Nāga Land Underground Ⅱ

メラー

Nāga Land Underground Ⅱ

 もう牛舎へ行くべき時間だったが、ニンはベッドの上で茫然としていた。あまりに鮮明な夢を見たせいで、上手く起き上がることができないのだ。シーツに吸い取れないほどの汗が、ビニルを張ったままのマットレスに広がっていた。脳で言い聞かせるように体を起こそうとしながら、彼は他人の体に頼んでいるようだと感じた。気味は悪いが、動くのが普通なのだから動かないはずはない。けれども、なかなか動かない。やっと身体を起こした時、彼は自分の体が思い通りに動くことに驚き、これが普段あるべき自由だと思い出すまでしばらく息を荒くしていた。


 剥いで丸めたシーツでマットレスを拭き、それを部屋の隅の洗濯籠に放り込んでしまうと、そのまま服を脱ぎ水浴びに外へ出た。そそくさと外へ出て来たのは、金縛りの不安を忘れる為ではなく、意識を澄ませ、覚える為だった。冷たい水を浴び、石鹸でざっと身体を洗う間も、彼はついさっきまで見ていた夢を忘れまいと頭の中で反復し続けていた。カールした黒髪を振って水滴を落としながら、今日は牛の世話はできないな、と諦めた。腰に布を巻いたまま、髪も乾かさないで、ニンは水瓶に肘をついて、牛舎のレック爺さんに電話を掛ける。木立の中からアオショウビンがニンをまっすぐに見つめるのに気が付きながら、彼は見つめ返しながらレック爺さんに話した。鳥の向こうの暗がりで、遠い空の光が葉と葉を潜って差し込んでいる。不思議な日だった。入ってくるもの全てがやけに際立っていたのだ。部屋に戻り、汚れの滲みついた作業ズボンを履いて、麻のシャツに袖を通した。仕事を休んだからと言って他に別の着る服もなかった。いつもと同じものを着るだけだ。しかし、彼は裸の皮膚に生地が触れる時、何故か今日自分が生まれて初めて服を着たことを実感しているように思った。その感覚は違和感に間違いなかった。牛舎と酒場とこの部屋を行き来するくらいの人生に彼は大いに満足していた。しかし、今日は違った。心が何かを切望しているのだ。彼はどうすべきか分からないまま部屋の中をぐるぐる歩き回り、念の為いつも牛舎へ行く時の様ハットを被ってみると、やっと誰かに話しておこうという気になった。


 原付に跨ると、ニンは夜明け間もない空の下をボスの家へ向かい走り始めた。周囲には朝霧が立ち込め、朝焼けの石竹色をすぐそばの低い空にまでに撒き散らしている。その男はボスと呼ばれているが、何も偉いとかそういう意味はなく、単にそれは彼が生まれ持ったニックネームであった。学校へ行っていた時分は暇がある度に会っては、話していたが、働くようになってからは会った覚えがなかった。それでもニンが初めに頭に浮かべた友人はボスであった。彼はまっすぐ、行き慣れた林道を走った。ニンは学生時代毎日ここを通っていた。原付で通い慣れた道を行くニンには、岩の凸になっているところや、雨季の間に水流でできた窪みの位置が目を瞑ったままでもわかる。


 毎日牛舎へ通っていたせいで、小屋から何分も離れていない道だが長いこと来ていなかった。随分久しぶりなのに何も忘れていないなと、記憶の綱を引き寄せながら、ニンは一層、ボスという人間がすっかり過去になっていることを意識した。藍色に染められた麻のシャツが風にばたばたはためいていると、これがタロ芋の紫色をした学生服だった時代があったことを頭では連想した。ニンにはその時代があったことを考えこそできるものの、自分の経験として思い出すことが難しいようだった。タロ色の制服を着て原付に乗っている自分の姿は記憶に仄めきもせず、彼はただ自分にも学生時代があったことを他人から聞いた噂のように考えた。ボスという男のことは考えれば考えるだけ、ありありと思い出せるようで、記憶の綱を引いているうちにボスはますます親しい友人であった様に思われた。ボスは農家の息子で、深い目で人の話を聞くような人間であった。温厚で人情味の豊かなその男は、大柄のわりに寡黙なのだ。百九十センチ近くあるかという背丈に、恵まれた骨格は、彼自身の力を外に出すより、他人を受け止めるのに役立っているようだった。ボスはふてぶてしい顔で熟考し、口ひげで濾過したかのように、言葉を吐く。ニンがいくら愚痴を吐いてもボスに返された言葉を聞くうちに、知らぬうちに許してしまうのだった。


