第八章 決戦前夜

     1

 決勝大会第一節の試合結果は次の通りである。


 クイケラーサYKCB 1-2 イクシオンAC

 シーゲイル旭川 7-1 豊川印刷FC


 順位

 1 シーゲイル旭川    勝ち点3 得失点6

 2 イクシオンAC    勝ち点3 得失点1

 3 クイケラーサYKCB 勝ち点0 得失点マイナス1

 4 豊川印刷FC     勝ち点0 得失点マイナス6



 現在、午後六時半。

 小樽パールルートホテル別館二階の多目的ホールに、イクシオンACの選手たちはみな集まっていた。

 監督であるコージが一人、部屋の奥にあるホワイトボードの前に立っており、他の者たちはみな、四人用テーブルの椅子にそれぞれ腰を下ろしている。

 テーブルの上には、女子マネージャやけあずさの配った資料が置かれている。

 明日の対戦相手である豊川印刷FCとの戦いに備え、ミーティングをしているところだ。


「……無敗で道央を優勝していることは事実であり、したがって決してあなどることは出来ませんが、しかし絶対に落とせない相手であることもまた事実です」


 精神的な話や、試合の位置付けなどについて語ると、そこでコージはいったん言葉を切った。


「たかだか三試合の短期決戦で一等を決めるんだ。落としていい試合なんかねえよ。全勝あるのみだぜ!」


 主将のこういちは、テーブルをダンと叩いた。


「その通りですね。豊川印刷は、とにかく引いてくるチームらしいです。リーグ戦でそういう戦い方で無敗優勝ということは、カウンターが実に脅威ということでしょうね。ただ引いているだけでリーグ優勝など出来るはずがないのですから。ただし、今日の試合を見ていたら、相手が我々に対してどういう出方をしてくるのか、まるで分からなくなりました」


 そういうと、コージは薄く笑みを浮かべた。


「まあ、な、がっしり守るどころか開始一分で追う側になっちまったんだもんな」


 日野とコージが話しているのは、今朝十一時三十分よりトヨカワ電子スタジアムで行われた第一試合、シーゲイル旭川対豊川印刷のことであった。

 明日や明後日の対戦相手であるため、イクシオンACは自分たちの試合の前にこの試合を観戦したのであるが、日野のいう通り、開始わずか一分で豊川印刷は失点した。ファールを審判が見逃したという不運によるものではあったが、失点は失点である。

 情報によると道央リーグでは常に引いて守備を固めていたらしく、確かに記録を見ても先制を許した試合はただの一度もない。

 しかし今日の試合では、元Jリーガーが何人もいる決勝大会優勝候補のシーゲイル旭川に対して、開始早々にして追い掛けなけれならない展開となった。

 勝つためにも引きこもっていられなくなった豊川印刷は、一か八かで攻めに出た結果、失点に失点を重ねた。

 それでも攻撃に出ようと無理をして、一人の退場者を出し、終盤にFKが直接決まってリーグ戦無失点のシーゲイル旭川から一点を奪い取ることには成功したものの、時すでに遅く、1-7という大敗を喫することとなったのである。

 現在コージがなにに困っているのかというと、つまりこの対戦カードは序盤から点が動いたり、退場者が出たり、と荒れに荒れ過ぎて、豊川印刷のこの大会においての守備の硬さが予想すら出来ず、そのためイクシオンACとしてどのような戦術を打ち立て迎え撃てばよいかを決めかねている、ということであろうか。


「でもさあ、みくびるんじゃなくて割り切るためにあえて簡単にいうけどさあ、弱いからリーグ戦でも引きこもってたんでしょ? あ、この弱いというのは、豊川の選手たち自身がそう思ってたかどうかってことで。道央リーグの実力なんて知らないし、その中で彼らがどう思うか分かるはずないし、だからほんと、みくびってはいないからね」


 おおみちだいどうが、頬杖ついたままもう片方の手を上げながら発言した。


「で、実際にボコボコにやられたわけで。ならさ、普段通りにやりゃあいいじゃん。シーゲイルが強いってこともあるんだろうけど、そこだって普段通り気負わずやったから実力を発揮出来て大勝出来たんじゃないの?」

