絶対領域防衛戦線
有澤いつき
賢しいけど、抗えない
「なん、だと……」
打ち合わせの場所に指定したのは、恐るべきことに彼女の家だった。いやさすがに恋人でもない男女(しかも成人)が女の部屋に上がり込むなんて、と一度はお断りしたのだが、粟島るいは不敵に微笑んで言ったのだ。「霧生くんは私をそういう風にしたいの?」と。いやいや勘弁してくれと頭を抱えたが、逆にそういったムードは俺に限ってあり得ないと思われているらしい。盛大な溜め息をついて同意したのが記憶に新しい。
察してほしいのだが、俺は粟島るいに好意を寄せている。女装コスプレイヤーという地雷級の爆弾を抱えながら彼女の同人活動を手伝っているのも、まあそういうことだ。それなのに粟島は俺のことを知ってか知らずか(確信している気もするが踏み込めない)、こうやって俺を弄ぶ。一歩が踏み出せない俺の不徳のいたすところ……なのかもしれないが。
さて、そんなわけで粟島の部屋に転がり込み、じゃじゃんと見せられたものに俺は冒頭の反応をせざるを得なかったわけだ。
粟島が微笑みながら出してきたのは衣装だ。言わずもがな、俺のコミケでの装いである。渋々着せられて売り子をやってもう三年以上経つので、多少の裁縫ならできるもののさすがに一から服は作れない。洋服の調達は粟島がやっているのだが(マルチな才能が怖い)、そうなると彼女の趣味が全開になるわけで。
端的に言ってしまうと、膝上丈のタイトスカートだった。
「いや、いやいやいやいや」
さすがに無理があるだろと首をブンブン横に振る。去年のメイド服はまだ丈も長いし露出も少ないからマシだった。だが今回は違う。身体のラインにぴったりと吸い付くような形状をしているし、腿を晒すというのがあり得ない。絶対男の骨格に合わない。何を考えているんだこいつ。
粟島はなんてことないように厚手のタイツを引っ張り出してくる。
「もちろん素足じゃないわ。これに黒タイツを履いてもらう。本当はストッキングの方が妖艶でいいんだけど、
「……そいつはどーも」
その気遣いができるなら別の次元でも配慮をしてほしかった。
粟島るいが「参考資料」といって出してきたのは、グラマラスな体型をしたピンク髪の女だった。このゲームは俺もやっているからよく知っている。だから尚更白目を剥きたくなる。こいつ胸元も思いっきり出してる気がしたんだが。
「上は白ジャケットにするから肩幅を誤魔化せるわ。下はベストと黒のアンダーウェアにしておきましょう。あとは詰め物を……」
「詰め物!?」
「そうよ。でないと見映えが悪いじゃない」
何度か女装をしてきたが、ここまで挑戦的な女装は初めてだ。メイド服にしろその前にしろ胸元を誤魔化せたり貧乳のキャラクターだったりしたから、胸に何かを詰めておく必要がなかった。だが今回のは明らかに毛色が違う。いかに俺が女装に向いていると(不本意ながら)いえ、骨格は成人男性のそれだ。背も高いし手足もまろやかでない。腰もくびれなどありゃしない。体型を出した女装というのは、事故物件はそれはそれはヒドイものになる。
「なあ、念のため聞きたいんだが、これ粟島が着るやつじゃないのか」
「まさか。私はあくまで作り手。着る趣味はないの、似合わないし」
「男の俺よりはずっと似合うと思うんだが?」
大学から戻ってきた粟島は白いニットにベロア生地のフレアスカートという、身体のラインを見せないコーディネートだ。とはいえニットを押し上げる双丘が存外大きいことを俺は知っている。本人がかなりいい身体をしているのだから粟島が纏えばいいのだ。
粟島はチッチッと俺の眼前で人差し指を振ってみせた。
「大人気女装コスプレイヤー、霧生
「……なりたくてなったわけじゃない」
偏頭痛が主張を始める。俺は現実逃避したくて項垂れた。