 風がニンの髪をなびかせ、落ち着かない彼の心を慰めた。林を抜けて2キロ行くとボスの家族がやっているコーン畑に差し掛かり、家に着くとニンは表からボスを呼んだ。家の中からお母さんが、ボスは裏で仕事をしていると言う。鶏の籠の脇に原付を停めるとニンは雑草を踏んで裏手へ回った。


 ボスは切株に腰かけ、煙草を咥えたままワキシ―コーンの鞘を剥いていた。ニンの姿を見ると、鞘のついたままのコーンが入った黄色い箱をひっくり返し中身を地面に広げてしまい、黙って彼の前へ伏して置いた。ニンは箱に腰かけながら、ポケットから煙草を探しつつ、ボスの顔を眺めていた。何もかも変わらないようなボスを前にすると、不思議な心持にニンは言葉を忘れてしまった。


「お前、今日は乳しぼりはやらないのか」とボスは言った。ボスも一日ぶりに会うような顔でニンを見ていた。


「休んだんだよ」ニンは煙草に火を付け深く吸い込んだ。鞘を剥く手を休め「何かあったのか」とボスは言う。


 薄く長く、煙を吐くと、ニンは片手にコーンを遊ばせながら話し始めた。


「馬鹿げているとは承知だがね、できれば真面目に聞いてほしいんだ」

 ボスは静かにコーンの鞘を剥きながら、黙って頷いた。


「奇妙な夢を見た。目を覚ました時、俺はぐっしょり汗をかいていたくらいなんだ。その夢っていうのは、まあ夢っていうのは大概いつも曖昧だろう。しかし、俺が今日見たのはやけに鮮やかで、今でも夢だったと疑えないくらいなんだ。夢って不思議じゃないか。俺が見た夢も不思議なんだ。でも、現実の様で、気味が悪かった。そして、それは美しいんだ。夢の中で、俺は、かなり慌てて原付で走っていた。まっすぐにメコンへ向かっていた。なんでも、まだ知らぬ会ったこともない女、運命の女を助けなければならないとかで。いや、助けないといけないのか、なんなのかは正直判然としなかったよ。とにかく急いでいかなければならなかったんだ。彼女はメコンのほとりにいると、何故だか俺は知っていた。メコンと言ってもうんと上流の方で、俺は国境を越えてラオの山道を走っていくんだ。かなり長いこと走っていた。夢の中で何時間も過ごしていたんだよ。あそこまで上っていくと、メコンも静かで雄大な流れとかではなくて、荒々しさをむき出しにしていた。水は岩にぶつかって別れ、飛沫をあげて、耳には濁流の奏でる音がうるさい。向こう側の岸はちょっとした崖で、水はとにかく早そうだった。俺は大昔この川がこの岩山にぶち当たってタイの方へまで貫いてきたんだな、とかそういうことをやけに冷静に考えながら走っていた。しばらく行くとここがそうだなと分かって、俺は原付を降りて川を眺めた。こちら側には土が積もって後ろの丘までなだらかに傾斜している。さて、彼女はどこにいるのかと俺はゆっくり草むらを分けて岸辺へ降りていく。すると岸から4メートルほど向こうに顔を出している岩の上に、そいつは座っていた。大きな岩だったけれど、水面に顔を出しているのはその4、50センチくらいで、彼女の来ている青紫の長衣の裾にも、濁流の飛沫はかかっているように思えた。俺はあそこへ行かないとならないってことはよく分かっていたけれど、怖くて仕方がなかった。普通跳んで届く距離ではないし、ちょこんと座って待つ分には調子がいいかもしれないけれど、仮に跳んで着地した時には濡れた表面に滑ってしまいそうに見える。