「ダイドー君のいうことには、一理も二理もあります。ただし豊川印刷としては、初戦を落とした以上は僅かな望みにかけて、なりふり構わず勝ちにくるでしょう。また、今日の試合で、わたしたちは研究されている。反対にわたしたちは、豊川印刷の本来のスタイルをまだこの目に見ていない。記録からくらいしか、知らない」

「やけに弱気じゃねえかよ」


 日野浩一。彼もどちらかといえば大道の考えに賛成であるのか、ちょっと不満げに唇を尖らせている。


「勝ちたいからです」


 コージは弱々しい笑みを浮かべながらも即答した。


     2

「うおおおおお!」


 おおみちだいどうは通路を奥の端から全力で走り、ロビーへと飛び込んでくると、突如ひざまづいた姿勢になって床をつるつるーっと滑りながら高々と両腕を振り上げた。


「さっきから、なにやってんの?」


 ながおかたくみが尋ねた。興味があるからというよりも、鬱陶しくてかなわないといった表情で。

 いい加減に誰かが声をかけてあげないと、いつまでもこんなことやられそうで。

 他に客があまりいないため、叫び声や足音が響いてうるさいのだ。


「ゴールパフォーマンスをね、考えてんの」


 大道は無邪気な表情で笑った。


「はあ、暇だなあ」


 長岡は髪の毛をかきあげ、人差し指でおでこを掻いた。


「暇じゃねえよ!」大道はそういうと、近くを歩いていたおおしろまさるに突然飛び付くように挑みかかり組み付いて「コブラツイストォ! ああ超忙しいいいい!」

「いてていてて! ちょっと、なにすんの! なんでおれ?」


 大城が心底嫌がっている顔で懸命に振りほどこうとするが、大道は構わずぐいぐいと締め付け続けた。


「まさに子供だな、あいつは。子供過ぎる子供だな」


 傍から見ていたはしもとひでは、ため息をついた。


「CBとFW、あいつとポジション離れててよかった。だって、なんか影響されてしまいそうで」


 小声でぶつぶつ呟く橋本であった。

 ここはイクシオンACの選手たちが宿泊している、小樽パールルートホテルのロビーである。

 先ほど第二回戦にむけてのミーティングを終えたばかりの彼らは、明日の試合までの時間をこのように、あえてだらだらと過ごしていた。

 だらだら過ぎる気もしないではないが。


「壁紙、どんくらいのグレードのを使ってんだろう。何年周期で張替えてんのかな。うちも禁煙場所、増やした方がいいかな。やっぱり売店はロビー近くがいいのかな。でも祭りの時期は混雑するから、うるさい気もするなあ」


 せりざわきようは、ゆっくりと歩きながら、首をせわしなくきょろきょろと動かしている。


「キョンさん、一人ぶつぶつと気持ちわりいよ! またよその宿屋チェックかよ」


 こういちがうんざり辟易したような顔をしている。


「ああ、聞こえてた? すまん。つい癖でさ」

「でもま、あれだよな、親から継いだ仕事を惰性でやってて、もし愛子ちゃんみたいな出来た娘と結婚してなかったらどうなってたことかなんて常々思ってはいたけど、なんだかんだキョンさんもやっぱり宿屋のせがれだよな」

「なんでお前にそんな偉そうなこといわれにゃならんのか分からんけどな。それはそれとして、なに、お前も宿屋の採点に付き合ってくれてんの? 昨夜、廊下で、こんな目立つとこにテレビのカード販売機置いとくんじゃねえよとかなんとかいいながら買ってたよな」

「なんで知ってんだよ!」


 日野は、怒鳴り声を上げた。

 テレビの、とひとくくりにいっても、成人男子がそれでなにを観るか、尋ねるまでもないだろう。ましてやこの、日野の真っ赤な顔。


「壁の薄さとその大声だよ」

「あ、いや、あれはその、相部屋のバンが買ってこいっていうから」

「ちょっとなにいってんですかあ、ノッコさん! お金貸せっていうから貸してあげたのに、さらに他人に罪をきせようとするなんて酷い。恥ずかしいから、おれシンさんとこで寝たのに!」


