最終話 生き甲斐のない男

 殺風景な居室の存在感はベッドが大半を占めている。

 その中で生活しているはずの人は、ベッドよりもひっそりとしていて、たとえば洗面台の横に掛かるハンドタオルみたいなものだ。


 私は、その空間に置物のように息をしてテレビをみたり(大半はそうである)、パズルをしたり、手紙を書いたり、居眠りをしたりしているお年寄りを観察すると心が幾分穏やかになる。

 そして自分もまたそのように歳を取りたいとも思う。


 そういう人たちは、「他にやることがないからね」とあきらめたように話すが、それでもその姿にはある種の寂しさを漂わせている人と、そうでない人がいる。

 その違いはどこから生まれるのかはわからないが、寂しさを感じる人とは、そこから話を広げようにもなかなか広がってくれないのだ。



 私達が余暇活動として提供している作業活動や体操などに、たとえ興味を示さなくても参加さえしてくれていれば、まだその人は大丈夫だと思う。そして、たとえ断られても部屋に籠って自分のやりたいことに集中している人も然り。

 例えば、競馬新聞をチェックする、とか一人で塗り絵している、とか、歌謡曲を一人で聞いていたい、とかそういう人。


 けれども、そういうことも一つもなく、いつも部屋に引き篭もり、こちらから声を掛けても一切を拒絶し、寝て、三度の食事と排泄しか受け付けない人というのも意外のも多い。そして、そういう人は私の経験上、かつては武骨だった男の人が圧倒的に多い気がするのだ。


 なんのために生きているのか、今までの人生を自分のためには生きてこなかった人なのだろうか。


 家族のために仕事しかしてこなかった人。

 生きていくために、明日の食事と寝床のために働いてきたお父さん。そういう人なのだろうか。

 そう考えると、今を生きる若者は生き甲斐を考える余地をたくさん、たくさん与えられて生きている気がする。羨ましいくらい、生き方に制限ない。


 現代社会を生きる若者がこの人たちと同じ年齢になるころには、高齢者施設の風景もだいぶ違うんだろうな、と思った。


 何もしなくていいと主張する人に、私たちができることとは何なのだろうか。

 私はその答えに、結局今の今まで辿り着くことはできていない。

 今まで試みはことごとく不発や失敗に終わってしまう。


 これは、私の課題だ。

 そして、リハビリに携わる人たちの課題だ。



 極端な話をすれば、リハビリはしなくても死なない。

 緊急を要するような治療と違って、後回しにされがちな分野だと感じる。

 その中で、その人がその人らしくこれから生きていくために何が必要なのか、病気や障害で失いかけた光を取り戻すための糸口は何なのか、健やかに生きていくために手助けができるか……この観点がリハビリにおいて最も重要で、今のリハ社会を支えているように思う。


 だから、私の仕事に答えはない。

 人が違えば正解は一つじゃない。



(この人は、どんな人なの?)


(ちょっと、その無表情を崩したい!)


(あ、こっちが気になる?好き?嫌い?)



 おはようございます、と、こんにちは、そして、お疲れ様です、を繰り返しながら、今日も私は目の前のお年寄りに奮闘している。

 

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リハさんと患者さん 小鳥 薊 @k_azami

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