「霧生くんの体型に合わせて作ったからサイズはいいと思うけど、微調整は必要だから。そういうわけで着替えてもらっていい?」
「……今か」
「ええ」
「ここでか」
「人前で着替えることに恥じらう年頃じゃないでしょう?」
無駄な抵抗だとわかってはいる。だが男女二人だけの部屋で、好いた女の前で着替えをしろとはどういう了見なのだろう。本当に貞操観念というか、粟島がいかに俺を男として見ていないかわかって余計に虚しくなる。俺の方はこんなにも動揺しているのに。
粟島の部屋は段ボールと作業台が印象的な、女子の部屋というよりは職人の部屋だった。段ボールは過去に作成した同人誌と、今回頒布予定の新刊が詰まっている。作業台はデスクトップパソコンとお絵描き用のタブレットが置かれていた。可愛らしい女の子の部屋のイメージではない。だがわずかに漂う甘い香りに、俺はなんとなく落ち着かない心地でいた。
……別に欲情したりはしない。そこまで盛ってはいないはずだ。ただ粟島の前でパンツ一丁になって着替えるというのはなんというか、うまく言えないが……情けないにも程がある。
「…………わかった。寄越せ」
十数秒の葛藤ののち、俺は着替えることを選んだ。どのみち避けては通れない。ならさっさと毒を喰らってしまった方がマシだ。せめてもの抵抗で粟島に背中を向け、ベルトを緩めてズボンを落とす。部屋は寒くないが肌に直接触れる空気にぞくりとする。背中に粟島の視線を感じて痛い。何が嬉しくて粟島にみっともないパン一姿を見せないといけないのか。振り返ることはできなかった。
「霧生くんってボクサー派なのね」
「うるさい黙れ」
傷口を抉る言葉はやめてくれ。
「自然な男性の装い、というのは情報だけでは得られないもの。貴重な資料よ」
「……そーですか」
どこまでも材料にされている感覚が辛い。俺ばかりバカでかい感情を持て余して阿呆ではなかろうか。
スカートの履き心地を知りたいとのことだったので、タイツは履かず下着の上にスカートを引き上げた。晒された肌色の脚に悪趣味さが際立つ。嘔吐したい気分だった。
「どう?」
できるだけゆっくりと回転する。振り返りたくなかった。
「過去最高のゲテモノ感がするぞ」
「そんなことないわよ。スカートだけ履いてるからそう感じるだけ。霧生くんは綺麗なんだから」
粟島がにじり寄る。獰猛な獣のような光を瞳に宿しているのを確かめると、俺は冷や汗がぶわっと吹き出すのを感じた。
ヤバイ。この目をしている粟島は、ヤバイやつだ。
「綺麗って言われても、うれしくないんだが」
俺はじりりと後ずさる。ベッドにふくらはぎがぶつかって絶望的な心地になった。倒れこんではいけない。そうしたらきっと、止まらなくなる。俺の中の疚しい気持ちに歯止めがきかなくなる。だから粟島どうかこれ以上迫らないでほしい頼むから。
「私は高校の時から、霧生くんは理想的な女装をしてくれると思ってたわ。今もこうやって付き合ってくれるじゃない」
「それは」
お前が好きだからで。
「私、知ってるの」
粟島が俺の前で止まる。片手にはコスプレ用の白いジャケットにベスト、インナー。そして空いた片方の手が俺の頬を掠めた。じりり、と肌を焼く熱と粟島の挑戦的な視線が俺を同時に襲った。
「や、め……っ」
――言葉にするのも憚られる、最低に恥ずかしい声が喉を滑っていった。ペンを握り、針仕事をし、淡いピンク色で彩られたネイルをしている粟島の細い指。男の俺とは違う、細くて白いそれ。繊細な指先が俺の耳を確かめるように包んだとき、心臓が一際大きく脈動した。
「こうやって、私にだけ可愛い顔をしてくれるの。耳で感じてしまうの、秘密なんでしょう?」
「……うる、さい」
「そんな霧生くんを見てると、私はゾクゾクする」
