一欠片のパン
吾妻栄子
一欠片のパン
「そこのあなた、どうかお慈悲を」
クリスマス近い街の路地裏。
「どうか小銭一枚でも」
剥き出した
「どうかパンの一欠片でも」
雑踏に紛れるほど小さな声だ。
振り向く者もいない。
「そこのお嬢ちゃん」
粗末な服を着てバスケットを抱えた少女は思わず真っ直ぐな金髪の頭を振り向けた。
「せめて銅貨一枚だけでも……」
物乞いの老婆は骨と皮ばかりになってどこか鷹の爪じみた手を差し出す。
「ごめんなさい!」
少女は小さな悲鳴じみた声を上げると、ところどころ破けた靴で道を駆け出した。
*****
一年で最も日の短いこの季節、暮れ
バスケットを抱えた少女は小さな蒼白い顔に疲れを滲ませつつ、家路を急ぐ。
「お嬢ちゃんや」
物乞いの老婆が
「せめてパンをひとかけら……」
「先に上げる人がいるの!」
まるで切り付けられた人が痛みを訴えるように短く叫ぶと、少女は駆け足になる。
煤けた黄金色の髪が夕陽を浴びて揺れながら本来の色を示すように輝いた。
*****
「お婆さん」
暗紫色の夜の
「さっきはごめんなさい」
華奢な体にはまだ大き過ぎる外套を羽織り、右手に片手鍋、左手に先ほどの買い物籠を持っている。
「ちょっとだけどパンとスープを持ってきました」
片手鍋から湯気がほの白く立ち上って温かなスープの匂いがパアッと辺りに広がる。
「お嬢ちゃんかい」
日暮れ前はまだ蹲っていたはずの老婆は薄暗く湿った路地の上に横たわっていた。もはや上体を起こす力すら失ったのだろうか。
少女は思わず両手の荷物を下ろすと、身に纏っていた外套を脱いだ。
一気に襲ってくる冷えた夜気に白い息を吐き出して思わず震える。
「大丈夫ですか」
少女は古びてはいるが質の良い女物の外套を老婆の襤褸を着て痩せ衰えた体に掛けた。
「ありがとう」
老婆は虚ろな目に笑いを浮かべる。そうすると、顔全体の皺がいっそう深くなって丸めた紙屑のようになった。
「とてもあったかいよ」
嗄れた声で語る相手の口許に少女は鍋のスープを一口掬って運ぶ。
老婆は乾いた唇を開けてそれを受けた。
しかし、ダラリと唇の両端から微かに溢れていく。
「これで元気が出ますよ」
小さな片手鍋の中には有り合わせの肉や野菜の欠片を煮込んだスープが何とか一人分には間に合う分量で入っている。
「パンもあります」
少女は籠から黒パンを一つ取り出す。
一瞬思案してから千切った欠片をスープを一口分掬ったスプーンに浮かべて老婆の口に再び運ぶ。
「喉に詰まらせないように気を付けて」
老婆は皺だらけの萎んだ小さな顔の目を潤ませて微笑んだ。
「もういいんだよ、お嬢ちゃん」
仔細に眺めると、ラベンダーじみた紫の、不思議な色合いの瞳である。
貧しく老いさらばえた姿の中で、その両の目だけが珍重な宝玉のように輝いて見えた。
少女は思わずこちらも澄んだアクアマリンのような水色の瞳を見張る。
「最後にこうして手を差し伸べてパンの一欠片でも恵んでくれる人に逢いたかったんだ」
「最後」という言葉を耳にした少女の瞳にも張り詰めた光が一瞬宿って潤んだ。
「もう、お帰り」
老婆の穏やかな言い掛けに少女は金髪の頭を横に振った。
「お嬢ちゃんには先に食べさせたい人がいるんだろ」
振りがいっそう激しくなって絞り出すような声が上がった。
「母さんは死んじゃった」
蒼白い頬に涙が伝う。
「やっとスープが出来て、ベッドに持って行った時には冷たくなって」
白い息を吐く少女の傍らで、鍋はまだ仄白い湯気を立てている。
「母さんは具合が悪くなってもずっとお針子して、自分は食べないで私にばかり余計にご飯を食べさせる内にどんどん弱ってったの」
少女は小さな荒れた手で黒パンをちぎって欠片を片手鍋のスープに落としていく。
「まだ若い綺麗な人だったのにお婆さんみたいに痩せ細って死んじゃった」
放り込まれた傍から汁気を吸って萎んでスープに沈んでいくパンの欠片に見入る両の水色の瞳はまだ幼い顔の中でそこだけが異様に老いて見えた。
「だから、お婆さんには少しでもお腹いっぱい食べて生きて欲しいの」
あどけない声は、しかし、どこか諦めを含んで響いた。
「もう十分生きたよ」
老婆はどこか哀しい、しかし、充足した笑いを浮かべた。
紫色の瞳はかぼそい少女の肩越しに広がる満天の星空を見上げているようだ。
「ろくでもないことばっかりだったけどね。でも、最後にこんな優しいお嬢ちゃんに会えた」
