第5話 兎の苦悩

今宵は満月。

月には兎の影が映っている。


兎は一つため息をついた。


邪念を払うかの様に首を横に振り、また餅をつく。

しかし、いつもの澄んだ音は聴こえない。

餅をつく音は兎の心を写すかの様に不安定だった。


どうしたのだ。

月の神から話は聞いたぞ。

お主の想いは月に伝わり、また月もお主を愛しいと想っていると。

良かったではないか、互いに触れ合う事は無くともしっかりと繋がったのだぞ。

そばに居たいと言ったお主の望みは満たされたのではないか。


兎は不意に現れた神様に餅をつく手を止めた。


神様。

俺の想いをお月さまに送っていただいて。

お月さまにこのような影を映していただいて、本当にありがとうございます。


うむ、確かにお主の想いを月に送った。

しかし、儂が送ったのはお主の想いの種だ。

それは月の心の片隅に違和感を感じる程度の小さな種だ。

月にあのような影を創り出したのは、ひとえにお主の想いの強さである。

月に影が映るなど、この儂にでも予想が出来なかった。


で、お主は何を悩んでおるのだ?


俺は欲張りなのでしょうか…

お月さまに影が映る様になりました。

そばに居られると喜びました。

お月さまが…愛していますと仰って下さいました。

お月さまの灯りが暖かく感じる様になりました。

俺への想いだと思うと嬉しくて涙が止まりません。


俺は考えていた以上の現状にとても満足しています。

神様には感謝しかありません。


感謝などよい。

良かったではないか、では何を悩む。


…最近思うのです。

俺の想いは満月の夜、影となってお月さまのそばに居ます。

俺は満月のお月さまを愛してるのではなく、お月さまの全てが愛おしいです。


お月さまは形を変えても俺に暖かい想いの灯りを届けてくださいます。

でも、俺の想いが形になるのは満月の夜にだけ…


ふむ、兎よ。

お主は海を見た事はあるか?


遠目にですが、一度だけあります。


ならば、これから言うことも分かるであろう。


欲とはな、果てしなく広くそして底の見えない海のようなものだ。

押しては引く波のように、その欲は姿を変える。


良いか、お主は欲張っているのでは無い。

謂わば欲に溺れかかっているのだ。


兎よ、お主の望みとは何だ?

お主の望みを欲に溺れない様、しっかりと心に刻んでおくのだ。


神様が姿を消したあと、兎は考えた。


俺はお月さまを愛している。

たとえ周りに罵倒されても構わない。

その気持ちに変わりはない。

俺はお月さまを愛し続ける。

その想いが満月の夜にだけ影として現れる。


それでもいい。


形は見えなくても、俺の想いがお月さまに届いていると今なら信じられる。


お月さまがこんなに暖かい灯りを照らしてくれているのだから。


俺はお月さまを愛している。

俺はお月さまを想いながら餅をつき続ける。


この想いが届き続ける様にお月さまを想いながら。

お月さまのそばに居られる事が俺の望みだから。


今宵は満月。

月の兎は晴れやかな顔で餅をつく。

地上の餅をつく音は澄んでいた。





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兎と月 koh @koh_writer

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