最終章 きらりきらり

     1

「うおおおおおおおおおっ! うおおおおおおおおっ! うおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 常日頃から無駄にうるさいと人類より疎まれ続けているイクシオンAC主将のこういちであるが、ここまで無駄にうるさいのは何年ぶりであっただろうか。

 それは、北風のいたずらがもたらしたささやかなファンタジー。

 最終戦だからなのか分からんけど今日はやけにスタジアムへと向かう人が多いなあ、お、お、あの娘可愛い、などと舌をぺらぺら道を進んでいたところ、突然その若い女性のスカートが風でめくれ上がったのだ。


「今日は絶対に勝てるっ! 勝てるっ! 勝てるぜええーーーっ!」


 なおも、ディスイズウーメンゴッドカムヒアなどとさっぱりわけの分からない日野英語などを叫び続けていると、先ほどから隣でうざったそうに顔をしかめていたがさわらしんが、


「いい加減に黙れバカ」


 ついにその坊主頭をブン殴った。

 バスを降りてからスタジアムまでの道のりを、そんなバカバカしいやりとりをしながら歩くイクシオンACの選手たちであった。これから大切な試合があるというのに……

 雑居ビルの点在する角を曲がったところ、一昨日、昨日、と戦ってきた舞台であるトヨカワ電子スタジアムが姿を現した。

 これから彼らは驚くべき事態に遭遇することになるのだが、大会最終日である今日になって、このようなところで、まさかまさかのそのような光景に出くわすことになるなど、果たして誰が予想出来たであろうか。

 選手たちだけでなく、きっと近隣住民にとっても驚くべきことであったに違いない。

 なんと、スタジアムの入口まで、異常なほどの長蛇の列が出来ていたのである。

 三万人を収容出来る競技場であるからして、催されるイベント内容によってはこのようなこともあるかも知れない。しかし、ここでこれから行われるのは、たかだかサッカー都道府県リーグの大会でしかないというのに。

 実際、昨日までは閑古鳥が泣くほどの観客数でしかなかったというのに、これは一体、どうしたことであろうか。

 行列の内訳だが、中高生から青年、男性がやや多くはあるものの、特に片寄ることもなく老若男女が列を成している。中には外国人の姿も見られる。


「おいおい、ちょっと、これなんですかああ、なんなんですかああ! うおおおおお、なにこれええ? なんなのお!」


 頭を抱えて叫んでいるのは、おおみちだいどう。最近ポスト日野として株価急上昇といわれる男である。単に鬱陶しさが、であるが。


「赤が多いね」


 ながおかたくみが、誰にでもなくぼそり呟く。

 確かに、ダウンジャケットやマフラー、ニット、女子のスカート、など服装に赤が目立っている。

 赤といえば、クイケラーサYKCB、およびイクシオンACのチームカラーが共にワインレッドで赤系である。


「うちに、こんなにサポいるはずないから、じゃあクイケラーサかな。最終戦くらい観てやろうって」


 大道が腕を組んで小首を傾げ、うーんと唸った。


「すみません、ちょっとおうかがいしたいんですが」


 小笠原慎二が、家族連れっぽいお父さんに声をかけた。そして、家族でここへ来た理由を恐縮しながらも単刀直入に尋ねた。

 するとお父さんは、


「ああ、こんなのをショッピングモールの前で配っとったんですよ」


 と、手にしていたチラシを見せてくれた。

 小笠原はそれを手に取った。

 そして、絶句した。



「いざ決戦!」

「北海道の新星 イクシオンAC!」

「超難敵シーゲイル旭川! 撃破なるか!」

「振り絞れ勇気!」

「勇気といえばドリームボール」

「めざせJリーグ!」

「みんなで応援しよう!」

「赤い服を着て集まれ!」

「無料だよ!」

「あの超有名人、コージもくるよ!」

「コージが監督のチームだよ!」

「観にきてね!」

「ヨ・ロ・シ・ク・ね!」



 写真はほとんどなく、代わりにというべきか感嘆符の付いた文句で紙面は過剰なまでに埋め尽くされている。

 唯一の写真が、左下隅っこの縦長楕円の中、英会話ポスターのように不自然ににっこり笑っているコージの顔、吹き出し付きの「観にきてね!」の部分だ。


「コージ! なんだよこれ! だからそんな格好をしてたのかよ」


 小笠原はコージへと詰め寄り、手にしたチラシを突き出し、突き付けた。

 確かにコージは、普段と違う格好であった。

 普段はスーツ姿で堂々としているのだが、今日は帽子にサングラス、もこもこのダウンジャケット。

 バスを降りてからずっと、肩を小さくして目立たないようにこそこそしていたのだが、要は客に取り囲まれて収拾のつかない状態になることを避けていたというわけだろう。


「ったく、よくこんなに集まるくらいまでビラ配りなんか出来たな」

「実は、彼らにお願いをしました」


 コージの指差す方へみなが視線を向けると、長蛇の行列を挟むようにして、十数人の肌の浅黒い外国人男女が、半透明の赤ビブスや、応援歌カードなどを配っている。


「この近辺に住むブラジル人労働者です。一昨日の夜、一人に声をかけたら、快く引き受けてくれて、こうして仲間を集めて駅やデパートの前で配ってくれたんです。みなさん、ありがとうございました!」


 コージは彼らに手を振った。


「ハーイ」

「ミナサン、カテクダサイネー」

「オウエンシテル、ガンラッテクダサイネー」


 彼らは真っ白な歯を見せ、笑顔で手を振り返した。


「実はあたしも手伝ったんだよねー」


 などと頭の後ろで手を組んでのほほんとしているのは、女子マネージャのやけあずさだ。


「なにお前こっそりと。でもよ、田島さん、こんなことして問題ないのかよ。コージの名前、ばんばん出しちゃってるけどいいのかな」


 とうごんぞうはふと気になったか、遠征に帯同しているスポーツクラブイクシオンの社員であるしまゆうに尋ねた。居酒屋という客商売をやっているだけあって、苦情に敏感で先回りしてしまうのかも知れない。

 親友のせりざわきようも同じく客商売であるものの、彼は客室の窓ガラスにサッカーボールをぶち込んで砕き割ろうとも平然としているので、単に性格かも知れないが。


「まあ、コージさんは最初から、特に名前を隠したりはしてませんからねえ、別にいいんじゃないでしょうか。コージさん自身の立案だし、相手選手の写真は使ってないから肖像権的にも問題ないでしょうし。だから、我々責任による問題さえ何事も起こらないのであれば、構いません」


 田島雄二は事務的な口調できっぱり答えた。


「そうなの? なんか適当だな。しかしすげえよなあ、この行列。何千? 何万? どんだけいるんだよ」


 権三は改めて行列に目をやった。


「うーん、中学生の頃に松山千春のコンサートを見にいった時よりすげえな。お、なんか入口の近くに警備員もいるぞ、随分たくさんと。昨日までは全然いなかったよな」

「田島さんに、協会と競技場の管理者にかけあってもらって、わたしが自腹を切って用意しました。本当に観客が来てくれるかなんて、全然分からなかったですけどね」


 コージは、平然とした顔で答えた。


「自腹って……すげえなコージ。でもそれ以上に、本当にこんな来ちまう客がすげえ。こんなたくさん」

「ほんとほんと」


 大道が、手のひらを目の上にかざした。

 と、驚き騒ぎながらも、彼らは、これだけの長蛇の列を目の当たりにしても、ここにどれだけの人数が集まって来ているのか、いま一つピンときていないようであったが。

 まあ、数十人という観客規模の中でしか試合をやったことのない彼らに、この人数を実感しろという方が無理な話ではあろう。

 そうであればこそ、このあと観客席で彼らは衝撃的な光景に度肝を抜かれ、一生忘れることのないであろう素晴らしい思い出となったわけだが。


 さて、そうこうしているうちにスタジアムまで到着。

 イクシオンACの選手たちは昨日までと同様に、スタジアムの裏門から中へ入り、

 トレーニングウエアへ着替え、

 試合直前のミーティングを行い、

 そして、ウオーミングアップの時間を迎えた。



「一番乗りい!」

「ああくそ、おれ二番!」


 ロッカールームから通路を全力疾走の日野浩一と、大道大道。まるで悪ガキが修学旅行で風呂に入るかのような猛烈な勢いでゲートをくぐり、外へと飛び出した。続く、他の選手たち。

 そして彼らは、見たのである。

 三万人を収容するスタジアムの、びっしりと埋め尽くされた観客席を。

 メインスタンド、バックスタンド、ゴール裏自由席、すべて赤、赤、赤の、超満員の状態であった。


「これみんな、さっきの人達なのか。ロッカールームで、さすがに騒々しいなとは思っていたけど……」


 よしは目を見開き、呆然とした表情のまま、小さく口を動かした。

 大行列は先ほど見た。だがしかし、それがまさかここまでとは思わなかったのだろう。


 どんどんどんどん!