少女の目は新たに失われていく生命を見詰めながら再び潤み始めていた。
「信じられないだろうけど、あたしゃこれでも魔女の端くれなんだ」
鼠が一匹、長い尾を引きながら横たわる老婆の頭のすぐ上を駆け抜けていく。
「魔女……」
少女は虚ろな声で繰り返した。
音もなく吹き出した風に真っ直ぐな金髪の後れ毛がまるで意思を持った生き物のように震える。
「一欠片のパンをくれた代わりに一生飢えや寒さに苦しまないようにしてあげるよ」
その言葉に少女は答える代わりに息を飲んだ。
老婆の体が虹色に輝く砂と化して風に散り始めたからだ。
虹色の砂は煌めきながらクリスマス近い夜の空に昇っていく。
煤けた髪に粗末な服を着た少女は茫然とその様に見入った。
*****
「陛下、この辺りは不衛生で危険でございます」
年若い侍従の言葉に黒い毛皮のマントを羽織った男は真っ直ぐな金髪の頭を振り向かせた。
「そのような場所にリジーを追いやったのは誰だ」
まだ三十になるやならずの若き国王は低く抑えた声だが彫り深い眼窩の奥の薄青い瞳を鋭く光らせた。
主君より幾分年下の侍従は目を伏せる。
その様を目にすると、国王の眼差しは痛ましげになった。
「そなたの亡き父は侍従長として良く仕えてくれた」
苦く押し殺した語調で言葉を継ぐ。
「しかし、リジーを追い出し、彼女が程なくして死んだと私を欺いたことだけは看過できぬ」
国王は白い息を吐いて黒毛皮のマントの広い肩を落とす。
「あれから十年余り経つ」
黄金色の髪豊かな頭を傾けて夜空を仰いだ。
「彼女からすれば、守れなかったふがいない私こそが不幸に突き落とした張本人だろう」
冬の夜を彩る満天の星は目を刺すように鮮やかに煌めいているのにどれも高く遠い。
「どのような顛末でも受け入れるのだ」
微かな恐れを滲ませつつ国王が一歩踏み出した所で傍らの侍従が驚きの声を上げた。
「おや、あれは……」
行く手に広がる貧民街の一角から虹色に輝く砂が渦を巻きながら空に昇っていく。
主従は吸い寄せられるようにそちらに向かった。
*****
「この辺りからだった気がするが、見間違えたのだろうか」
「いや、私たちも確かに見ました」
突然現れた黒い毛皮マントの男と侍従、ものものしい護衛たちの姿に古びた外套を纏った少女は思わず身を竦めた。
国王一行も足を止める。
「お嬢さん」
煤けた髪の少女に国王は温かな声で呼び掛けると、ゆっくり歩み寄っていく。
二人を見守る侍従と護衛たちの目が驚きと恐れで見開かれた。
少女の煤けてはいるが真っ直ぐな黄金色の髪も、アクアマリンじみた澄んだ水色の瞳も、すらりと伸びた背丈に比して小さな蒼白い顔も、あまりにも主君に似ていた為である。
「この辺りにエリザベス・スチュワートという方は住んでいないかな」
国王は女性のように滑らかな白い手で少女の頬を撫でる。
「栗色の巻き毛に緑色の目をした女の人だよ」
小さな頬に涙の跡を認めると、王の水色の目にも痛みが走った。
「その人は知りませんけど」
少女の水色の瞳からまた透き通った滴が盛り上がる。
「私の母さんも栗色の巻き毛に緑色の目でした」
蒼白い頬にまた涙が零れ落ちて触れている王の指先を濡らす。
「今日、亡くなりましたけど」
国王は恐ろしいものに出くわしたように目を見張ると、掠れた声で尋ねる。
「君の名前は?」
「アリーヤ・ハミルトンです」
近付いてきた侍従に王は告げる。
「リジーの母方の姓だ」
国王は屈み込むと、少女と瞳を合わせた。
鏡に映したように良く似た、薄青の目に鮮やかな弓なりの眉。
「アリーヤ」
国王は温かに潤んだ声で問い掛ける。
「君は幾つになる?」
少女は王に向かって母親のように優しく微笑んだ。
「十歳になります」
黒毛皮のマントを羽織った王はまるで包み込むようにしてかぼそい少女の体を抱き締めた。
「私の天使」
王は自らも救われた人の声で語る。
「もう何も心配することはない」
*****
「お母さんの亡骸もちゃんと王家のお墓に入れるから、何も恥じることはない」
馬車に揺られながら、王は黒毛皮のマントを肩に掛けた隣の少女に優しく誇りやかに語りかけた。
「君は私の娘、王女なんだから」
「ありがとうございます」
少女は澄んだ声で答えると、車窓の星空を仰いで寂しく微笑んだ。(了)
一欠片のパン 吾妻栄子 @gaoqiao412
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