強い力ではなかった。足元から力が一気に抜けてベッドに仰向けに倒れ込む。そのまま粟島が腹の上にのしかかった。重みは負担に感じない。むしろ危険なこの体勢に、過去最大級のアラートが脳内で鳴り響いている。
期待? 高揚感? ダメだ、一時の感情でハイになってはいけない。
「そろそろ、教えてほしいわ」
粟島がベストやジャケットをばさりと俺の胸に載せた。あべこべな格好、倒錯した関係。目を白黒させて俺は粟島をただ見つめる。
「霧生くんはどうして、女装をしてくれるの?」
身動きが取れなかった。粟島が腹に乗っているのもあるが、脚を動かそうとするとスカートが捲れ上がる。上半身は粟島の瞳に睨まれて金縛りみたいに動けなかった。逃げ場を失ったのだ。
……ロマンチストを気取る気はないが、告白するならもっとかっこよくしたかった。大学からの帰り道に軽い口調で言ってもよかった。とにかく余裕綽々な感じで伝えてしまいたかった。間違ってもスカートを履かされて、粟島に押し倒されて、耳に触れられながら言うべきシチュエーションは想定していない。自分の恥部を惜しげもなく晒している今この瞬間、俺は告白するならワーストに選ぶ。やっぱり粟島はずるい女だ。ここまでお膳立てされて引き下がることは許されない。
視線を逸らすことすら許されなかった。察してもらうこともできなかった。熟れた顔のまま、欲望をありのままに見せて、切羽詰まった俺は懇願するように紡ぐ。
「……好きだ」
ゆっくりと唇が動いた。
「粟島が、好きだからだ」
「…………」
粟島はしばらくの間、ただ俺を見つめていた。挑発的な鋭い光がその瞬間から消え失せ、目を丸くしたままこちらを見ている。その無の空間があまりにも痛ましく、俺としては生殺しにも近い感覚だった。
「粟島?」
「…………」
「おい、粟島」
何度か声をかけても反応がないので右手で肩に手を伸ばす。触れた瞬間、弾けたように粟島がびくりと身体を震わせた。
……はい?
「えっ、あ、あの……」
なにこれ。
俺の見間違いでなければ、粟島は頬を紅潮させているように見えるのだが。
可愛い、という言葉をギリギリで飲み込む。
「霧生くん、その、本当に?」
「さんざん焦らしといてそれはないだろ」
「あ、ええ、そうね、察してはいたけど、でもそんな」
それは、俺の中のわずかな嗜虐心に火がついた瞬間だった。
「俺は粟島が好きだ。たぶん、高校から」
「え」
「女装は好きじゃないが、粟島の傍にいられるならとやってきた。粟島が喜んでくれるならそれで良かった」
「ひえ」
「粟島は自覚がないかもしれないが、俺を試すように距離を詰めるところとか、小悪魔めいたところとか、そういうところ全部含めて」
「やっ、やめて! もういい、もういいから!」
顔を真っ赤にして首を振る粟島は……ああ、やはり可愛い。俺は結局惚れた弱味から抜け出せないのだとわかった。だがこれでは形勢逆転だ。
動揺して俺を押さえることを放棄した粟島をだきかかえ、百八十度回転させるのは早かった。タイトスカートはこれだからいけない。動きが制約されるし何かと都合が悪い。これまでさんざん俺を弄んでいた粟島だ、少しくらい仕返しをしてもいいだろう。
「さて、粟島。俺は質問に答えたぞ。次はお前の番だ」
返事は?
そう問いかけると、粟島はぶわっと顔を赤く染め上げて……しおらしくぽつりと答えた。
「ずるい人」
「粟島に言われたくないな」
零れた苦笑とともに粟島が目蓋を落とす。俺はそれを肯定を受け取った。
――それはそれとして、女装を強いられるのはまた別の話。
絶対領域防衛戦線 有澤いつき @kz_ordeal
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