金魚鉢の底
猫目 青
あたかもその部屋は暖かな熱帯の太陽に熱せられた金魚鉢の中のようだった。
あたかもその部屋は暖かな太陽に熱せられた金魚鉢の中のようだった。
飾られた、幸せな写真。写真。家族写真。
その幸せな家族の象徴をうち壊すように、白髪混じりの母がぐったりとした様子で倒れていた。
寝息をたてて寝る母に紅はそっと布団をかける。今日も夕御飯はなしだ。だから 奈々子は、勤め先のコンビニから貰ってきた期限切れのおにぎりをぱくりと大口をあけて頬張っていた。それで足りないのなら、シフトを変わってくれた先輩のいるバイト先のコンビニにいけばいい。
「金魚揚げ、まだあるかな……」
ツナマヨだけでは満たされない空腹を補うべく、奈々子はさっそくコンビニに行くことを思案し始めた。と、部屋の中央に倒れている母に眼を向ける。ちゃんとご飯は食べてきたのだろうかと不安になるが、泥のように眠る母を起こす気にもならない。
そもそも、自分がコンビニでバイトしながら定時制の高校に行けるのも、母が衣食住を保証してくれているお陰だ。バイト代の一部を家に入れはするが、それも月に一、二万程。すぐに食費に消えてしまう。
調理師をやっている母のお給料もそう高くはない。本当に世の中は弱者を食い物にするよなと、母を見るたびに奈々子は思った。
母を尊敬している。けれど、母のようにはなりたくない。父のような男に引っかかって、貧乏を経験するような人生は歩みたくないのだ。
「とーいっても、私も定時制だけどね」
苦笑が顔に滲みでる。
今日、友達と昼休みにした話も、彼氏、彼氏、彼氏。恋愛の話ばかりで本当についていくのがやっとだった。その彼氏はあなたを幸せにしてくれるのと思えば、分かれた彼氏の悪口を延々と友達は続けるものだから嫌になる。
本当に、恋愛って何がいいのか分からない。少なくとも、家庭を持たなければいけない男との恋愛に奈々子は興味というものを持つことが出来なかった。
ぎゅうと腹の虫が鳴る。
そうそう、この虫を諫めなければならないと奈々子は気がつく。足音を立てないようにそっと部屋を歩くも、母親はちらっと眼を開けて、煩いとあなたに愚痴ってきた。
「じゃあ、部屋で寝なよ……」
「私の分のおにぎりは?」
「買ってくるよ……」
返事はない。気を失ったように寝る母を見つめ、奈々子ははあっとため息をつく。じっと母を見つめながら部屋のドアを開けたが、母が起きる様子はない。
こうはなりたくないなと思いつつ、奈々子はそっと扉をしめていた。
金魚のことを思う。夜市で売られていた赤い金魚のことを。それは牝の金魚だと言って奈々子に買い与えてくれたのは、失踪した父親だった。ビニール袋に閉ざされた水の中で、ぷかぷかと銀色の気泡を吐きながら、奈々子を見つめていた金魚。
数週間後にはいなくなった父と同じように、奈々子の目の前から消えてしまった(世話の仕方が悪くて死んだ。)しまった金魚。父の世話もきちんとできていたら、父は消えずにここにいたのかと奈々子は思うことがある。
そうしたら母は白髪交じりの頭を抱えて、疲れ切って泥のように眠ることもなかったし、あの温めらた金魚鉢のように暖かな空気が奈々子を取り囲んでいたはずだ。
そしてそこには、きちんと世話をしてすっかり大きくなった金魚もいる。そんな夢想を思い描きながら、奈々子は熱帯夜の道をひたすらに歩いていた。
空を仰ぐ。
金魚の鱗みたく、赤色めいた金色に輝く月がある。燦燦とその月が、この地球を温めているようだ。けれど、地球を温めている太陽は、地球の反対側にあってお目にかかることはできない。
「金魚さんはいないかね! 金魚さんはいないかね!!」
ぶらぶらとコンビニで貰った袋をゆらしながら、奈々子は鼻歌をうたっていた。
「金魚さんならここにいる……」
幼い少女の声がする。ふっとそちらへ顔を向けると、鮮やかな赤い金髪の少女が大きな水槽の中に入っていた。
赤い光沢を放つ長い金髪をゆらしながら、少女はじっと黒い眼をこちらにむけてくる。ぎょっと奈々子は眼を見開いて、金魚だと彼女に向かって呟いていた。
「金魚さんならここにいる……」
拙い声で、少女は奈々子に語りかける。奈々子ははっと我に返って、少女へと近づいていた。
「えっと、お家はどこかな……?」
育児放棄という言葉が脳裏を過ぎる。この子は、親に見捨てられて夜の街をさまよい歩いているのではないだろうか。父親に見捨てられた奈々子のように。
「金魚さんならここにいる……」
少女は同じ言葉を繰り返すばかりだ。
「あなたは、金魚さんなの?」
「うん!」
そう問いかけると、ようやく違う反応が返ってきた。ほっと溜息をついて、奈々子は少女の頭をなでていた。
「もう遅いし、お家に帰ろうね。なんだったら、お姉ちゃんが送っていくよ」
「金魚さんのお家は、お姉ちゃんの所だ! 金魚鉢みたく暖かいお部屋だ!!」
「いや、私は君のこと知らないし……」