 低い音が鳴り響き、空気を震わせた。

 選手の姿が見えたため、イクシオンACサポーターが応援の太鼓を叩いたのだ。

 それに合わせて、スタジアム全体から拍手が起きた。

 まばらではあったが、それがやがて大きくなり、一つの渦となって選手たちの鼓膜を、全身を震わせた。

 分かってはいるのだろう。

 選手たちは、みな。

 ここに来ている観客のほとんどは、サポーターでもなんでもない、一般人であるということを。

 しかし事実がどうであろうとも、選手たち胸の奥になんとも名状しがたい熱い気持ちが沸き上がるのを抑えることは出来ないようであった。


「すごい」


 はしもとひでも、木場と同様に呆然と突っ立っていたが、ようやく、それだけをぼそりと口に出した。


「本当だ」


 大道は震える手を、指先を、そっと鼻の頭に持っていき、特にかゆかったわけではないのだろうが、軽く掻いた。


「言葉が出ねえ」


 小笠原はそういうと口元をきゅっと結び、ゆっくりぐるりと回って、観客席の観客たちを、このスタジアムを、しっかりと目に焼き付けていた。


「なんだよ、くそ、ずるいな。代表とか、Jリーガーって、こんな感じのとこで、いつも試合してるんだ。……羨ましいな。……最高だな、これ。最高だな」


 日野は、うっと喉を詰まらせたかと思うと、空を見上げ、まるで無邪気な子供のように大きな声をあげて泣き出してしまった。


「おい、泣くなよバカ」


 芹沢恭太は苦笑しながら、日野の肩を軽く叩いた。坊主頭をなでた。


「だって……だって」


 なおも泣きじゃくる日野。

 身体の中のどこにあったのだろう、というくらいにボロボロと、大粒の涙がこぼれていた。

 心の中のどこにあったのだろう、というくらいに純粋な、涙であった。

 さすがにこのように感極まって嗚咽するほどではないものの、恭太も、胸の奥からなんともいえない暖かな気持ちがわき上がってくるのを抑えることが出来なかった。

 これから……ここで最後の戦いが始まるんだ。

 そう胸の中でとなえていた。

 コージが用意してくれた、この凄まじいまでの茶目っ気、粋なはからい。

 最後の最後まで、おれたちを楽しませ、勝たせようとしてくれた。

 その気持ち、決して無駄にはしない。

 そうだ、無駄なのはノッコのバカ迷惑な大声だけで充分だ。

 恭太はぎゅっと拳を握った。


「やるぞ」


 小さく口を開き、静かに呟いた。


     2

「行くぞ、てめえら!」


 こういちは少しだけうわずったような声で、そしてなんだか怒ったような表情で、拳を振り上げた。

 イクシオンACの選手たちは、ワインレッドのシャツ、ダークブルーのパンツというユニフォーム姿になり、列を作っている。キックオフまであと五分。これから入場である。

 隣には対戦相手であるシーゲイル旭川の選手たちが、やはり列を作って入場の時をいまや遅しと待ち構えている。早く昇格決定という喜びを味わい、まさかという不安や緊張から解放されたいのだろう。

 イクシオンACのこれまでの戦績は、二戦一勝一分、勝ち点四、得失点差は一。

 シーゲイル旭川は、二戦二勝、勝ち点六、得失点差は十一。

 その結果だけで考えるのならば、シーゲイルの強さは圧倒的だ。

 やってみなければ分からないのがサッカーであるとはいえ、イクシオンACが苦労の末に逆転勝利したクイケラーサYKCB、追い付かれて無念の結果に終わった豊川印刷FC、このどちらに対してもシーゲイル旭川は完膚なきまでに相手を叩きのめして勝利しているのだから。

 とはいえ繰り返すが、やってみなければ分からないのがサッカーという競技だ。

 過去二戦のデータがどうであろうとも変わらぬことはただ一つ、この試合を制した方が昇格する権利を得られるということ、ただそれだけだ。

 だから、下馬評では優勝間違いなしとされながらも、シーゲイル旭川の選手たちの中には、相手を舐めて気を緩めているような者は一人もいないだろう。

 シーゲイル旭川には、元Jリーガーが何人もいる。

 FWのないとうしんろう、GKのたかはたひろしなどだ。

 特に高畑弘などは、J2クラブ在籍時代に二度も、勝ち点差一で昇格を逃してしまうという悲劇を経験している。しかも二度目などは、最下位相手に敗北してだ。

 アマチュア選手の方が遥かに人数が多いとはいえ、そういったプロの魂や経験がチームに浸透してこそのブロックリーグ制覇なのであれば、この試合、油断などするはずはないだろう。相手がどこであろうと全力で勝ちにいく、ただ、それだけであろう。

 そういうピリピリとした空気を焼けた猛風のように肌で感じていたからこそ、日野浩一は負けてたまるか畏縮してたまるかと普段以上に気合いを入れていたのだろう。


「それでは、選手の入場です。みなさん、拍手で迎えて下さい」


 場内スピーカーから流れたその声に、サポーターが、そして観客席の観客から拍手が起きた。それはあっという間に全体に伝播し、嵐のようになって会場を包み込んだ。

 鼓膜を震わすその凄まじい喚声に、敵、味方、ここにいるすべての選手たち、関係者たちは改めて、これまでの二戦とは違う異質な雰囲気を感じていたことであろう。

 負けられない戦いであること、それを、この予期せぬ大喚声が呼び起こしての武者震いであるのか、

 それとも単に、このような満席の中での試合ということへの興奮なのか、

 選手たち自身にも、よく分かってはいないようであったが。

 まあ、勝った方が昇格という、いわば決戦なのだ。普段以上に異質な雰囲気なのは当然というものだろう。

 喚声に背中を押されるように、選手たちは、ゆっくりと進み始めた。

 差し込んできた光が、真っ白に彼らを照らした。

 次に、彼らの視界に飛び込んできたのは、観客席をびっしりと埋め尽くす人たちの姿。

 先ほどもウオーミングアップの際に見て知っていたはずなのに、改めて感動したのか日野浩一は鼻の頭を掻き、ずずっとすすった。

 シーゲイルの選手たちも、やはりこの雰囲気には驚きと、感慨深いものを感じているようであった。特に元Jリーガーにとっては、相当に複雑な感情が胸の奥底に込み上げていることだろう。

 沸き起こる拍手の中、選手たちは一歩、また一歩と前へ進んでいく。


「ヘーイ!」


 行く先に待ち構えていたコージが、昨日とはうってかわってのハイテンションで、せわしなく中腰で跳びはねながら、両手を上げて自分の選手たちにハイタッチを求めてきた。

 先頭の日野は、苦笑すると両手を振り上げて、


「イエーーーイ!」


 パシッ、とハイタッチ。


「イエーイ! なにか一言ォ」

「ぜーーーーーったいに勝つ!」

「勝ちましょう!」

「おう!」


 ぎゅっと拳を握った日野は、太い笑みをその顔に浮かべた。

 日野が進んで、次は大道大道だ。


「ハット!」


 と、それだけ叫ぶと、コージとハイタッチ。


「点取ります!」


 大城政。


「優勝!」


 和歌収。


「北海道!」


 後藤権三。


「守る!」


 橋本英樹。


「やるだけ」


 長田巧がぼそぼそと。


「無失点!」


 木場芳樹。 


「料理してくらあ」


 小笠原慎二。


「頑張ります……」


 村山伴。

 彼らは次々と、コージとハイタッチしてはピッチへと入っていった。

 イクシオンACとシーゲイル旭川、入場を終えた両チームの選手たちは、記念撮影と審判団への挨拶の後、ピッチ上に散らばり、個々にボールを蹴り始めた。

 主審の笛に、外へボールを蹴り出すと、それぞれに集まって円陣を組んだ。

 イクシオンAC側の円陣、肩を組みぐっと寄せ合った顔を一人一人見回した日野浩一は、一瞬の間をおき、そして口を開いた。


「これが最後の戦いだ。絶対に勝って、絶対に昇格しよう。来年はみんなで……必ずみんなで、北海道リーグに乗り込もうぜ。この試合、もう、あれやこれやとやれることなんかねえ、気合いだけだ! 暴れてやろうぜ、てめえら! いくぞ!」

「おう!」


 選手たちは、日野に負けじと叫んだ。


「優勝!」

「おう!」

「北海道!」

「おう!」


 イクシオンACの選手たちは、円陣を解いた。


「いやあああってやるぜえっ!」


 大道大道はけたたましい声をあげ、気合いを入れながら、センターサークルへと駆け出した。

 大城政もあとを追う。けたたましい声は出さなかったが。

 他の選手たちも、それぞれのポジションへと散らばった。

 シーゲイル旭川の選手たちはとっくに円陣を解き散らばって、足首のストレッチをしたり、靴紐を結び直したりしている。

 芹沢恭太は手を当てた腰を右に左に捻りながら、青い空を見上げていた。

 視線を落とし、満席の観客たち、緑色のピッチ、そして仲間たちの姿を見た。

 先ほど、日野はあえてああいっていたが、現実としてこのメンバーでやれる試合は、これが最後かも知れない。

 自分が去ることになる可能性だって、充分に有り得る。

 もし昇格を決めたのならば、なおのことだ。

 だって、イクシオンACは、Jリーグを目指しているのだから。場合により選手の大幅入れ替えもあるだろう。

 そうなったとしても、

 それで自分が消えることになろうとも、構わない。

 都道府県リーグに莫大な予算を出す企業などはない。アマチュアである自分たちがいなければ、このチームはここまで登ってくることは決してなかったのだ。

 そうした誇りを胸に、おとなしく身を引こう。

 この先になにがあろうとも、この試合を全力で戦って、勝つだけだ。

 だって、そのためにみんなと今日まで頑張ってきたんじゃないか。

 勝つために死力を尽くし、そして、楽しもう。みんなと一緒にやれる、この試合を。

 全力で。



 そして、試合開始の笛が鳴った。


     3

 失点から始まった。

 印象としても、事実としても、その通りというしかなかった。

 イクシオンACにとって、この試合は失点から始まったのである。

 よしの手の届きようのない遥か先をボールが疾り、突き破らんばかりの勢いでもってゴールネットへと刺さったところから、このお互いに譲ることの出来ない昇格に向けた激闘の火蓋は切って落とされたのである。

 スタジアムは、静まりを見せていた。

 トヨカワ電子スタジアム、収容人員三万人の、この地域としては非常に大きな規模の競技場である。

 席は満席、ではあるものの、コアサポなどと俗に呼ばれる熱狂的な応援団はほとんどいない。普段のブロックリーグと同様、十数人といったところである。

 何万という客席を占めるほとんどが、コージのばらまいた勧誘ビラを見て来た者ばかり。しかしその宣伝効果によって、客の大半は心情的に、どちらかといえばイクシオンACを応援していた。赤い服まで着て。しかしそのため、この失点に対してどのような反応を取るべきか分からずに黙ってしまったのだろう。

 サッカーを初めて観戦する者も多かったであろうし、要は応援の仕方の勝手がまるで分からないのだ。

 イクシオンACサポーターの太鼓の音、そしてイクシオンコールが起こり、ようやく観客席からも点を取り返すぞという応援の拍手が起こった。

 反対側ゴール裏からも、ドンドンドンドンと激しい太鼓の音。こちらはシーゲイル旭川サポーターであり、先制したことを喜んでいるのだ。

 ピッチでも、シュートを決めたFWの内藤慎太郎が、他の選手に抱き着かれながら雄叫びを上げている。

 イクシオンACのGK木場芳樹は、ゆっくりと立ち上がると、悔しそうに芝を踏み付けた。



 前半0分。

 イクシオンAC 0 - 1 シーゲイル旭川

 得点者 内藤慎太郎(シーゲイル旭川)