川に放り込まれたら終わりだろう。困っていると、彼女は気が付いたのか立ち上がり、俺の方を向いた。美しい瞳だった。彼女はすぐに「早く来てください」と言った。今行こうと思って一歩踏み出すと、ぬかるんだ泥に左足が膝まで沈んだ。俺は慌てて足を引っこ抜いて、後ずさりした。これじゃ水際に行くのでも一苦労だ。助走をつけて岸辺で勢いよく跳ぶなんて以ての外だろう。歩いて激流に入っても、一歩も進めず流されてしまう。怖くてどうしようもなくて、俺は立ち尽くしていた。彼女は悲しそうな顔で俺を見つめていた。俺は行きたくて仕方がないのに、足がすくんで、流れと女の顔を代わる代わる見ていて、しまいに、怖さは情けない諦めに変わってしまった。僕の顔をじっと見ていた彼女は、すぐに感じ取ったらしい。美しい瞳から涙がこぼれるのが見えハッとした。俺は決して諦めたりなんかするべきじゃなかったんだ。彼女は身を翻して、川に足を踏みこんで、溶けるように下半身から大きな蛇に変わっていき、人間のままの顔だけ振り向いて「でも、待っているわ」と言った。それだけ言うとまた、川へ向き直り、みるみるうちに頭まで大蛇になり、溶けるように水の中に消えた。これは夢で、いくらでも俺は水の中をいくことができたのに、と後悔した時には遅かった。俺は目を覚まし、涙と汗にまみれたベッドの上で荒く息をしていた」


 ニンは煙草を地面に投げ、踏んで火を消した。そして手に持っていたコーンの鞘を剥き始めた。「居ても立っても居られなかった」


 ボスは真剣な目でニンを見つめていた。


「夢には意味があるっていうだろう。蛇の夢は吉兆だ。確かに奇妙だが決して悪い夢でないだろう」


 ニンは、真剣に話を聞いてくれたボスに感謝したが、同時にこれは実際経験していないボスにはわからないことだと悟った。ニンには川に何かがあるように思えてならなかった。


「ああ、聞いてもらってすっきりしたよ。久しぶりに会ってもお前は変わらないな。俺はお前に話を聞いてもらうと安心するんだ。たまには顔を見せるよ」


 ニンは晴れ晴れした顔で帰っていき、ボスはニンが置いていった半分も剥いでいないままのコーンを手に取った。不思議な夢の内容を反芻し、ニンのことを気がかりに思った。しかし、何かできることが思いつくわけでもなく、彼は仕方なく剥ぎかけた鞘を外し、コーンを籠に投げ入れた。


 ニンが行方不明になったと知ったのは、ボスが久しぶりにニンの小屋へ、出来立てのコーンミルクと鶏肉を持って尋ねた日だった。彼がずっと帰っていないと聞いて、ボスはすぐに心当たりがある場所を話した。ニンの家族と町の警察がボスの言う場所へ車で探しに行くと、やはりニンの原付は草むらに停められていた。ボスの教えた場所はラオの国境を越えしばらく奥へ入ったメコンのほとりだ。


 数日後、原付のハンドルにひっかけられていた帽子と共に、草むらに停められた原付、岸辺のぬかるみの前で脱がれた靴の写真をボスは受け取った。帽子も、写真の靴も、あの日話した時に彼が持っていたものと同じだった。他に何も見つからなかったという事実だけがボスを安心させた。警察はニンが自ら水に入って死んだと言ったが、ボスはそうでないことを知っていた。川の底は、この世ではない地下の世界への入り口なのだ。

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