エピローグ

 北海道H市の四月は、まだまだ寒い。

 しかし、肌を切られるほどではない。

 寒いからこそ、春の息吹をそこかしこに感じることもある。

 そんな、寒くはあるが陽気な昼下がりであった。

 木造の建物の中、待合室のようなところに簡素な木のテーブルと椅子。そこに二人の男が、向かい合うように腰を掛けている。

 年齢は共に、五十前後であろうか。


「お前なに考えてんだ。ちょっとしょっぱ過ぎるだろ、これ」


 せりざわきようは顔をしかめ、ぺっと唾を吐き捨てるような仕草をした。


「いや、そういう細かいとこじゃなくてよ、基本コンセプトはどうかって話なのよ」


 とうごんぞうは、加齢で出来た顔中のシワをふにゃふにゃと動かした。


「だったらせめて、この入れ過ぎの塩をどうにかしろよ。評価出来ないだろ」

「しょうがないだろ。そうほいほい作り直す金もねえんだよ。うちにゃ、怖えのがいるんだから。脳味噌の中で、塩味だけ消せよ」


 そういうと権三はその、タッパに入った煮込み料理のようなものをスプーンですくい口に運び、あらためて自分でも味わってみた。


「うえっ」


 ぺっぺっ、と、やはり恭太のような仕草をとる権三であった。


「相変わらず嫁さん怖いのか?」


 恭太は両肘をテーブルに置き、両手を組み、尋ねた。


「ああ。そっちは?」


 権三は質問を返した。


「四十越えて、ますますな」


 二人は笑った。


「なんかいった!?」


 奥の方から、中年女性の怒鳴り声。

 恭太の妻、あいである。


「ほんとだな」


 権三は、両手で自分の肩を抱いて震えてみせた。


「だろ。それよりも、この声でこの距離で、なんで聞こえるんだよ。……なんにもいってないよ!」


 恭太は大声で叫んだ。悪口だったら、囁き声でも届くのだろうが。

 芹沢恭太は、ここ、吹けば飛ぶようなボロ旅館、「宿屋せりざわ」の主人である。

 後藤権三は、このすぐ近くにある「居酒屋ぷうりん」の店主。

 権三がどうしてここにいるのかというと、なんのことはない、創作料理の新メニューについて相談に来ているのだ。

 ぎい、と軋む音がして、正面玄関の扉が開いた。

 入ってきたのは、紺色の学校制服を着た少女であった。


「ただいま、お父さん。あ、ゴンちゃんも来てるんだ、こんにちは」


 恭太の娘、りつである。

 若い頃の愛子に似て、目のくりくりとした可愛らしい女の子だ。

 彼女は権三のことをゴンちゃんと呼ぶ。幼少の頃より権三自身がそういわせているうち、すっかり定着してしまったものだ。


「こんにちは、律ちゃん。随分と早い帰りだな」

「だって今日は入学式だもん」


 律子は地元の公立高校を受け、今日から通うことになったのである。


「ああ、そうだった。おれやキョンの後輩になるんだよな」

「はい。今後とも御指導よろしくお願いします、先輩」


 律子は仰々しくお辞儀をすると、いたずらっぽく笑った。


「部活はバスケ部にするのか?」


 父、恭太は尋ねた。

 中学の頃もずっとバスケ部だったから、きっとそうするのだろう。

 別に、サッカーをやって欲しいなどという願望があったわけではない。ただ、なんとなく聞いただけだ。


「もちろん」

「そうか。まあ頑張れ。果たしてどんな高校生活を送ることになるのやら」

「ああ、娘のこと信じてないな?」


 律子は腕を組んで、ほっぺたを軽く膨らませた。


「そうじゃなくて。ほら、同じ藤二高で、豪快な高校生活三年間を終えたばかりの者がいるだろ。この、同じ屋根の下に」

「ああ、そういうことね。そっか、そりゃ親としては不安になるか」


 律子は、納得したようであった。

 まあ、恭太にとって娘の学園生活は、不安だけではなく楽しみでもあるのだが。


「ああ、あいつのことね」


 隣で聞いていた権三も、納得したようであった。


「まあ律ちゃんなら大丈夫よ。あいつと違って」


 はははは、とひとしきり笑うと、


「しかしよ、キョン、この宿屋、どうするんだ? うちは、次男坊がやってくれることになったけど。定職にもつかずに、全国あちこちぶらぶら遊びほうけていると思っていたら突然、店継ぐよ、なんていいやがって」

