自分で書いたバトルもの現代SFファンタジー小説の世界に、なぜか主人公として入り込んでしまった人の物語。
あらすじ(作品紹介)にもある通り、既知の創作物の世界に入り込む、ある種転生ものにも似た構造のお話です。と、その前提で読み始めると、まず度肝を抜かれるのがその『バトルもの現代SFファンタジー』部分の骨太さ。
作中の自作小説にあたる部分の設定を、決して等閑に済ませない。中身自体は決して手を抜かず、といってやりすぎることもなく(やりすぎると多分「こっちだけでよかったのでは?」ってなる)。ケレン味の大盛り感でそれっぽさをしっかり演出し、しっかりお話の軸をぶらさない。
このバランス感覚。こういうの好き、なんて余裕こいて読んでいて、そして実はそれが巧妙に仕組まれた罠でした、と、そう気づいたのがだいたい中盤くらい。
どっちなのこれ!? 実は結構シビアというか、実際に身を投じてみるまで絶対に答えのわからない、この背筋の凍るようなハラハラ感。
やられました。日常パートの軽妙さが見事に煙幕の役割を果たし、気づけばとんでもないところに誘い込まれていたこの衝撃。もはや完全に掌の上、なんか一方的にボコボコにされるような感覚で読みました。
メタ構造をただ便利な道具として、あるいは枕や土台として使うのではなく(というか、使うと見せかけて)、メタそのもので殴りかかってくる荒武者のような作品でした。
読み終わった後、びっくりして文字数を確認して、一万文字以内にきっちり収まっているのにもう一度びっくりしました。
この密度で物語が展開されているにもかかわらず、最初の一話がまるっとアクションシーンに割かれているというのもすごいことです。その上で日常パートが二回に問題解決のための動きがあるパートまで挟まって過不足なく物語を終わらせている手腕が強い。
メタ構造が特徴の作品なのですが、仕掛けが二段階あるように思います。
主人公「橘高ヒロト」の中に入ってしまった作者「青木ヒロシ」は、名前の部分の「ヒロ」が被っていて、「三十路のサラリーマンが趣味で書いている小説の主人公へのちょっとした(あるいは無意識の)自己投影」が見えて笑みが漏れるのですが、ここに本当の作者である「木船田ヒロマル」さんの名前を並べると話が変わってきます。こちらの名前もまた、「橘高ヒロト」に字面も音も似せてあるのです。
これをあえて作者がやったのだとすると、作中世界内のメタ構造の上にもう一つ、作品と作者のメタ構造が生まれます。その前提を踏まえることで、はじめて、「了」のあとに書かれた文章の意味が見えてくるという仕掛けが、とてもテクニカルでした。