 イクシオンACが失点した局面的な要因としては、大きく分けて二つ。

 一つには、シーゲイル旭川の明らかなファールを主審も副審も見逃していたこと。故意ではないのかも知れないが、シーゲイル旭川のボランチかつまたてるあきおさむの顔面に肘打ちしてボールを奪い、完全にフリーになったことから良いパスを繋げられてしまったのだ。

 もう一つには、選手たちのセルフジャッジ。

 「和歌へのファールだろう」とイクシオンACの選手たちは動きを止め、「おいファールだろ!」とアピールする間にゴールを決められてしまったのだから。

 イエローカードが出てもおかしくないファールを流されて失点、こういちは主将として選手として猛烈に抗議をしたが、実りなし。審判はまるで話を聞く耳を持たなかった。持ったところで、動いた得点は元には戻らなかったであろうが。


「ファング、すまん」


 はしもとひでは悔しそうに、詫びた。

 確かに、もう少し集中していれば、イエローカード覚悟で袖を引っ張るなど、失点を止める方法などいくらでもあったであろう。


「そんな気にすんな。おれはニワトリだ。コケコッコーだ。三歩で忘れちまったぜ」


 木場芳樹は、ふふんと鼻で笑った。

 スランプから立ち直るきっかけになった、このコケコッコーであるが、本人はいたって気に入っているらしく、最近このようにやたらと口にする。

 だが今回に限っては、それは焦りを隠すための強がりであったのかも知れない。

 焦りを抱いたとしても、それは当然であろう。

 リーグ戦のデータだけを見ても、もしくはこれまでの二試合だけを見ても、シーゲイル旭川は充分過ぎるほどに難敵なのだ。破壊力抜群、守備は要塞のごとく堅牢。そんな相手に開始直後の失点、平常でいられる方がおかしいというものだ。


「まだまだ始まったばかり! 一点失ったんなら一点奪えばいい! いくぞ!」


 主将の日野浩一は叫んだ。

 味方を、というよりは、自分の気持ちを鼓舞したのかも知れない。

 イクシオンACサポーターの、太鼓の音や叫び声。

 でもそれは少し元気なく、シーゲイル旭川サポーターの歓声に完全に掻き消されてしまっていた。

 試合再開。

 イクシオンACのキックオフだ。

 大道は、すぐ横の大城へとパスを出した。

 シーゲイルのFWが全力でプレッシャーをかけてくるのを見て、大城はくるり後ろを向くと、ボールを戻した。


「いくぞおら!」


 日野が走りながら、そのボールを前へ大きく蹴った。

 山なりのボールが上がり、左サイドで長岡と8番が競る。

 頭に当てて落としたのは長岡巧であったが、8番に回り込まれて奪われてしまった。なか西にしまなぶ、右サイドの選手で、彼もまた元Jリーガーだ。FKの名手であるだけでなく、このようにボール奪取能力も高い。

 中西学は、33番のボランチ勝又輝明へパス。

 和歌収が、先ほどの肘うちの仕返しとばかり激しい勢いでスライディングで突っ込み、奪い返していた。

 勝又輝明はよろけて転んだが、和歌の足はしっかりボールを捉えており、笛は鳴らなかった。

 大きくサイドチェンジ。

 右サイドを駆け上がる芹沢恭太へと送ったものだが、ボールの反対側からシーゲイル14番、さくらじゆんも突っ込んでいく。

 タッチの差でボールに触れた恭太は、くるり反転。勢いを殺せなかった14番桜木純悟の突進を背中にどんと受けるが、ぐっと踏ん張って、自分とサイドラインとを使ってボールを守った。


「キョンさん!」


 SBである村山伴の、足音と声。

 恭太は敵陣へと背を向けながら、ちょこんと左足の内側で横パス。

 村山が速度を殺すことなく受けて、そのまま駆け抜けた。

 そして、相手の守備態勢の整わぬうちに浅い角度からクロスを上げた。

 ゴール前では、大城が待ち構えている。

 目測した落下地点へと入り込む大城。

 しかし、シーゲイルGKが冷静に大きくジャンプしながらキャッチ。たかはたひろし、J1クラブのユースからJ2クラブに入り、三十歳までに三つのJ2クラブを渡り歩いた男である。さらにJFLで二年、そして現在に至る。


「惜しい! でもこの調子でいくぞ!」


 叫ぶ日野浩一。

 しかし、この調子、でいくことは容易ではなかった。惜しいといえる攻撃はこの一回のみで、その後、チャンスといえるチャンスはさっぱりであった。

 シーゲイル旭川は爆発的な攻撃力を持つチームであるが、先制したことが原因なのか、あまり攻めてこなくなったのである。

 初戦の相手である豊川印刷に対しては、先制後はむしろどんどん攻めて点を取り続けたシーゲイルであるが、イクシオンACには慎重に対応しようとしているようだ。


「難的と見たからというより、最後の一戦を確実に勝つため、万に一つも取りこぼしたくないからでしょうね」


 ピッチ脇で腕を組んでいるコージの呟き。

 鉄壁守備のシーゲイル旭川が、さらにがっちり固くなってしまったわけであるが、それはイクシオンACにとっても、悪いことばかりではないはずであった。

 序盤のままの勢いであったならば、何点取られていたか分からないからだ。

 とはいえ、隙を見せたら一瞬でやられてしまうだろうが。


「落ち着いて! 攻め急がない! まだゼロゼロ!」


 コージはそう指示を出した。

 実際は0-1で負けているのだが、同点のつもりで焦らず冷静に戦えということだろう。

 選手たちは頷くものの、リードされている焦りのためか、知らず知らず前掛かりになり、攻守のバランスが乱れてしまっていた。

 そこを突かれて、何度も危険な場面を作られていた。

 そこを突かれていると分かっているのだから、そこを修正すればよいだけなのであるが、そもそもの修正がきかないからこその、この事態。個々の頑張りと運で、なんとか食い止め続けていたものの、サッカーというチームスポーツで個人としてもチーム力としても上回っている相手に、ちぐはぐになったまま個々の頑張りだけで対処出来るはずもない。

 ……むしろ、よく持ちこたえた方だともいえるだろう。

 前半四十分、イクシオンACは、ついに追加点を許してしまったのである。

 オフサイドトラップをかけ損じ、遥か先を走るFWの背中をDF陣がただ見守るばかりという、本人たちとしても応援する側としても実に情けない失点を喫してしまったのである。



 前半四十分

 イクシオンAC 0-2 シーゲイル旭川

 得点者 たけよし(シーゲイル旭川)



 リードを広げられたイクシオンACは、ますますチームとしてちぐはぐになり、相手が攻勢を強めたわけでもないのに自ら防戦一方の状態を招き、そしてハーフタイムをむかえた。


     4

 イクシオンACの選手たちは、意気消沈とした表情でロッカールームへ入って来た。

 自分たちが失点しなければ、こんなことにはならなかったのに、

 自分たちが得点していれば、こんなことにはならなかったのに、

 みながみな、そのように一人で責任を背負い込んでいるようであった。

 そんな重い空気を全身にまといながら、部屋に入って来た選手たちである。先に来て待ち構えていたコージの顔を見て、少なからずの驚きが浮かぶのも、こういちおおみちだいどうのようにあんぐりあいた口がふさがらないのも、ある意味当然のことといえた。


「みなさん、お疲れ様でえす」


 何故ならばコージは、ニコニコと実に楽しげな満面の笑顔を浮かべていたのだから。

 昨日行われた豊川印刷FC戦のハーフタイムでは、リードしていながらもあんなに弱気な様子だったというのに。

 追い付かれて終戦となった後のバスの中では、ほら嫌な予感的中デースとばかりに一人で暗い暗い空気を背負っていたというのに。

 それが、絶対に勝たねばならない最終戦で強豪チーム相手に二点ものビハインドを負っているというこのハーフタイムに、何故そんな笑顔でいられるのか。

 ほとんどの選手たちがおそらくそのように思いきょとんとしている中、せりざわきようだけは苦笑を浮かべていた。

 コージは本年度にイクシオンACの監督として就任してからずっと、恭太の経営する旅館に客として宿泊している。

 恭太とコージは、よく酒をちびちび飲みながらサッカーやその他のどうでもいい話などをして夜を明かした。

 だから、よく分かっていた。

 このブラジル人は、人を驚かせ、楽しませるのが大好きなのだ、と。

 そうならば、ここは黙ってそれに付き合ってあげるか。

 恭太はそう思い、この場をおとなしく見守ることにしたのであるが、そうすればするほどコージの態度がおかしくて、笑みを抑えるのが大変であった。


「おい、コージのおっさんよ、なに楽しそうにしてんだよ。二点もリードされてんだぞ!」


 日野浩一が、掴みかからんばかりの勢いでコージへ迫る。

 これまでの信頼がなかったら、間違いなく付かみかかっていたことだろう。


「渋い苦い顔になって勝てるというのなら、みんな渋い顔になればいいんですよ。……シーゲイル旭川、強すぎます。弱点がありません。それは当然です。ブロックリーグだというのに、プロ契約の元Jリーガーが何人もいるのだから。これはずるいです。もう笑うしかない状況です」


 コージは両手を広げ、もうサジを投げたといわんばかりの苦笑を浮かべた。

 日野はテーブルを叩いた。


「厳しいのは分かってんだよ。その上で少しでも勝率を上げるために、後半をどう戦えばいいのか教えてくれよ!」

「そうだぜ、これまでの試合だって、そうやって勝ってきたんじゃないか。そうして、ブロックリーグを優勝したんじゃないか」


 がさわらしんも、日野ほどではないものの少しイライラとしているようだった。


「とにかく点を取らないといけないんだからさ、なんかないの? おれ、その通りに動くからさ」


 大道大道は、コージに懇願するような視線を向けた。


「なにもしません。このままでいきます」


 コージはきっぱりといい切った。

 一瞬の静寂の後、続けた。


「だから、このハーフタイムに話すことは、なにもありません。以上」

「なんだよそりゃ!」


 日野は怒鳴り声を上げた。


「こうなったら勝手に攻めるからな! 点を取らなきゃどのみち負けなんだ。テントップにして、いや、ファングさんも上げてイレブントップにして、打ち合いを挑んで、猛烈に攻めて、点を取りまくって取りまくって絶対に勝ってやるよ!」