 と、日野の背後で泣きそうな声を出しているのはむらやまばんであった。


「おれもっ、よその土産物屋チェックしよーっと!」


 日野浩一は、わずか数メートルの距離だというのに逃げるように全走力で売店へと飛び込んだ。いや、おそらく本当に逃げ出したのであろう。


「へえ、もっこり系キーホルダーまだ扱ってんだあ! やっぱり温泉のもとは定番かなあ! うおお、出たあああ、あんかけ焼きそばオルゴール! 意味が分かんねえ、つうかシュール! うおお、実に参考になるう!」

「うっせえな、仕事持ち込むんじゃねえよバーカ!」


 品物を手に取ってはわめく日野の後ろ頭に、がさわらしんが丸めた紙切れを投げ付けた。


「そいつぁ無理な相談だぜ。だって日野浩一がおれの職業だもん。土産物屋もアマチュアサッカー選手もニヒルでハードボイルドな内面も、ひっくるめて日野浩一なの!」

「誰がニヒルでハードボイルドだよ。田舎の中学生みたいなイガグリ頭しやがって。別に仕事持ち込んでもいいんだけど、お前は無駄にうるさいの」

「んなもん生れつきだ。それよりシンだって、さっきここのメシ食いながら、ぶつぶつ文句いってたじゃねえか。なんか聞いたこともねえような料理用語の横文字バンバン出してよ。キザったらしい」

「だっておれも、小笠原慎二という職業だもん」


 そういうと、ふふんと笑った。

 小笠原慎二、有名ホテルの料理人でありイクシオンACの不動の左SBである。


「おーっ、なんかいいっすねえ、二人のその表現」


 大道大道が、日野と小笠原との間に肩を割り込ませてきた。ゴールパフォーマンスの練習に、ようやく飽きが来たようである。


「おれは職探し中のコンビニバイトだから、イクシオンの選手以外の特徴がないんだけど。でもノッコさんたちのいってること聞いて感動した。プロ選手なんかはさあ、もうプロ選手という職でしかないけど、アマチュア選手は人間や人生自体が職業、これアマチュアだけの特権かもね」

「そんなことよりお前、その職探しだけど、大丈夫なのか?」

「シンさんに心配してもらえるなんて思わなかったな。この大会が終ったら、本腰入れます。履歴書の経歴欄に書いちゃ駄目ですかね、決勝大会優勝って。……ま、おれまだ若いから、もっともっとサッカー成長して、イクシオンがJリーグに上がるまで食らい付いてくってことも視野に入れてますけどね」

「まともにどっかの会社に就職が決まるよりも、そっちの方が可能性が高いような気がするよ」

「それえ、バカにしてんだか褒めてんだか分からないんすけどお」

「決まってんだろ。バカにしてんだよ」


 そういうと、小笠原は大きな声で笑った。

 大道はきまり悪そうに頭を掻いたが、すぐにつられて、やはり大きな声で笑い始めた。


     3

「すげえ」


 すっかり唖然とした表情のこういちの口から、無意識にそんなかすれたような声が漏れ出ていた。

 ここはトヨカワ電子スタジアム。

 イクシオンACの選手たちは、まだまだ自分たちの試合までには時間があるため、本日行われるもう一つの試合をメインスタンドから観戦していた。

 イクシオンACの明日の対戦相手であるシーゲイル旭川と、昨日に対戦を終えたクイケラーサYKCBとの試合だ。

 目的は当然、シーゲイル旭川の偵察である。

 このチームを試合観戦するのはこれで二回目であるが、シーゲイル旭川は何度見てもため息しか出てこないような、実に強く、完成されたチームであった。

 人とボールが有機的に連動するパスサッカーで、序盤から後半三十分の現在まで、まったくペースを譲ることなく常に手綱を握り、クイケラーサを翻弄し続けている。イクシオンACがなんとか逆転勝ちした道南の強豪であるクイケラーサYKCB相手に、完全なるワンサイドゲームを演じていた。


