
私は言いました。そうです。私はいつも通りの真田先生に、恋をしたのです。先生はいつも髪がモジャモジャで、気だるげな瞳で、気弱そうでした。先生がいつまでもそうであったから、私も先生のことをいつまでも好きでいられたのだと思います。
「だけど、変えなきゃいけないことを、いつまでも変えないのは、やっぱり怠惰だと思うから」
だからこそ、私は立ち上がったのでした。私の心の弱さの現状維持は、間違いなく怠惰なのですから。
「真田先生」
私は決意を固めて、先生を呼びました。
「いつも通り教師と生徒という関係も、私にとってはとても魅力的なのですが」
真田先生は相変わらすオドオドしていました。しかしそれでも私の言葉に、懸命に耳を傾けていました。
「もうそろそろ、その先を行ってみたいと思いますので」
そして私は、大きく息を吸いました。あらゆる気持ちが、想いが、肺に溜まっていきます。
さあ、ぶちまけまてしまいましょう。
「先生のことが、好きです!」
パリィンと、幾重にも重なったガラスが砕け散ったような、そんな感覚でした。私を足止めしていた、軽薄で、下らなくて、しょうも無い何か。それらが粉々に砕け散ったのです。
「麻友ちゃんよりも、ずっとずっと、真田先生のことが好きです!」
すると、どうでしよう。もう私を止めるものは何も無いかのように、私の想いはスラスラと口に出てきました。
「これは、ずっとずっと、そうだったんです!」
ええ、そうですとも。この想いの強さは、ずっとずっとそうだったんです。
「そしてこの想いは、これからもそうです。いつまでも、いつも通り、先生への気持ちは大きいままです!」
だって現状維持は、必ずしも怠惰ではないのです。この想いだけは、現状維持を保たないといけないのです。
「だから麻友ちゃんじゃなくて、私を選んでください! 私の恋人になってください!」
私はそして、力の限り叫びました。
「私と、クリスマスパーティに参加してください!」
私は思いの丈を、言い終えました。あまりに喧しく叫んだものだから、私が言い終えた途端に静寂が訪れました。
その静寂の中、はあはあと息を切らした声が響きます。私は興奮のあまり息切れをしていました。心臓もバクバクいって、全く落ち着けません。
やがて視界がぐらつきました。カメラのピントが合ってないかのように、私の視界はぼやけました。真田先生と麻友ちゃんを見ますが、二人の表情が分かりません。
苦しさは徐々に増していき、呼吸は薄くなりました。もうどうすることも出来ず、私は机に倒れました。
そしてそのまま、意識を失ってしまいました。
*
私は目覚めました。あの後どうやら、倒れてしまったようです。ただでさえ気弱な私ですから、極度の緊張をほんの数分感じただけで、気絶してしまうのです。
私はベッドの感触の柔らかさを感じました。恐らくは保健室でしょう。あんな大立ち回りをしておいて、この様とは。幸いにも明日から冬休みですので、しばらくはクラスメイトと顔を合わせずに済みます。しかし……。
「起きたんだ」
天井を見つめていると、ヌッと顔が現れました。あまりに急な出来事だったので、私は心臓が飛び出そうになり、再度気絶しそうになりました。
「真田先生……」
顔を覗かせてきたのは、真田先生でした。それはそれで私の心を騒つかせました。何せ先ほど私は、この方に告白をしたのですから。
「おはよう」
真田先生が優しく微笑んで言いました。なんでしょう。私が本調子ではないからでしょうか。いつもオドオドしているはずの真田先生が、妙に普通で、とても自然体のように見えました。
「おはよう、御座います……」
微笑む真田先生の顔が妙に魅力的に見えて、私は目を背けながら挨拶を返しました。恥ずかしくて、見ていられません。
目を逸らした先には、保健室の窓がありました。その窓から夜空が見えました。もうとっくに、クリスマスパーティは始まっていることでしょう。
「さっきの話だけど……」
ドクンと、心臓が強く脈打ちました。聞きたいような、聞きたくないような、そんな気持ちでした。いえ、聞きたくなんてありませんでした。よく考えてみれば、初めから私たちに勝機など無かったのです。
「い、嫌……」
もはやいつも通りの日常なんて、あり得ません。しかし私はそれよりも、真田先生に否定されることが、何よりも怖かったのでした。
「駄目。聞いて」
真田先生はそう言うと、横を向いて目を逸らしていた私の顎を、片手でくいっと引っ張りました。そうして強引に、真田先生と目を合わせられてしまいました。
やはりいつもの真田先生ではない感じでした。彼にしては、大立ち回りが過ぎます。そして何よりも、こうして先生と目が合っているわけですが、先生は少しも臆することなく、私と見つめ合っているのです。
そして、そんな真田先生も魅力的だと、私は思ってしまうのでした。
しばらく、真田先生と見つめ合いました。こう長くも目と目が合っていると、不思議と心が通じ合う気がしました。そしてどうやら、真田先生は私を悲しませるつもりが無いことも、何となく察することが出来たのです。
体育館からベルの音や、生徒達の騒ぎ声が薄らと聞こえてきました。良い感じの雰囲気だと思いました。クリスマスの夜。二人きりの保健室。私は期待せずにはいられません。
「僕は……」
そして真田先生が、口を開きました。
その続きは、よく聞こえませんでした。クリスマスの喧騒が喧しくて。いえ、未だバクバク脈打っている私の心臓が喧しくて。
「え、今なんて言ったんですか」
私は尋ねます。
「なんて言ったと思う?」
そう言って真田先生は、意地悪そうな笑みを浮かべました。
私の知らない、いつもとは違う表情でした。
現状維持のガラスを砕け violet @violet_kk
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