「やめてください、そんな真似。ノッコ君なら本当にやりかねないから怖い」

「このままなにもしないよりはマシだろが!」

「さっきの、手も足も出なくて笑うしかないというの真に受けないで下さい。冗談です」

「え?」

「本当は、楽しくて笑っていました。あんな強い相手に、どうやって勝とうかと」


 コージは自分の大きな鼻をなで、笑みを浮かべた。

 日野の目に、見る見るうちに涙が滲んでいた。


「信じてたああああ! おれたちのコージ監督うううう! じゃあ早速、後半どう動けばいいのか教えてくれえ!」

「いや、さっきもいった通り、なにもしません。そこは冗談ではなく、本当です」

「なんだよそりゃああ! 負けてんだぞ! なんか動かねえと」

「せっかちですね。わたし大好きですよ、ノッコ君のこと。でもね、もう少し待って下さい。……分かりかけてきたんです、突破の糸口が」

「糸口?」

「わたし難しい言葉使いましたか?」

「知ってるよそんくらい!」

「とにかく、これ以上の失点をしないように、もう少しだけ耐えて下さい。前半は、点を取らねばという焦りから攻守の意識にちぐはぐさが生じ、そこを突かれて相手に気持ち良くサッカーをさせてしまっていました。点なんか取らなくていいです。焦らず、守備的に戦ってください。あまり引き過ぎも困りますが、リスクを犯して攻めなくていいです。その間に、必ず攻略法を見つけますから。大丈夫、絶対に勝てます。確証はありませんが、なんだかそんな予感がするんです。勝てます。じっちゃんの名にかけて」

「分かった。あ、いや、コージのじいちゃんの名前は知らないけど、とにかく分かった。みんな、後半は守るぞ! 絶対に勝つぞ!」


 日野の迷惑なくらいの大声が、狭いロッカールームの中に轟いていた。

 もうその顔に、迷いはなかった。

 他の選手たちの顔にも。


     5

 後半開始の笛が、満員のスタジアムに鳴り響いた。

 鳴り終わらぬうちにおおみちだいどうが、9番へと身体を突っ込ませていた。

 9番、元Jリーガーであるないとうしんろうにとって、そんなプレッシャーはそよ風のごときもの。引き付けてすっとよけると、サイド前方へと蹴り込んだ。

 19番が落下地点へ素早く寄って胸で受けようとするが、その眼前をこういちが吠えながら横切り、奪い取った。


「渡さねえよ」


 日野は19番を背負ってボールキープ、視線を動かし出しどころを探す。前方へのスペースは見つけたが、しかしそこへは送らず、後ろへと戻した。

 パスを受けたDFのはしもとひでは、15番が迫ってくることを見るとすぐさま横パス。同じCBのとうごんぞうへ渡す。

 権三から、また橋本へ。

 橋本は、今度は大きくボールを蹴った。最前線にいる大城へとロングフィードだ。

 精度も力強さも申し分なかったが、惜しくも繋がらず、5番の選手に奪われてしまう。

 だがすぐに、大城と長岡とで前後から挟撃、奪い返した。

 ポールを持つ長岡は、無理して仕掛けることなく、後ろへ戻した。

 前半と比べ、間違いなくイクシオンACの守備には落ち着きが生まれていた。

 シーゲイルが積極的に攻めてこないということもあるが、一番の理由としては、点を取らなくてもいいというコージ監督の指示によるものであった。

 サッカー選手も人間であり、そうした指示だけで自分の気持ちを落ち着かせることは難しいだろう。強敵を相手に、もう試合も後半戦だというのに二点のビハインド、普通に考えて絶望的な状態であるからだ。

 それだけ、いかにコージが選手たちに信頼されているということである。

 とはいえ地力に勝るのはやはりシーゲイル旭川、前掛かりにならずとも破壊力は充分であり、イクシオンACの選手たちには一瞬たりとも集中を切らす暇などなかったのだが。

 和歌収が長岡巧へとパスを出したが、シーゲイル33番、ボランチのかつまたてるあきがすっと加速しインターセプト、そのままドリブルで駆け抜けていた。

 日野が雄叫びを上げながら、スライディングタックルで突っ込んだ。

 33番、元Jリーガーの勝又輝明は、ボールをちょんと浮かせ自身も日野の身体を飛び越えた。

 チームとしての守備が安定してきたイクシオンACに対して、個人技による突破を見せ、心理的な揺さ振りをかけ、あわよくばそのまま点を取ってしまおうということだろう。

 勝又輝明は守備的なポジションであるボランチながらも、流れからぐいぐいと上がっていく。

 CBの後藤権三がついた。

 技巧派攻撃的ボランチとして知られた元Jリーガーのフェイントに、すっと簡単に抜かれてしまう権三。

 しかし拔かれた瞬間には、反転し、あらためて食らいついていた。

 元Jリーガーに個人技でかなわないことなど想定済み、ということだろう。

 Jリーガーにだって負けていないごつい身体を生かして、ごっ、と、肩を押し当てた。

 勝又がほんの少しバランスを崩したその瞬間には、権三の相方である橋本英樹が、ボールを奪い取っていた。


「ハッシー、サンキュ」


 決して上手な選手ではない権三が、守備の要としてやっていられるのも、橋本の存在があるからだろう。

 橋本英樹はJFLのクラブに所属していただけあって(出場経験はないが)実力は折り紙つき。プレーに安定感があり、また、権三との相性もいい。

 だからといって、さすがに元Jリーガーを軽くあしらえるはずほどの力はなく、橋本はGKの木場芳樹にバックパス。

 木場はボールに駆け寄りながら、大きく蹴った。

 シーゲイル旭川のCBが落下地点へと入り込み、頭で大きく跳ね返した。

 芹沢恭太とシーゲイルの14番、桜木純悟が、肩を並べて走り、競り合う。

 桜木純悟は長身をいかし、頭で跳ね上げてイクシオンACゴール前へと送った。

 日野浩一と、シーゲイルの選手が、それぞれ異なる方向から、落ちて転がるボールを目掛けて全力で駆け寄った。

 二人は、ほとんど同時にボールを蹴っていた。

 だが、ほんのわずかの差で日野が遅く、蹴ったのは相手の足であった。蹴り、転ばせてしまった。

 痛そうに顔を歪めてごろごろ転がる姿に、笛の音が鳴った。

 日野に、イエローカードが出された。

 自身も、周囲も、誰も抗議の声は上げなかった。むしろ、よくイエローカードで済んだというべきであろう。

 カードが出た途端にけろりとした顔で起き上がったことに対しては、日野は少し不満げではあったが。

 とにかくこのファールによりイクシオンACは、自陣ゴールまで約二十メートルという近距離で、シーゲイル旭川に直接FKを与えることになった。

 キッカーは8番、中西学。元Jリーガーで、日本代表候補に選ばれたこともある。セットプレーにおけるキックの精度は実に高く、実際にブロックリーグでも何度となくFKを直接決めている。

 どん、どん、どん、

 イクシオンACサポーターの、ゆっくりとした太鼓の音が響く。守る選手たちの集中を乱させずに、むしろ集中を促そうとしているのだ。

 反対側ゴール裏では、ドンガドンドンガッガッと掻き乱すような太鼓の音、そしてトランペットの音、そしてブーイング。味方の応援ではなく、イクシオンACの失敗を望んでいるのだろう。観客席三万人の喧騒に掻き消されて、反対側であるイクシオンACゴール前にはほとんど届いていないようだったが。


「カシュー、もっと右! そう、そっち二枚で。キョンは14につけ、オッケオッケ」


 ゴール前に立つ木場芳樹は、慎重に壁の調整をしている。FKを防ぐために、誰がどこにどう立つか、それを決めているのだ。

 二点差は、リードしている側にとって怖い点差だという。二点差までだ。試合後半の現在、これ以上リードを広げられたら、イクシオンACにとっては絶望的。例えコージが奇策良策を練ろうともだ。

 だから、このFKは必ず守り抜く必要がある。木場は軽く腰を落とし、睨むような視線で前方を見た。

 笛が鳴った。

 キッカー中西学は助走し、上げた蹴り足を振り下ろし、ボールに叩き付けた。

 その感触に、中西は確信したに違いない。

 入った、と。

 それほどまでに、それは見事なキックであった。

 球速があり、ほとんど無駄のない綺麗な弧を描いて壁を越え、そして越えたその瞬間にブレ始め、揺れながらすとんと落ちたのだ。

 それはおそらく、彼の望む所へ、彼の望むように飛んだ。

 完璧な、FKであった。

 しかし、決まらなかった。

 大きく横っ跳びをした木場が、パンチングで弾いたのだ。

 相手が元JリーガーでFKの名手であることを知って、木場はあえて狙わせたのだろう。立ち位置と壁の位置とで狙わせどころを作り、ヤマを張って迷わず飛び込んだのだ。

 それでもキック精度の高さはブロックリーグ所属の選手としては驚異的であり、木場にあとほんのわずかでもリーチが足りなかったら、もしくはほんのわずかでも躊躇があったならば、間違いなくネットは揺らされていただろう。

 木場の背後でサポーターの太鼓が鳴り、歓声が沸き上がった。

 ファングコール。

 スタジアム全体からも、拍手が起こった。


「ナイスセーブ!」


 日野がガラガラ声で木場の背中を叩いた。


「まだ終わっちゃいないから」


 一瞬の笑みをすぐ引き締める木場。彼のいう通り、これからシーゲイル旭川のCKだ。

 だが、高く上がってファーへと落ちたボールは、木場が選手の間を縫うように移動し、なんなくキャッチ。

 ボールを置くなり、すぐさまグラウンダーで前線の大道へ。

 大道はドリブルで上がろうとするが、19番のスライディングタックルで奪われてしまう。

 ボールは15番、FWの竹田義男へ渡る。竹田は躊躇することなく前へ蹴り、転がるボールを全力で追った。

 カウンターのカウンターに、イクシオンACはチャンス一転大ピンチを向かえることになった。

 和歌収が急いで戻ろうとするが間に合わず、目の前で竹田のドリブル突破を許してしまう。

 がむしゃらに手足を振ってなんとか竹田に追い付き肩を並べる和歌であるが、竹田は後方にいる味方の掛け声に、落ち着いて横へパスを出した。

 上がって来ていたシーゲイルのボランチ勝又輝明は、そのパスをダイレクトに前へと蹴っていた。ワンツーでのスルーパスだ。

 オフサイドぎりぎりでイクシオンAC守備陣を突破したシーゲイル9番である内藤慎太郎は、GK木場の頭上を越える、いわゆるループシュートを打った。

 さすが元Jリーガーといった落ち着いたそのシュートは、この軌道しかないという綺麗な放物線を描き、木場の指の先をすり抜け、落下し、ゴールマウスへと吸い込まれた。これで0-3。シーゲイル旭川がさらにリードを広げた。