「優勝候補といわれてはいましたが、まさかここまでとは」


 コージはぼそり呟きながら、寒風に吹かれている少し淋しい自らの頭髪を撫でた。

 そうこうしているうちに時は流れ、タイムアップの笛が吹かれた。

 試合終了。


 シーゲイル旭川 5-0 クイケラーサYKCB


 この勝利によりシーゲイル旭川は、勝ち点を6にまで伸ばした。


「これでシーゲイルは、得失点差が十一ですか。わたしたちがこのあとの試合で豊川印刷に勝っても、並の点差ではただ大きく引き離されるだけですねえ」


 コージは苦笑した。


「でもとにかく、勝ち点で引き離されるわけにはいかないよな。だから今日の試合、絶対に勝つぜ!」


 拳を握り、自らに気合いを入れる日野浩一。


「はい、頑張りましょう、ノッコ君。しかし得失点差がねえ。このあとの試合で、運よく大量得点でも出来れば色目欲目も出て来るというものですが……取り合えずのところは、明日のシーゲイル戦になんとか勝ち点での勝負が出来るように、準備をしないとですね。仮に今日負けでもしたら、明日は大量得点差での勝利が必要で、もうそれは絶望的ですから。しかしね、ノッコ君、それよりなによりこの試合を観ていて新たにとても困った問題が発生しましたよ」

「なんだよ、それ」


 日野は、いぶかしげな表情をコージへと向けた。


「分かりませんか? 昨日と今日の試合を観て、シーゲイルが強いのはもう充分過ぎるほどに分かったと思いますが、豊川印刷もまた、道央の強豪であることが証明されたということが」

「……あ、そうか! 昨日虐殺されてるの見て、やっぱり豊川印刷は弱いなってイメージしか持たなかったけど、でも、おれたちが手を焼いたクイケラーサだってこうして豊川印刷と同じようにシーゲイルにやられてるもんな。レベルとして豊川印刷イコールクイケラーサ、イコールイクシオンってわけか。しかも、シーゲイルに対して無得点だったクイケラーサと違って、豊川印刷は一人少ない状態で一点を返しているしな。FKが直接決まっただけとはいえ、攻めたからこそFKを得られたわけだしな」

「はい。相性や、試合の運び方、運、初戦か否か、そういったものもあるので、単純にそう判断出来るものでもありませんが、でもまあ、わたしのいいたいのはそういうことなのです。豊川印刷は、間違いなく道央の強豪です」


 コージは淋しそうな表情で自信なさげにいうと、自らの大きな鼻を撫でた。


     4

 試合終了を告げる長い笛の音が鳴った。

 イクシオンACの選手たちはみな、その場にくずおれた。

 ある者は肩を落とし地面を殴りつけ、

 ある者は大の字になって放心したように、ただ流れる雲を見つめていた。

 その様子とはまるで対照的であるのが、豊川印刷の選手たち。これで優勝つまり昇格の可能性が完全に潰えたにも関わらず、みなそれぞれに、やりきったという満足げな表情を浮かべ、サポーターたちの暖かな拍手を受けていた。


 十月七日 日曜日

 ブロックリーグ決勝大会 第二節

 イクシオンAC 1-1 豊川印刷FC


 お互い譲らず勝ち点一を分け合ったというのに、明らかにピッチ上には勝者と敗者とが存在していた。

 豊川印刷のサポーターたちからは、前述した通り明らかに暖かな温度を持った拍手がわき起こっていたのであるが、イクシオンAC側はかなり微妙な空気に包まれてしまっており、ブーイングこそないものの拍手も声援もベクトルが完全にまばらであった。

 この試合、イクシオンACは勝利をほぼ手中に収めながら、あと少しというところで勝ち点三を指の間から取りこぼしてしまったわけだが、傍から見れば最初から、どう考えてもコージ監督の采配ミスであった。

 スターティングメンバーを何人か入れ替えて臨んだ第二節。

 前半二十八分に、CKからはしもとひでのヘディングシュートが決まって先制したはよいが、その後は引き気味になり、全体的に運動量も少なくなり、もう失うもののなにもない豊川印刷のチャレンジ精神に満ちた積極的な攻撃を受けに受け続け、防戦に防戦を続け、後半三十七分、PKを献上し、ついに失点。