「あ、そうなんだ。よかったじゃないか。こっちはそうだなあ……ま、なるようになるさ」

「人生の終着地点を考え始める年頃だというのに、相変わらず楽観的な奴だな、お前は」

「それしか取り柄がないからね」


 恭太はそういうと微笑んだ。


「そういやさ、コージから絵葉書届いたか? おれんとこに来たんだけど」


 権三は、葉書を取り出した。

 表面は実に達筆な筆文字で宛先宛名が書かれており、裏面は写真だ。

 六十を幾つか過ぎていると思われる浅黒い肌の外国人が、馬にまたがりテンガロンハットを振っている。

 以前、恭太たちが所属していたサッカークラブの、監督を務めたこともあるブラジル人である。

 故郷ブラジルで何年か監督を務めたのを最後に第一線からは退き、世界、特に貧しい国を中心に旅をして、子供たちにサッカーの楽しさを教えているとのことだ。


「ああ、うちにも来たよ、その葉書」

「馬に興じてるだけで、サッカーなんか教えてねえじゃねえか」

「別にそれが馬に乗ってる写真なだけで、ちゃんと教えてるかも知れないだろ。そうそう、今度同窓会しましょうとか書いてあったな」

「同窓会か。懐かしいな。みんな、どうしてるんだろうな」


 かつて一緒にJリーグを目指して戦った同志を、権三は遠い目で懐かしがった。

 観光名所で土産物屋をやっているこういちと、駅前でレストラン二店舗のオーナーを務めているがさわらしんとは、権三も恭太もよく会っているが、それ以外とはさっぱりだ。


「そうだゴン、お前にいうのすっかり忘れてた。ノッコから聞いたんだけど、ダイドーがあずさと結婚するらしい」

「本当かそれ? うおおおおおっ、あん畜生、四十過ぎて、ついに射止めやがったかあ。苦節、何年だ? 分からんけど長い道のりだったなあ」


 権三は大袈裟に、袖で涙を拭う真似をしてみせた。

 やけあずさは、彼らが所属していたことのあるサッカークラブで、大学時代の一時期、マネージャを務めていた女性である。

 選手であったおおみちだいどうという、ちょっと変わった名前を持つ男の猛烈なアタックを受け続け、ついに結婚を承諾したというのだ。


「人生で一番泥臭いゴールをついに決めたか。……引退して十数年経ってから、ようやく本物のアタッカーとして花開くとは」


 と、権三は演技っぽく感慨深げに腕を組む。


「上手くないよ、それ。この料理よりマシだけど」


 恭太は、先ほどの料理を、あらためてフォークでほじくり返し、口に運んでみた。

 ぺっ。


「みんな招待するっていってたから、だからそれが同窓会になるだろ」

「そうね。コージも来るのかな」

「分からん。来そうな気がする。恐ろしく奇抜なあらわれかたで」


 と、二人が懐かしい人物の話題に花を咲かせているところ、愛子の怒鳴り声が轟いた。


「だからここで蹴るなっていってんでしょ! 窓ガラス割ったらどうすんの! やめて! 割れるからやめ…ああああああ!」


 ガラスの砕け散る音。

 愛子の絶叫。

 また、やったか……

 恭太はため息をついた。


「だからいったでしょ! 下手くそなくせに、こんなとこでボール蹴るな! じゃない、上手だろうと蹴るな! もうやだあ。ほんと誰に似たんだか。お客さんのいない部屋だからよかったものの。……分かってんの、ゆうすけ!」