 いや……

 まさに吸い込まれる寸前、全力で駆け戻った小笠原慎二が、大きくジャンプし、ゴールラインぎりぎりのところで頭で弾き出していた。

 落ちて転がるボールに15番が詰め寄り、右足を振り抜く。

 今度こそ三点目が入った、と思われた。

 しかし、

 倒れ横たわっている木場が、片腕を上げてボールを弾いていた。

 ミラクルプレーに、どっとスタジアムがわいた。

 こぼれたボールにシーゲイルの9番、内藤慎太郎が反応し、スライディングで押し込もうとするが、木場は四本足で獣のように跳び、ボールに飛び付き、身体を張ってゴールを阻止した。

 その際に内藤の爪先が脇腹にめり込んでしまい、苦痛に呻き声を上げたが、すぐに立ち上がり、オーバースローでボールを放り投げた。

 イクシオンACの守備は後半から安定を見せているとはいえ、あくまでイクシオンACとしては、であり、やはりどう見ても力関係は歴然としていた。

 そうであるからこそ、イクシオンACの選手たちは待っているのだろう。

 時が来るのを。

 必死に、耐えているのだろう。


「タクミ君、33番に寄られたら外でなく中に入ってみて下さい!」


 ピッチ横に立つ、コージの叫び声。

 33番とはボランチの勝又輝明、元Jリーガーである。

 和歌と8番が競り合ったこぼれ球が、長岡巧の足元に転がってきた。

 そこへ33番がプレスをかけてきた。

 ボールを右足で押さえた長岡は、条件反射的にスペースを求めてサイドへと向かおうとしたが、足の裏でボールにブレーキ、33番をかわし、コージにいわれた通りに中へと切り込んだ。

 中の厚さに若干の躊躇を見せている間に、19番と8番に挟まれて、簡単に奪い取られてしまっていた。

 と、その瞬間、それを見ていたコージの目がぎらりと輝いた。


「分かりました!」


 コージは、曲げた腕を胸の前で大きく振りながら、指をパチンと鳴らした。


「これビッケの真似です。だからもちろん背景は星のキラキラです」


 振り返り、興奮したように息を詰まらせながら、ベンチに座る控え選手たちにそう説明した。


「なに……ビッケって」


 あきぬましげおみが、唖然とした表情でぼそり。

 星のキラキラとか、意味が分かんないんだけど。またなんかのアニメ? なにかを掴んだようだけど、それよりも、そっちに興奮してない? と、なおも小声でぼそぼそ怪訝な顔。


「ああ、その話は祝勝会の時にたっぷりと教えてあげます。それよりヌマ君、出番です。出動です。出動っ、ぼくらのワンダースリー! あ、いや、交代するのはヌマ君一人ですけどね。いいですか、これから指示する通り、動いて下さいね。また、ノッコ君やカシュー君、それとFWの二人を動かしてあげて下さい。そんな難しいことではありませんから」


 コージはぶつぶついいながら、ホワイトボードの磁石をすべて外すと、猛烈な速度で改めてカチャカチャと置いていった。

 秋沼重臣への指示内容について、話し始めた。しかしその説明は実に短く、ものの二十秒ほどで終わった。


「……で、こうなるわけです。分かりましたか?」


 コージは、磁石をすっと滑らせた。


「分かんないけど、とりあえずやってみるよ」


 秋沼重臣はジャージを脱いでワインレッドのユニフォーム姿になると、そそくさとアップを開始した。

 そして後半十七分、スローインでプレーの切れたタイミングで秋沼重臣はピッチに入った。

 左サイドの長岡巧と交代し、そのままの位置についた。


 どんどん

 あきぬま!

 どんどん

 あきぬま!


 サポーターの秋沼重臣コールだ。

 村山伴が両手に持ったボールをピッチに投げ入れた。

 芹沢恭太がすっと動き出し、足元で受ける。背後に14番が密着し、がしがしと激しく当たってくる。


「キョンさん!」


 その声、日野の方へと、恭太はノールックパス。

 走り、受けた日野は、すかさずサイドチェンジで左へと大きく蹴った。

 日野からのボールを受けたのは、入ったばかりの秋沼重臣だ。

 受けた瞬間に反転し、前を向くが、シーゲイルの33番が走り寄って来る。

 向かい合う二人。

 対峙は一瞬だった。

 秋沼は、サイドへ逃げるふりをして、ヒールで33番の股下を通し、その瞬間に反転ダッシュ、自分でそのボールを受けた。

 33番が慌てて後を追おうとするが、すでに秋沼の足元にボールはない。前にいる大道へと、既にパスが繋がっていた。

 大道はボールを受けた瞬間にくるりと前を向き、シュートを打った。

 GKの高畑弘は、ぴくりとも反応することが出来なかった。

 しかしシュートは枠を捉えられず、クロスバーに当たりラインを割った。


「ダイドー、惜しかった! ヌマさんも、いいぞ、その調子!」


 日野は大声で仲間を鼓舞した。


「とはいってみたものの、いまのは運がよかっただけだよな。そうそうこんなチャンスがくるはずもねえ」


 と呟く日野は、秋沼の叫び声に肩を震わせた。


「ノッコ、上がれ!」


 秋沼は、ドリブルで中央へ切り込もうとしているところであった。

 日野は、いわれるがまま雄叫びを上げて駆け上がった。

 次の瞬間、日野のその顔が驚きに変わる。気付けば自らの足元にボールがあったのである。

 驚きつつもそのままドリブル、吼え続けながらDF二人の間を突破した。いや、シャツの裾を強く引っ張られていた。

 ぐらりとよろけ、倒れそうになるが、なんとか踏ん張って、斜め前へとパスを出した。

 そのスルーパスを感じたか、大城が飛び出していた。

 シーゲイル守備陣を突破し、GKの位置やゴールまでの角度をよく見て、狙い済ましたシュートを放った。

 決定的であったが、GK高畑弘はさすが元Jリーガーといった実力を見せた。横っ跳びをし、パンチングで弾いていた。

 こぼれに大道が詰め寄るも、あと一歩のところでDFにクリアされた。

 ドンドンドンドン!

 立て続けの決定機に、イクシオンACサポーターの太鼓、そして大道コール、続いて大城コール、日野コール。観客席全体からも、大きな拍手が起きた。

 しかし、スタジアムを沸かせたイクシオンACの選手たち自身は、なんだか狐につままれたような、呆然とした表情であった。


「うそ……なんで」


 中でも一番不思議そうな顔をしているのは、チャンスの起点を二度までも作り出した本人である秋沼重臣であった。

 当然みんなが見る先は、ピッチ脇に立つコージの姿。不敵な笑みを浮かべる彼のその顔であった。


「時は、来ました! ビッケ!」


 コージはそう叫ぶと、右腕を高く上げ、指をパチンと打ち鳴らした。


「うおおおおおーっ!」


 まっさきに歓喜の雄叫びを上げたのは、日野浩一であった。

 他の選手たちも、やはり顔には笑みが浮かんでいた。疲労という甲羅を砕き吹き飛ばすような元気のオーラが、全身からバリバリと溢れ出ていた。

 さもあろう。

 奇跡を信じて劣勢を耐えに耐え、ついに我らが名将が、攻略の糸口を発見したことを不敵な笑みとともに高らかに宣言したのだから。

 コージの見つけた攻略法は、実に実に、単純なものであった。

 サッカーの戦術的な攻略法でもなんでもない。

 シーゲイル旭川は横に切り込まれた直後の縦の攻撃に脆い、ということを発見したのである。

 鉄筋入りコンクリートのように縦にも横にも強く、またロングボールにもカウンターにもパスサッカーに対しても強く、まさに鉄壁と思われたシーゲイル旭川の守備であるが、コージは試合を観察している中なんとなくそうした点に気づき、そうかどうか、選手に指示を出して試していたのだ。

 顕著にその弱点の出ている個所が、ボランチである33番のいる辺り。33番の能力が低いというわけではない。技巧派攻撃的ボランチ勝又輝明には、この試合だけでも何度も痛い目に遭わされている。先制点を献上したのも、そこからであった。

 イクシオンACの守備陣にとって実に脅威な存在である33番であるが、しかしながらイクシオンACの攻撃という面を考えても、やはり狙いどころは33番なのだ。選手の能力云々ということではなく、組織全体として。

 コージはそう確信し、そこを突くことを決めたのだ。

 33番とマッチアップしていたのは長岡巧であったが、より適任とばかりに選手交代で秋沼重臣を投入した。

 秋沼重臣は去年まではレギュラーであったのだが、足元の技術が少し頼りないことから、今シーズンはベンチを温めることが多かった。しかし、視野の広さや判断力に優れており、小柄で動作も俊敏、コージの立てたシーゲイル潰しの策を遂行するのにこれ以上の適任はいなかった。

 コージは秋沼重臣をピッチへ送り出すにあたり、作戦についてすべては説明しなかった。時間がもったいないし、意図を理解せずともやれることだし、なによりネタばらしなどしてしまったらドッキリもワクワクもないではないか。

 この交代は、今シーズンずっと控えとして我慢してくれていた秋沼重臣へのプレゼントでもあるのだから。

 かくしてイクシオンACはコージの策とも戦術とも呼ぶに微妙な作戦が功を奏し、立て続けにチャンスを演出したというわけである。

 繰り返すが、相手の癖を見付けたという程度のものであり、戦術などと呼べるものではなかったが。

 その、戦術とはいい難い戦術に合わせて、コージはピッチ上の選手たちへと声を飛ばし、FWの距離感や、ボランチの位置関係に微調整を施していった。より、策が効果的になるように。

 シーゲイル旭川は防戦一方……というほどではないものの、イクシオンACがじわりじわりと押し始めていることは、間違いなかった。

 理由としてまずあげられるのは、秋沼重臣を使って突いたシーゲイルの組織的な弱点。だがこれは、単なるきっかけに過ぎなかった。

 理由として一番大きいのは、シーゲイルの選手たちの驚きや焦り、イクシオンACへの恐怖心だろう。

 どんなに油断を戒めていようとも、自分たちはプロの何人もいる格上のチームであるという自負はあったであろうし、まさか押されるなどとは夢にも思っていなかったであろうから。