 追い付かれてから初めて、慌てたように突き放すべく攻め出すも、絶対に勝ち点を奪ってやろうという豊川印刷の気迫の守備に、焦って前へ蹴るばかりの単調な攻めはことごとくさえぎられ、そのままタイムアップ。

 得失点はもう考えずに勝ち点のみで優勝を狙おう、と、明確に目標を定め、明日の試合に必勝を期すべく体力を温存しようとしたコージの策が、完全に裏目に出た恰好となってしまったのであった。

 擁護するのならば、それだけシーゲイルを強豪として恐れていたからこその、今回の作戦であったわけだが。

 しかしそうやって挑んだこの試合で、得点も勝ち点も一しか取れず、選手たちも悔しさに意気消沈してしまっているというのが間違いのない現実であった。

 だがしかし、イクシオンACの選手たちの中でただ一人、さして沈んではいない者がいた。

 せりざわきようであった。

 試合後の、コージの落ち込んだ表情、これになんだか不自然なものを感じたからである。

 そんなコージの様子を見ていたら、明日の試合への不安がすうっと消えてしまっていた。

 でも、ここで焦らなかったら、コージの策に乗らなかったら、コージがやろうとしていることが(それがなんなのか分からないけど)ぶち壊しになっちゃうかな。

 と、恭太はあえて躍らされ、自分の中にやはり少なからずはある焦りを否定せず、他の者たちと同じように沈んだような態度をとっていた。

 とても奇妙な気持ちではあったが。


     5

 シーゲイル旭川 5-0 クイケラーサYKCB

 イクシオンAC 1-1 豊川印刷FC


 順位

 1 シーゲイル旭川    勝ち点6 得失点11

 2 イクシオンAC    勝ち点4 得失点1

 3 豊川印刷FC     勝ち点1 得失点マイナス6

 4 クイケラーサYKCB 勝ち点0 得失点マイナス6



「仕方ないよ。もう終ったこと」


 せりざわきようは、コージの大きな背中をバンと叩いた。

 ここは小樽パールルートホテル二階の通路。

 明日行われる最終戦のミーティングのため、別館へと向かっているところだ。


「しかし」


 コージはがくり肩を落とし、歩幅も小さくずりずりと、実にしょげかえった様子であった。本日の試合終了後から、ずっとこんな感じだ。


「キョンさんのいう通り、ありゃどうしようもねえよ。疑惑だらけの不可解PKだったし、あのクソ審判のせいでハッシーが退場にならないで済んだだけマシだぜ」


 こういちは、イライラをなだめるようにいった。

 なににイライラしているのか、自分でも分かっていないような表情であったが。

 引いてカウンターのチーム相手に防戦一方で引き分けてしまった、自分たちのふがいなさに対してであるのか、

 明日の強豪との対戦にあたり、じわりじわりと迫って来るどうしようもない恐怖のためなのか、

 それともこの外国人監督の、うじうじとした弱気な態度に対してのイライラであるのか。


「しかし」


 と、相変わらずコージの表情は暗い。


「攻め込まれ続けたからこそ、PKにも繋がってしまったわけで。もっとなにか効果的な戦い方が出来たんじゃないかと思うんです」


 コージは少し間を置くと、言葉を続ける。


「そうですね、分かりやすく例えるなら、科学忍者隊ガッチャマン『第五十五話 決死のミニ潜水艦』のような感じでしょうか。磁力にゴッドフェニックスが引っ張られて、『リュウ、逆噴射だ~っ!』てケンが叫ぶ、あのシーンです。あれは衝撃でした。その手があったか、と。わたしは全然ジョーやケンのような思い切った手を打つことが出来なかった」

「分かりやすくねえよ」


 突っ込む日野。


「今日の試合、第三者の評価もきっとそうでしょうが完全にわたしの采配ミスです。みなさんには申し訳ありませんでした。シーゲイルの人たちも観客席から観ていましたが、あんな試合をしてしまったことで彼らを勢いづかせてしまったかも知れないですね。ますます落ち込みますデース」