「金魚さんを忘れちゃったのっ!? あんなにあんなに、ずっと見つめ続けてたのに、忘れちゃったの?」
悲しげに大きな眼がゆがめられる。今にも泣きそうなその眼を見て、奈々子は肩を落としていた。
「お姉ちゃんとこ、来る!」
「うん!!」
ぱあと黒い眼が輝いて、金魚少女は嬉しそうに微笑んでみせる。ぱくぱくと嬉しそうに開け閉めを繰り返す唇の動きが気になって、奈々子はじっと彼女の唇を見つめていた。
なんだか、金魚が呼吸しているみたいだ。
誘拐犯として逮捕されたりしないだろうか。
少女を連れてきて奈々子は端的にそう思った。いくら小さな子を保護したとはいえ、警察に連絡しなればそれは立派な犯罪になる。未成年略取とか何とかという罪に問われるのだ。
幸い、母は寝室に引きこもっていなかった。おにぎりは冷蔵庫にという書置きを守り、買ってきたツナマヨをからっぽの冷蔵庫に入れている。
と、そこで悲劇は起きた。
「あー! あたしの金魚揚げ!!」
金魚揚げとは、その名の通り金魚の形をした練り物をあげた奈々子の勤めるコンビニの名物だ。その名物を、大口をあげて金魚少女が食べようとしている。
「金魚は物を食べさせてもらえなかったぞ。だからこれは金魚の」
それって共食いじゃないかと思いながらも、奈々子は不思議な感覚にとらわれていた。なんだか目の前の少女に見覚えがあるのだ。
「その、あなたは誰……」
とりあえず名前を訊いてみる。すると少女はこくりと首を傾げて、金魚と大声でいった。
「金魚って名前なの?」
変わった名前だなと思いつつ、彼女に声をかける。金魚はこくりと首を大きく振っていた。
「だって、ななこは金魚のこと、金魚って呼んでたよ!」
「なんで私の名前知ってるの!?」
まん丸い眼を光らせて少女は笑ってみせる。その笑顔の可愛いこと。奈々子はあんぐりと口を開けて、少女をまじまじと見つめることしかできない。
「金魚は、なんなの?」
「金魚は金魚。でもななこがちゃんと餌をくれないから、金魚は体を亡くしちゃった! 何か気がついたら、ななこと同じ人間になってた!!」
「気がついたらおんなじ人間になるものなの!? というか、金魚って転生するのっ!?」
「金魚はななこに餓死させられたけど、ななこを恨まなかったから人間になれたんだってっ!!」
「何その因果律!!」
「うるさい!!」
寝室から母親の怒鳴り声が聞こえてきて、奈々子は黙る。とりあえず、眼の前にいる少女は、どうも奈々子が殺してしまった金魚の生まれ変わりみたいなのだ。なんで彼女が奈々子に会いに来たのか、奈々子にはさっぱり意味が分からない。
「私に殺されたのに、恨んでないの?」
「パパがいなくなって、奈々子は金魚の育て方も調べられなかった……」
しゅんと金魚は眼を伏せて、答える。奈々子はその言葉にぎょっと眼を見開いていた。忘れかけていた過去の古傷ががっと開いたようで気味が悪い。
そう、父親がいなくなって、奈々子はしばらく何も手がつかなかった。買ってもらった金魚の世話も忘れるほどに。
「だから金魚は、ななこにパパを届けに来た!!」
「はい!?」
パパを届けるとは、どういうことだろうか。チンプンカンプンなことしかいわない金魚少女を見ながら、奈々子は頭を抱えていた。
と、奈々子の携帯が鳴る。ぎょっと奈々子は机に置かれた携帯を見つめていた。ディスプレイに表示された名前を見て、奈々子はまたもや眼を剥いてみせる。
『お父さん』
と、着信者の登録名がそこには映っていた。何度かけても繋がらなかった父の電話番号もそこには記載されている。
「ほら、パパ来たよ!!」
明るい金魚少女の声が、やけに耳障りだ。そんな少女の声を聞きながら、奈々子は恐る恐る携帯へと手を伸ばしていた。
画面をタップして通話に出る。
「奈々子か……?」
震える父の声が電話の向こう側からして、奈々子は体を震わせていた。そんな奈々子を金魚少女は得意げに見守るばかりだ。
「お父さん、今どこにいるの?」
「分からない……。暗くて、生暖かくて、金魚鉢の底にいるみたいだ……。でも、もうすぐ帰るから、母さんと一緒に待っていてくれ……」
ごぼごぼと水音が背後からした。まるで、金魚が気泡を吐いている音みたいだ。
「お父さん……」
ツーツーと電話はそこで途切れる。奈々子は、手からぽろりと携帯を落として、眼から涙を流していた。
どうしてだか、父が金魚鉢の底にいるような気がしてならないのだ。たくさんの金魚たちに囲まれて、父はその水槽の底にいる。
「大丈夫、帰って来るよ……」
嗤う金魚少女が囁く。奈々子は、何のことだかわからず、ただ透明になっていく彼女を見つめることしかできなかった。
数週間後、金魚の生け簀の底から、奈々子の父親と思われる白骨死体が発見された。
金魚鉢の底 猫目 青 @namakemono
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