 それだけではない。徐々に、シーゲイルの選手たちの足が止まり始めていたのである。

 逆をいえば、イクシオンACの選手たちが、三連戦最終日の後半戦だというのにまったく走力が落ちていないのだ。

 初戦と第二戦を、攻めて攻めて攻め抜いたシーゲイルに対し、イクシオンACは体力を温存して戦ってきたことによるものだ。

 士気にも大きくかかわるため、コージはあからさまに体力温存を指示したわけではない。だが結果としてそうなるような、そんな采配を振るってきたのだ。

 シーゲイル旭川に勝つために。

 そのため、二戦ともぎりぎりの戦いを強いられることとなった。

 初戦はなんとか逆転勝ちをおさめたが、第二戦は追い付かれて引き分けてしまった。

 だが実は、コージにとって一勝一分こそまさに望む展開だったのである。

 コージはとぼけていたものの、理由としてはまさに日野が語っていた通りである。

 つまりは、どのみちシーゲイル旭川は必ず倒さなければ優勝は出来ないということ。

 そして、追う方が追われる方より精神的に優位であるということ。

 この二点だ。

 まさにいま、イクシオンACの選手たちは精神的に優勢に立っていた。

 勢いに乗り、攻めに攻め続けた。

 あと一手で決定機という、優位な流れを作り続けた。

 イクシオンACは、日野、秋沼、大城、秋沼のパス回しで、シーゲイル守備陣を切り裂いた。

 秋沼は前線へボールを送った。

 敵陣を全力で駆け抜けたが日野が、そのボールに追い付き、渾身の力を込めてシュートを放っていた。

 GK真正面であったが、破壊力凄まじく、腕を弾き上げていた。

 跳ね上がり、落下するボールへ、大道が頭から突っ込んでいた。

 大道はゴールの中に、ごろりと転がり込んだ。

 ダンゴ虫のように窮屈そうに丸まったままで手をばたばた動かしもがいているところ、指の先になにかが触れた。

 彼が頭を叩き付けたばかりの、ボールであった。

 そう、大道の放ったヘディングシュートは、見事ゴールネットを揺らしていたのである。

 大道は起き上がると、両手を天へ突き上げ吠えた。


「スーパーシュートオオオオオオオッ!」


 どこがどうスーパーであるのかは本人しか知らないことであるが、とにかく大道は自らのもたらしたチームをより活気付ける得点に、天も轟けとばかりの魂の絶叫を上げたのである。


「やったぜ、ダイドーっ! コーヒーみたいな名前しやがってえ!」


 日野浩一は、ガラガラ声を張り上げて、大道に抱き着き、押し倒した。

 ドンドンドンドンドンドンドンドン。

 サポーターの掻き鳴らす太鼓の音。

 そしてスタジアム全体を包む、今日初めてイクシオンACの試合を見た一般人らの沸き上がる歓声、拍手の嵐。


 後半二十三分

 イクシオンAC 1-2 シーゲイル旭川

 得点者 大道大道(イクシオンAC)


 試合終盤も近付くこの時間に、ようやく返した一点。

 それは、これまで耐えに耐えてきたイクシオンACの、反撃ののろしであった。


     6

「おらあ!」


 こういちは蒸気機関車のごとき力強さでぐいぐい空気を掻き分け疾走し、スライディングでパスを奪った。

 しかしうまく足元におさめられず、ボールは跳ね転がってしまう。

 シーゲイル旭川の14番に拾われそうになるが、間一髪、駆け寄ったおさむが身体を入れてボールを守ると、振り向き様、あきぬましげおみへと大きく蹴った。

 左サイドの秋沼は、走りながらダイレクトに蹴って、右のせりざわきようへと大きくサイドチェンジ。

 恭太は、緩急使い分けたドリブルとフェイントで19番と27番のプレスを上手にかわしながら、中へと切り込んだ。

 ゴール前へと、ちょこんとボールを蹴り上げた。

 そのセンタリングに、誰よりも早く飛び込み、ボールに触れたのはイクシオンACのおおしろまさるであった。しかし、上手に合わせたかに見えたダイビングヘッドは上手く惜しくもバーを越えた。

 ピッチをぐるり取り囲む観客席から、一斉に拍手が起きた。

 続いて大城コール。

 アウェーゴール裏に陣取る十数人のイクシオンACサポーターのコールや応援歌に、いつの間にか観客らも慣れて、一緒に声を合わせているのだ。

 シーゲイル旭川のゴールキック。

 遠く、高く、最前線まで飛んだ。

 シーゲイル旭川のFWないとうしんろうが落下地点へ入り、頭で受けようとするが、背後にピタリ密着したはしもとひでが跳躍、バズンと力強い音と共にヘディングでクリアした。

 また、観客席から拍手が起きた。

 ボールは、右サイドの芹沢恭太へ。

 すかさずプレッシャーをかける14番であったが、既に恭太の足元にボールはなかった。

 むらやまばんがオーバーラップで駆け抜け、ボールを受けていたのだ。

 二人はこれまで見せたことがないくらいの阿吽の呼吸で、いつしか完全に右サイドを制圧していた。

 慌てて村山の背中を追い掛け始めるシーゲイル旭川の14番であったが、その背中はどんどん小さくなっていくばかりであった。相手はドリブルをしているというのに。

 シーゲイル旭川の選手たちは、足が止まり、走れなくなってきているのだ。

 反対に、連日行われる試合の第三戦しかも後半であるというのに足が止まらないイクシオンACの方が異常なのかも知れないが。

 ただこれは前述した通り、ひとえに先の二戦で全力を出して圧勝したシーゲイル旭川と、試合自体は苦戦しながらもしたたかに体力温存に成功したイクシオンACとの違い、というところが大きいだろう。もちろん気持ちの問題も多分にあるだろうが。いわゆる気持ちの好循環による肉体の後押しだ。

 現在、後半三十分。

 まだイクシオンACは、一点をリードされている状態だ。

 もう試合の残り時間は少ないが、イクシオンACの選手たちの表情に、悲壮感、焦りなどは、一切感じられなかった。むしろ、絶対に追い付ける、勝てる、そう心の底から信じて疑っていない、そんな表情であった。

 だから刻々と試合終了時間の迫る中、パス回しが乱れることも、攻めが大雑把になることもなく、全員が自信をもってボールを回していた。

 沸き上がる揺るぎない勝利への確信ということでは、サポーターたちもまた、同様であった。

 どんどんどんどん、と響き渡る太鼓の音、ファインプレーの都度に起こる選手のコール。

 三万という観客席のほとんどを味方につけて、応援合戦としては完全にイクシオンACに軍配が上がっていた。スタジアムのムードを完全に支配していた。

 シーゲイル旭川にとってこの疎外感や、疲労の不利はどうにもしようがなく、監督は対処しようのあるところを対処しようと手を打ってきた。

 それは33番、かつまたてるあきがシステム的に穴となって相手の24番(イクシオンAC、秋沼重臣)に突かれて再三のピンチを招いているという点であった。

 選手交代にはよらず、システムの変更を行なった。中央をボックスとし、サイドの攻防を完全に捨てて、中の四人が近い距離を保つようにしてきたのだ。


「やはり、そうきましたね。というよりも、そうするしかない」


 ピッチ脇で腕を組み戦況を見守っていたコージは、ニッと笑みを浮かべた。

 すべて、想定内であったのだろう。

 質の高い選手である勝又輝明を代えるはずがなく、中盤の配置変更にて対応しようとするだろう、おそらくより密集したボックスを作るだろう。リードしており時間も少ないわけだから、サイドを捨てて中央を固めるだろう、と。

 一見すると理にはかなってはいるが、しかしこれは苦し紛れだ。

 そう、シーゲイル旭川はいま、相当に苦しい状況なのだ。

 いうまでもないが相手の苦境はこちらの好機、大胆に攻めるのならば、いまをおいて他にはなかった。


「ノッコ君、サイドチェンジでピッチを広く使わせるように指示を出して下さい! 横から揺さ振れと」


 ざわめく満席のスタジアムで一気に指示を伝えたかったのか、コージはちょうどよく近くにいた人間拡声器に頼んだ。


「分かったぜ!」


 人間拡声器すなわち日野浩一は、早速、天まで轟かんばかりの凄まじい大声をガラガラと張り上げて、一瞬にしてピッチにいる全員にコージの言葉を伝えたのであった。

 コージが出したその指示は、実に効果覿面であった。

 シーゲイル旭川が配置変更による対策をしたことによって、確かに33番付近に出来ていた大きな穴を突いて攻めることは難しくなった。

 しかしそのかわりに、全体的にたくさんの小さな穴が出来ていた。

 さらには、シーゲイル旭川がサイドの攻防を捨てたことにより、イクシオンACの両翼がのびのび躍進。

 シーゲイル旭川の選手たちは中央をしっかり固めているくせに、いや、固めているが故に、横に大きく揺さ振りをかけられて走らされ、疲労に疲労を重ねていった。

 疲れてはいるが、だからといって走らなければゴールを守れない。彼らは、完全に悪循環に完全に陥っていた。

 そんな相手を、イクシオンACは容赦なく攻め続けた。

 しかしながらスコアと残り時間だけを見れば、勝利により近いのはシーゲイル旭川である。攻守において劣勢となった今、彼らがとるべき策は一つであった。

 自陣深くに引いて、イクシオンACに対して守りを固め始めたのである。

 プロ選手が何人もいるシーゲイル旭川は、王者の自負のようなものを持ってこの大会に臨んでいたことであろう。当然、悔しくないはずはないだろうが、現在のこの状況、客観的に見るまでもなく劣勢であるというのが間違いのない事実。しかし、あと十数分を耐え凌ぐことさえ出来れば決勝大会優勝、北海道リーグへの昇格がかなうのだ。

 シーゲイルの監督も、選手たちも、すでに恥も外聞も捨てた、ということだろう。

 特にプロ選手にとっては、屈辱以外のなにものでもなかったかも知れないが、昇格出来なければそうした自尊心もなんら意味のないものになってしまうのだ。

 都道府県リーグのクラブにプロ選手が何人もいること自体が、反則級なのだ。もしも昇格を成し遂げることが出来なければ、責めの矛先はすべてとはいわないまでもそのほとんどが彼らに向けられることになるであろう。