 コージがため息をつき口を閉ざすと、他に誰も意見のある者はおらず、みな無言のままで歩き続けた。

 しばらくして、


「でもさ」


 エレベーターを待っている時、不意に誰かが口を開いた。


「……おれはさ、むしろすっきりしたな。いま思えばだけど、今日の結果になって。守備陣が頑張っていれば勝てたわけで、だからおれがいうことじゃないかも知れないけど」


 沈黙を破り話し始めたのは、DFのとうごんぞうであった。


「おれ、まさにPK与えた張本人のDFだけど、居直る意味じゃなく、ゴンちゃんに同感」


 はしもとひでが続いた。

 個人的な悔しさはあるにせよ、ここで引きずることはチームにとっても自分にとってもマイナスにしかならない。と、あえて他人事のようにあっけらかんといってみせたのだろう。


「まあ、次に勝てばいいだけですからねえ。というか、どのみち次に勝たなければならないという点では、なにも変わってないわけで。今日二十点取って勝ってれば、話はまた別でしたけど」


 ながおかたくみが、いつものようにぼそぼそっと呟いた。


「そうそう、そうなんだよ! この根暗野郎のいう通りだぜっ! うおおおおおっ!」


 日野浩一の叫び声が、通路内にびりびり反響した。

 うおおおお、のタイミングで待っていたエレベーターの扉が開いて、乗っていた老婆がびくりと身をすくませた。


「だから声デカイっつってんだろバカ。お婆さん、どうもすいませんね~」


 老婆に謝りながら、がさわらはエレベーターに乗り込んだ。


「まあ、おれがいいたいのはだな」


 ちょっとだけ声の小さくなった日野は続ける。


「今日ちょっとやそっと得点差をつけて勝ったところで、得失点差の絶望的不利はどうすることも出来なかったろうし、結果として今日は引き分けだったから得失点差を稼ぐどころか思い切り引き離されただけに終ったわけだが」

「それが、いいたいことじゃ困るだろ」

「聞けよ。でもな、後半あんだけ攻められたのに負けずに引き分けたおかげで、シーゲイルとの勝ち点差は二だ。根暗野郎のいう通り明日の試合で勝たなければならないけど、でも、勝てば優勝じゃねえか。一点差だろうがなんだろうが、勝ち点で文句なしの優勝じゃねえか」

「まそうだな」


 頷く小笠原。


「確かに今日はふがいない試合で、相手を勢いづかせてしまったかも知れねえ。でも、とにかく明日の試合で勝てばいい、ただそれだけなんだ。ゴンさんたちもいってる通り、考え方としてすっきりしたじゃねえか。得失点差は、もうどうしようもないんだから、なら、そのことを考えないんじゃなく、むしろ考えようぜ、プラスに。明日勝つための、今日の引き分けだぜ!」


 日野は再びうおおおおおと吠え、ハッと気付いたように老婆に謝った。

 老婆は心底迷惑そうな顔にも見えたが、「若い方は元気があって」など、なんとか笑顔を作って必死に耐えている。さすが戦前生まれは忍耐が違う。


「そうだよ。明日の試合で勝てばいいんだ。おれ、ハット決めるから」


 おおみちだいどうが、自分の胸をどんと叩いた。


「決めなかったらお前、犬のウンコ食えよな」

「なにいってんすかあノッコさん! おれじゃなくても、誰が点を決めたっていいでしょうが!」

「なんだ、単なる虚言癖か」

「じゃあ食ってやりますよ! そのかわりハット決めたらノッコさんが食ってよね。犬のおしっこビール飲みながら、おおこのカリントウうめえ、ってバリバリ食って下さいよね」

「おお、食ってやるし飲んでやるよ! それで昇格出来るなら安いもんだ。今後のおれの大好物になるぜ、きっと。だからよ、頑張れよ、な。絶対に相手より一点でも多く取って、絶対に勝つんだからよ。ダイドーだけじゃねえ、大城もさ。おれたちが、死ぬ気でしっかりがっちり守っててやるから、攻めて攻めて、どんどんゴールをもぎ取ってこいや! みんなで勝利のカリントウを食おうぜ!」