 中庭で、愛子が誰かに説教をしている。


「いや、だからさ、おれ、リフティング苦手じゃん。でも、やっぱりお客さんには迷惑かけたくないな~とは充分過ぎるくらいに痛感していて、だからせめて出来ることとしては健気に練習することくらいなんだよね」


 のらりくらり語る少年のような声。これが、窓ガラスを割った張本人である祐介であろう。


「い い わ け す る な! そ と で け れ! 今月小遣いなし!」

「え、うそおーっ! ということは、今後も小遣いくれるってこと? やったあ」

「間違った。ガラス代、給料から払え」

「え~、まだC契約なのにぃ。ヒジョーニキビシー!」

「知るか、そっちの事情なんか。それが嫌なら夜ここで皿洗いしろ」

「どうしようかな。来年までには結論出すよ。とりあえず、もう時間だからそろそろ出掛けなきゃ。社会人一年目の若輩としては、初日はちゃあんと余裕を持って行かなきゃあね」


 と、ボールを蹴りながら中庭から出て建物の中へと入って来たのは、髪の毛ぼさぼさジャージ姿のひょろりとした青年であった。

 ひょろり、といっても痩せているからであり、背はそれほど高くはない。百七十もないであろう。

 中学生といっても通じそうな、あどけない顔をしている。

 芹沢祐介、恭太と愛子の息子である。

 今年、地元の高校を出たばかり。入れ違いに、妹の律子がそこへ入学したのである。

 彼は割れた窓ガラスの片付けを母親に任せ、まるで悪びれる様子もなく屋内の通路にてリフティングを始めた。

 足の甲で右、左、右、ボールを放り上げて太ももで右、左、右。


「ああ、落としたっ」

「落としたじゃない。お兄ちゃん、旅館の中で蹴るのやめなよ!」


 弾むボールを律子が踏み付け、腰に両手を当てて祐介の前に立ち塞がった。


「そうだ、律子のいう通りだぞ」


 何故か弱々しい父の声。


「お前の父ちゃんもよく中庭で蹴ってガラス割って、亡くなったひい婆ちゃんに怒られてたけどな」


 と、いうことらしい。


「ゴン、余計なこというなよ」


 恭太は、権三の脇腹に肘鉄を入れた。

 ますます威厳がなくなるだろうが、と。


「あらあ、お坊ちゃん、また割っちゃったんですかあ?」


 いしだてこづえという仲居さんが、パタパタと小走りにやって来た。


「もう、ダメですよ。めっ。旦那さんも、ちゃんと叱ってくれなきゃあ。ああ、奥さあん、あたしが片付けるので、そのままにしててくださあい」


 せかせかパタパタ慌ただしく、彼女は中庭へと姿を消した。

 相変わらず騒々しいな。ほんと、裕介をいつまでも子供扱いだよなあ。

 恭太は、心の中で笑った。

 彼女は仲居の中では一番長く働いており、リーダー格である。祐介が生まれる前からここにいるのは、従業員の中では彼女と、料理人のかたいしさんだけだ。


「こづえさん、相変わらず騒々しいなあ。つうか、いつまでおれのこと子供扱いにすんだよなあ」


 祐介は頭を掻きつつ苦笑した。

 彼は、このように思考回路としては多分に父親ののんびり気質を受け継いでいるのであるが、考えていることをいちいち口に出すか出さないかというこの一点が、二人の印象がまるで異なる大きな要因であろう。