 つまりは自尊心があればこそ、その自尊心のために、彼らは必死であったということか。

 必死ではあったが、この劣勢を跳ね返すことは出来なかった。

 イクシオンACが完全に波に乗り、要所すべてを制圧し、攻め続けていたからである。


「どんどん行くぞ! 点取るぞオラア!」


 日野浩一は叫んだ。

 それは決して、時間がないが故の虚勢などではなかった。

 時間がないのは事実であるが、イクシオンACの選手たちは、日野に限らず誰一人として焦ってなどいなかった。

 追い付けるかどうかなど、勝てるかどうかなど分からないというのに、そして、残り時間はもう十分を切ったというのに、誰にも焦っている様子など見られなかった。

 ただ、走る先にあるのは希望。

 昇格に心ををおどらせ、身体を走らせ、チャンスを作り続け、シュートを打ち続けていた。

 同点ゴールを心待ちにする、三万人の観客と共に。

 そしてそれは、後半戦何度目のCKであっただろうか。

 日野浩一のシュートをGKが弾いて、ラインを割ったのだ。

 キッカーは村山伴。

 シーゲイル旭川は、選手のほとんどである九人がゴール前に集まって守りを固めている。たけよしないとうしんろうさくらじゆんおさむけんとくながゆうかつまたてるあきなかろうすぎもとてつ。点など取れずとも、とにかくあと少しの間ゴールを割らせさえしなければ昇格が決定するのだから、こうするのは当然のことといえた。

 攻撃側であるイクシオンACは、ゴール前に七人。日野浩一、大城政、大道大道、小笠原慎二、芹沢恭太、橋本英樹、後藤権三だ。

 ぎっちりひしめき合っている両チームの選手たち。ポジションの確保や駆け引きのため、睨み合い、押し合い、火花を散らしている。攻めるために。守るために。

 主審の笛が鳴った。

 村山は助走をつけ、蹴った。

 山なりのボールが上がり、ファーへと飛んだ。

 そこに待ち構えているのは日野浩一であったが、すぐ背後にいたシーゲイル2番、野久保健太が強引に腕や身体を入れようとさる。二人は揉み合うように跳躍した。

 先にボールに触れたのは日野であった。ヘディングシュートを狙ったのだが、しかし野久保に押され邪魔され、ボールは跳ね上がった。

 結果として、ゴール前中央へと折り返す格好になった。

 想定していたのか、それとも勘か、大城政が素早くマークを外してするり抜け出していた。落ちてくるボールにタイミングを合わせて、右足一閃ボレーシュート。

 GKが鬼気迫る形相で、横に身体を倒しながら左手で弾いた。

 素晴らしい反応であった。

 しかし、


「なああ!」


 低く跳ね上がったボールへと、大道大道が叫びながら飛び込んでいた。

 足で軽く合わせるだけで良いボールであったのだが、大道はQBKに動転したか、腰を低く屈めて頭を叩き付けようとした。

 しゃがみヘディング、見事なまでに空振りであった。

 走り寄った勢いと、身を低くしようとしたこととで、ごろんと前転してゴールの中に飛び込んでいた。

 ばたばたもがく腕の先、指の先に、なにか感触を覚えたようで、


「なにこれ?」


 大道は疑問の声を発しながら、上体を起こし、指先に触れていたそれがなんなのかを確かめた。

 ボールであった。

 いつの間にか、ゴールラインを越えていたのである。


「え、シュート空振ったのに。誰か、決めたの? 点、入ったの? ちょっと、なんなのなんなの、これえ?」

「ダイドーーーーーーッ!」


 夢か現か、そんな大道のもやもやを吹き飛ばしたのは日野浩一の汚いガラガラ声、そしてサポーターの太鼓の音、スタジアムを包む歓声と拍手であった。


「同点だよ同点。ダイドー、やった!」


 橋本英樹が上から覆いかぶさった。


「すげえよ、背中シュート! バカじゃねえの。真似したくもねえ!」


 小笠原慎二も、その上に乗っかった。

 そう、空振りしてゴールへと飛び込んでしまった大道であるが、ごろり前転する背中にボールが当たってゴールインしていたのだ。


「ちょっと、くるし……本当、おれ、決めちゃった、の? ゴール、したの?」


 上にのしかかられながら首を動かし、ちょっと疑わしげに仲間の顔をじろじろ見ているうちに、じわりじわりと、大道の顔に歓喜の表情が浮かんでいた。


「スーパーゴオオオオオオオオオオル! ……すげえ、おれ、すげえ! 追い付いちゃったよ。これは本当にハット決めちゃうかも! うおおおお、やるぞおおおおおお!」


 大道は身体の奥から湧いてくる物凄いパワーで小笠原と橋本を押し上げ転がり落とすと、立ち上がって、両手を突き上げ魂の絶叫。

 それに呼応するかのように、あらためて激しい太鼓の音や、三百六十度からの大道コールが巻起こった。

 この劇的な展開に、スタジアム全体がわいていた。

 三万人が、わいていた。

 大道は、ピッチ横に立つコージの、すぐ後ろにいるやけあずさへと、興奮した表情で視線を向けた。

 梓は満面の笑顔を浮かべ、胸の前で小さくブイサインを作った。


「おおおおおっ、よんぺいくうーーーーーーーん!」


 大道はすっかり興奮したように、釣竿持ってリールをカリカリカリカリ巻き取るような動作を始めた。

 釣り師よんぺい君のごとき神の釣り技で、三万の見届け人の前で彼女のハートを釣り上げようとしているのか、それともついに釣り上げたと実感したということなのか。

 いずれにしてもゴールパフォーマンスとしては仕草も表情も変態的過ぎて、周囲の仲間たちはドン引きであった。


「ダイドー、おとりこみ中のところ悪いが、もう一度、いまみたいな魂のゴールを頼むぞ。どんどんクロス上げるから」


 芹沢恭太は、大道の背中を叩いた。


「な、なんすか、おとりこみってえ」


 ハッと我に返った大道。一瞬、気恥ずかしそうな表情を作ったが、すぐにニンマリ微笑んだ。


「分かりました。いいクロス、どんどん上げて下さいよ。片っ端から決めてやりますよ」


 大道は、ぎゅっと握った拳を突き出した。


「よろしくな」


 恭太は腕を伸ばし、二人はコツンと拳を突き付け合い、次いで腕を強くからませ合った。


「絶対に、勝とうな」


 恭太はそういって、からませていた腕を解いた。

 くるり、と、自分のポジションに戻ろうと振り向いた、その時である。


 雪?