 日野は、大道大道と大城政、二人のFWの背中をそれぞれ強く叩いた。

 次に日野は、老婆から両の頬をバッシバッシとひっぱたかれた。

 エレベーターが停まり扉が開くと、老婆は選手たちに肩をぶつけ押し退けて一番に飛び出し、なにやら罵詈雑言を吐きちらしながら姿を消した。


「いってえええ。なんなんだよ」


 両頬を手のひらで押さえる日野。


「お前、あんなもんで済んでよかったな」


 日野や大道のあまりの無神経さに、背筋がうすら寒くなるのを禁じえないといった表情の小笠原であった。


「みなさん……とっても凄いです」


 エレベーターを降りて歩き出したコージは、振り返ることなくそう口を開いていた。


「今日の結果から来る当然の落ち込みから、完全に立ち直り、明日の試合にも勝つ気満々でいる。わたしも、元気いっぱいもらえましたよ。……では明日の試合、思い切り、暴れましょうか」


 コージはまだちょっと気持ちの沈んだ、頼りのない口調。

 しかし、もしもその表情を誰か見ていたらならば、驚きや、疑惑の念が胸の奥から込み上げるのを押さえることは出来なかったであろう。

 先頭を歩いているコージのその顔には、みんなからは見えないように、ニンマリとした笑みが浮かんでいたのである。

 まるでいたずらに成功した幼子のような。


     6

「ああ、大丈夫だって。食事はそりゃあかたいしさんの作る方が美味しいけど、あ、じゃなくてっ、愛子の作る方が美味しいけど、もちろん。とにかく、ちゃんと元気でやってっから。


 うーん、残念ながら、あまり淋しくないなあ。

 あ、いや、そういう意味じゃなく。だってノッコのバカがさあ、ほんとうるさくてうるさくて。相部屋じゃなくてよかったよ。バンって奴があいつと一緒なんだけど、ご愁傷様だ。


 まあバカでうるさいってだけで、いい奴ではあるんだけどね。単純過ぎるのがあれだけど。

 あいつ、愛子の状態のこと、随分と気にしているぞ。

 ほんとほんと。

 まあ、告白しようとしたこともあったくらいだからな。当たり前か。

 え、なに、お前知らなかったの?

 ああ、そうなんだ。だったらそのことは黙っておけばよかったかな。ノッコのためにも。

 いやいや、意外とそういう方面では気が小さいんだって、あのバカほんとに。


 監督?

 そっか、ずっとうちに泊まってたからな、コージ。

 ブロックリーグだから、ずっと日帰りだったし。

 大丈夫、うち来るまで日本の滞在経験はほとんどなかったらしいけど、日本での食事は全然問題ないってさ。そもそも暇さえあれば嬉々とした顔で日本の古いアニメの話ばっかりしてるんだぞ、日本の食べ物で腹を壊すんなら本望なんだよ。


 それよりも、今日の試合に引き分けちまって、それに責任感じて落ち込んでることの方がよっぽど問題だよ。

 まあ、態度が妙に演技めいてたから、またなんか策なんだろうけどね。

 おかげで、やっぱりどんよりしてた他の奴らが立ち直って元気になちゃったし。


 それより愛子、具合、どうだ?


 バカだな。おなかのことに決まってるだろ。

 ん、下ってない? そんな話してねえよ! ひょっとして、わざといってるだろ。


 ありがとな。でもおれ、そんな緊張はしてないから大丈夫。


 え、蹴った?

 本当?

 早いな。

 じゃあさ、話し掛け、そろそろやってみたら?

 とっくのとっくにやってる? そうだったっけ?


 ん、ああ、そうだな。もう遅い時間だもんな。ありがと。

 そっちもさ、仕事はゆみさんやいしだてさん、ばあちゃんらに任せて、あまり無理すんじゃないぞ。いや、あまりじゃなくて、ちょっとだって無理すんなよ。

 いまが一番大事な時なんだからな。


 ん?

 ああ、分かってる分かってる。

 うん。

 当たり前だろ。

 ……絶対に、勝つから。


 それじゃ。


 おやすみ」

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