「お前がガラスを割るから悪いんだ。反省しろ。これから社会に出るんだぞ。世間の荒波は、きっと厳しいぞ。覚悟は出来ているのか?」


 恭太は、父の威厳を取り繕うように、真顔で祐介に尋ねた。


「当然」


 祐介は頷きながら不敵な笑みを浮かべた。


「でもまあ、凄いよね。お兄ちゃんがプロサッカー選手だなんて」

「そのさ、でもまあって、どういう意味だよリツ」

「言葉の通りの意味だよーだ」


 律子のいう通り、祐介は今日からプロサッカー選手、Jリーガーなのである。

 所属するのは地元のクラブだ。

 そこはかつて、イクシオンACという名前であった。

 十六年前のJFL昇格と同時に、現在の名称となった。

 そこからなかなかJリーグ参入を果たすことが出来ないまま、新規に創設されたJ3に移り、長い長いJ3時代を経て、去年からついにJ2に昇格。既にシーズン途中であるが、本年度がJ2として二年目である。

 祐介はそのクラブのジュニアユース、さらにはユースとして所属し、ついに本年度より念願のトップ昇格を果たしたのである。

 クラブの方針で、学業に身を置いている者はトップには置かないため、シーズン始動して二ヶ月、リーグが始まって一ヶ月からの加入である。

 桜の花とともに、Jリーガーになるのだ。

 正確には、桜より一ヶ月前だが。北海道なので。


「祐介、今日の午後練習から参加予定なんだろ? 挨拶したりすんだろ? 時間は大丈夫なのか? 初日から遅刻なんて、シャレにならんぞ」


 これからは口を出さずにすべてを祐介に任せよう、と思うものの、ついつい口を出してしまう恭太である。

 しかし今回に限っては、口を出して正解であった。


「大丈夫大丈夫。……あれ、いま何時?」

「一時」

「やべえ! いま十二時だと思ってた! あああああ、遅刻遅刻、ちっこくほほほーー!」


 その場でバタバタ慌て始める祐介。


「アホかお前は! ほほーじゃないよ。しかたねえな、父ちゃんが車で送ってやるからさ!」

「いいよいいよ、急げばぎりぎり間に合う、ような気がする」


 あたふたしながらも、あくまでのんきの抜けない祐介である。


「ああ、祐介、そういえばなあ、ノッコ……日野のおじちゃんがな、Jリーガーになった記念にってお前にプレゼントくれたぞ」

「え、え、ほんと? どんなのどんなのっ?」


 祐介は、時間がないのも忘れて、テーブルにバンと両手を置いて、わくわくとした表情で身を乗り出した。


「ほら、これ」


 恭太が足元のバッグから取り出したのは、両側からレバーを摘んで捻って、透明ケースの中の選手たちをくるくる回してボールをピコピコ蹴り合うような、大昔からあるサッカーゲーム玩具の、手のひらサイズ版であった。おもちゃ屋や土産物屋で、三百五十円くらいで売っているような。

 ひゅう~~。

 すき間風が吹き抜けた。ボロ旅館の建付けが悪いのか、それとも……


「もう、時間ないっていってんだろ! 今度おじちゃんに、とりあえずお礼いっといてよ、とりあえず。そんじゃ!」


 祐介はボールを律子から奪い返すと、ドリブルをしながら器用に扉を開けて外へと出た。


「だから建物ん中で蹴るなって! まあいいや。頑張れよな、裕介!」


 後を追って外へと出た恭太は、息子の背中へ声を投げ掛けた。

 その、決して大きくはないけど可能性のたっぷりと詰まった背中を見ているうち、恭太の顔にはじんわりと温かな笑みが浮かんでいた。

 かつて自分が昇格の手伝いをしてきたチームが、入団から三十年近い年月を経て、ついに日本の最高峰リーグにまで昇ろうとしている。あと一歩というところまで。

 自分にはもうなにをする力もないけれど、息子には、それをかなえられる若さ、無限の可能性があるのだ、と。

 祐介は、くるりと振り返った。

 笑みを浮かべ、拳をぎゅっと握り締めた。


「ああ、任せとけって。すぐに試合に出て、バンバン点を取って、一年でJ1に上げてやるぜ!」


 それだけいうと、またくるりと背中を向けて、ドリブルで駆け出した。

 恭太たちは、小さくなっていく祐介の背中をいつまでも見つめていた。

 夢は受け継がれた。

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きらりキラリ かつたけい @iidaraze

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