 恭太は、空を見上げた。

 きらきら、光るものを感じたからだ。

 それは、雪ではなかった。


「ああ」


 恭太は、思わず感嘆の声を漏らしていた。

 このスタジアムが、輝いていたのである。


 ピッチって、こんなに輝くんだ……

 きらり、きらりと。


 それはもう、眩しいくらいに。


 空が、輝いている。

 きらり、きらりと。


 ピッチに立つ選手たちが、輝いている。

 きらり、きらりと。


 この同点劇に感動し、拍手し、大声で叫んでくれている観客たちも。

 そう、なかでも一番きらきらと輝いているのは、この観客席であった。

 みんな、興奮している。

 立ち上がり、なにやら意味の分からないことを叫んでいるお年寄りもいる。

 このような感動に値するゲームをやれば、こんなにたくさんの人達が共感してくれるんだ。

 こんな、よりきらきら輝く場所へ、一歩でも、いや半歩でも、近付きたい。

 残りのサッカー人生がどれだけあるかなんて分からないけど、だからこそ……

 おれは……


「勝つぞおおおお!」


 恭太は叫んでいた。

 普段からおっとり落ち着いており、情熱を隠すタイプの恭太には珍しいことであった。

 仲間たちはみなびっくりしていた。特にすぐ間近にいる大道などは、飛び上がっていた。

 やがて、誰かが笑うとみな笑い、そして、恭太のように口々に叫び、自らに気合いを入れていった。

 シーゲイル旭川ボールのキックオフ。

 同点になった後も、勢いの関係にまるで変化はなかった。

 イクシオンACは攻めた。

 スタジアム三万の観客を味方に、攻め続けた。

 シーゲイル旭川は、耐えて一点を狙うしかなかった。

 だが、劣勢な方にこそ決定的なチャンスが訪れるという側面もサッカーにはあり、それがまさにこの時であった。

 後半三十七分、審判にボールが当たるという不運からイクシオンACは相手のカウンターを受けて失点、突き放されてしまったのである。

 シュートを決め、飛び跳ねて喜ぶシーゲイルの竹田義男。

 スタジアムの極々一角で、どっと盛り上がるシーゲイル旭川サポーターたち。


「追い付けばいいだけです!」


 コージが叫んだ。

 選手や自分に気合いを入れているというよりは、単に理の当然を淡々と大声で述べたという感じだ。

 いわれるまでもなく選手たちはどっしりと落ち着いており、まったく動揺などしていなかった。

 イクシオンACは、冷静にパスを回し続け、失点から二分後、芹沢恭太のアーリークロスがそのまま入って、再び同点に追い付いた。

 この最高にエキサイティングなゲームの行方に、観客席はついに爆発した。

 そして、ゴール裏にいるコーリーダーの音頭によらず、自発的に観客席からイクシオンコールの大合唱が発生したのである。


「おおおおっ、負ける気しねえ! 負ける気しねええ!」


 その大合唱を受け、日野浩一は身や心をぶるぶると震わせながら叫んだ。

 魂が根底から震えてしまっているのは、選手だけではなかった。いや選手といえば選手なのだが……


「カシュー君! カシュー君! 交代交代!」


 コージは興奮したように叫びながら、和歌収を手招き。

 そしてコージは、グレーのスーツにネクタイやワイシャツを素早く脱ぎ捨てると、ワインレッドにダークブルーパンツのユニフォーム姿になったのである。


「えええーーーっ!」

「なにそれーーっ!」


 素っ頓狂な声を上げる、イクシオンACの選手たち。

 和歌と交代したコージは、入るなり秋沼重臣とポジションチェンジ。秋沼が和歌に代わってボランチに下がり、コージは左サイドハーフだ。

 この驚きの交代に、またもやスタジアムは大爆発を起こした。

 あの知る人ぞ知る伝説のブラジル代表であるコージのプレーを、こうして見ることが出来るなどとは誰も思いもしなかったであろうから。


「そっか、そういやすっかり忘れてたけど……」


 日野浩一の独り言。

 コージは、選手登録もしていたのだ。つまりはイクシオンACの監督であり、選手なのである。

 日野自身だって、昨シーズンは監督を兼任していたのだ。下部リーグにおいて、兼任はなんら珍しいことではないのだ。


「どうりで今日の試合に限って、口頭でもごもごいうだけでメンバー表を見せてこないと思ったら……」


 味方たちをも驚かせよう、ワクワクさせよう、というコージのはからいに、ニンマリと笑みを浮かべる日野。

 こうして三万の観客たちは、都道府県リーグ所属クラブの試合などとは一目に信じられないような、驚くべき選手が入ってきたことに、天も裂けよとばかりどよめいたのである。

 そのどよめきがおさまり切らぬうちに、早速コージが素晴らしいテクニックを披露した。

 ひらりひらりと舞い、一瞬にして二人を抜き去ったのだ。

 拍手。それが鳴りやまぬうち、今度は三人を抜き、そしてミドルシュートを放っていた。

 短い距離だというのにドライブがかかって、くっと落ちた。

 ここまで変化するなどGKも予期出来なかったのか、弾くのがやっと。しかし、弾いてCKに逃れるつもりが、誤って前へこぼしてしまった。

 コージは、そうなるようにボールに回転をかけたのだろう。

 シーゲイルのたかはたひろしは、J2で十年以上の経験を持つGKであるが、コージの方が一枚も二枚も上手であった。

 こぼれたボールへと大道が詰めるが、しかしゴールとの間にはGKがいる。


「ダイドー君、後ろ!」


 という背後からの声に、大道はヒールで戻した。

 コージが走り込んでいた。

 なんとか駆け戻ったシーゲイルDFの野久保健太が、それを奪い取ろうとスライディングで突っ込んできたが、コージはボールと自身とを浮かせると、空中でちょんと蹴った。

 クロスバーの上の角をを叩いてラインを割ってしまうものの、魔術を見ているかのようなその神懸かり的なプレーに観客は大興奮であった。

 コージコールが起きた。

 地方の若者たちが、こうした珍しい娯楽を楽しんでいるというだけかも知れない。

 それでもこのスタジアムを、かつてない程の熱狂に包み込んだことは間違いなかった。

 選手たちの魂を熱く震わせているということに、間違いはなかった。

 観客の熱狂を力に変えて、イクシオンACはひたすら攻め、シーゲイル旭川を押し込み続けた。

 決定機を作っては観客がわき、

 コージがボールを持ってはわき、

 ピンチの芽を摘み取るファインプレーのたびにわき上がった。

 日野からのパスを受けた大城は、ポストプレーでボールキープ。ヒールで背後、シーゲイル旭川ゴール前へと転がした。

 DF陣を突き抜けて、全力でそのボールを追ったのは、コージであった。

 GKと一対一。

 三万の観客から、どっと喚声が上がった。

 しかし、コージはシュートを打つことなく、苦しそうに胸を押さえるとその場に立ち止まってしまった。


「もう……もう、限界でーす」


 コージはぜいぜいと息を切らせながら、踵を返し、ベンチへと身体をよろめかせながら歩き出した。

 誰もが唖然としてプレーの止まる中、ベンチへと戻ったコージはそうへと両手を伸ばし、


「ウノ君、あとは、任せ、ました」


 なにがなんだか分からぬまま両手を伸ばす宇野井聡太と、ハイタッチ。


「勝手に交代されちゃ困ります! さっきみたく、ちゃんと所定の手順を踏んで!」


 主審が血相変えて走ってきた。

 交代は、まず第四の審判へ告げ、そこから主審に通達され、許可されるものなのだ。


「ああ、そうですね。では、ちょっと待ってて下さい。ウノ君は、アップしてて」

「アップしててじゃねえよ! これで交代枠使いきっちまったじゃねえか! なにやってんだよもう! 引き分けたら得失点で負けるんだぞ!」


 やりとりを聞いていた日野浩一が、怒鳴り声を上げて乗り込んできた。すっかり呆れてしまって、その怒りも半減してしまっているようだが。


「まあまあ」


 と、日野の肩に手を置きなだめるのは、芹沢恭太であった。


「見てみろよ。みんなの顔」


 恭太にいわれ、日野は仲間たちの顔を見た。

 ムッとした日野の顔に、なんだかむず痒そうなものが浮かんだ。


「ったく、みんな笑ってるじゃねえか。ほんとにバカか……おれたちはさあ。でも……悪く、ねえな」

「だろ?」


 この最高の舞台に、手に汗握る最高の勝負。イクシオンACの選手たちはみな、心から楽しそうな、幸せそうな、そんな笑顔を浮かべていたのである。

 雑草だからこそ、この試合を心から楽しむことが出来ていたのだ。

 反対に、勝って当然という王者のプライドを持つシーゲイル旭川の選手たちは、この状況にすっかり打ちのめされ、畏縮してしまっていた。


「観客席も、コージが魅惑のプレーで最高に盛り上げてくれた。あとはもう、おれたちがやるだけだ。だろ?」

「そうだな。舞台は整った。ここでやんなきゃ男じゃねえ」


 日野は、鼻の下を人差し指で掻いた。


「お前は、もうちょっとだけ男っぽさが抜けた方がいいけどな」

「いいんだよ、おれはこれで」


 恭太と日野は顔を見合わせ、笑った。

 主審の笛が鳴った。

 予期せぬことからすっかり止まってしまっていたプレーが、再開された。

 コージに代わって、宇野井聡太が入った。


「頼むぜウノ! よっしゃ勝つぞおお!」


 日野浩一は、この試合だけで何十度目かの雄叫びを張り上げた。

 張り上げ、そして全力で走り出した。

 相手はもちろんのこと、自分たちだって相当に疲労しているはずだというのに、どこから力が沸き上がってくるのというのか全然疲れを感じさせない走りだった。

 いつまでも、どこまでも走り続けられそうなくらいであった。

 日野だけではない。フットボールズハイになっているのは、仲間たちも同様であった。

 そんな異様な興奮状態にあるイクシオンACの選手たちにどんどん攻められ、波状攻撃を仕掛けられ、シーゲイル旭川の選手たちは防戦一方。負けを覚悟したボクサーのように、一分、一秒が地獄のように長く思えていることだろう。同点のままなら昇格するのは自分たちだというのに。

 だが、シーゲイル旭川にふとしたことから決定的な得点機会が訪れた。ルーズボールの奪い合いから、ボールが予期せぬほうへ飛び、カウンターチャンスになったのだ。

 DFの後藤権三が寄せるよりも早く、シーゲイルの9番FW内藤慎太郎はミドルシュートを放っていた。

 力強く打ち込まれたボールは、弾丸そのものといった勢いでイクシオンACゴールへと襲い掛かった。

 だがイクシオンACの守護神である木場芳樹が、たたっと横にステップを踏んで、間一髪のところ右腕一本で弾いた。

 舞い上がるボール。

 そこへ、飛び込んだシーゲイルの15番、竹下義男が頭を叩き付けていた。

 シーゲイル旭川、劣勢を跳ね除け土壇場で勝ち越しに成功か? と思われた瞬間であったが、しかし決まらなかった。

 木場が、至近距離から放たれたシュートをキャッチしていたのだ。

 しかも、ワンハンドで。

 立て続いた二度の大ピンチを、事もなげにふせいだ木場は、決定機を防がれ意気消沈している15番へ不敵な笑みを向けた。


「おれはニワトリだといったろう(注 相手選手にいったことは一度もない)。ニワトリだけに、二羽取りだぜ!」


 セーブ一回を一羽という勘定であろうか。言葉の真意はよく分からないが、とにかくノリに乗っているSGGK木場芳樹、二十九歳であった。

 ミラクルプレーに歓喜の絶叫を上げる三万人の後押しを受けて、木場は力強くボールを放り投げた。

 秋沼重臣が走りながら受け、受けながら33番のプレスをかわし、かわしながら大きく前線へ蹴り込んだ。

 大城を目掛けたのであるが、やや精度が甘く、シーゲイル旭川のDF田中次郎が前へ出ながら胸でトラップする。

 そこへ、大道大道がまるで日野さながらの雄叫びをあげながらプレッシング。

 田中次郎は少し慌ててしまい、なんとか苦し紛れのクリア。

 それを拾ったのは、芹沢恭太であった。

 恭太は、右のサイドライン沿いをドリブルで上がる。

 このチャンスに、仲間たちも一斉に駆け上がっていた。

 コーナー付近で、恭太に二人のマークがついた。振り切ろうにも振り切れず、みなゴール前に上がってしまってフォローもない状態。

 だけど恭太はまったく慌てていない。

 なぜならば、


「キョンさん!」


 後方から、DFの村山伴が上がって来ていた。

 村山は、恭太だけにマークが集中するように、あえて少し回り道するように上がって来ていたのだ。

 村山の声に恭太は反応、DFの間からボールを蹴り出すと、自身も包囲を突破していた。

 あいつ(むらやまばん) がフリーでボールを受けてゴール前へと切り込むつもりだったんだ。おそらくそう判断したであろうシーゲイル旭川のDF二人は、その瞬間に動き出していた。全力で、村山伴へと突っ込み、挟み込み、潰したのである。

 揉み合うように、崩れる村山。

 だが、倒されながらも足を伸ばし、ボールをちょこんと蹴り上げていた。

 まるでラグビーのように激しく争う彼らの横を、芹沢恭太はすっと駆け抜けた。

 ドリブルをしながら。

 そう、村山は倒されながらも精度抜群のパスを恭太へ送っていたのである。

 シーゲイル旭川のDF二人は、完全に読み違いをしていた。

 これこそが、村山伴の狙いであったのだ。芹沢恭太との、このコンビネーションプレーこそが。

 いくぞ!

 完全にフリーになった恭太は、心の中でそう叫ぶと、敵味方の混在するゴール前へとクロスを上げた。

 待ち構える選手たちが、どどっと雪崩のようにゴールへと飛び込んだ。

 時が、止まっていた。

 静寂が、訪れていた。

 だけどそれもほんのわずか。

 次の瞬間、三万人収容のトヨカワ電子スタジアムに雷鳴のような爆発が起こり、かつてないほどに揺れたのだった。

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