第2話
(気持ち悪い……)
肌寒さにぶるりと震えながら、
沈んでいた意識が徐々に頭をもたげる。眠りの淵から浮上する身体が、激しく揺さぶられているのを感じる。
父は燕花に一流のものを覚えさせるために、衣裳や装飾品や食べ物だけではなく化粧品の類まで、国中から集められた最高の品を与えた。もちろん寝具も絹の敷布で肌触りはよく、夏には真綿を、冬には鵞鳥の羽毛を詰めた蒲団で眠りについた。
だというのに、今はひどく不快だ。寝る前には香を焚きしめるはずなのに異臭もする。
揺さぶられつづける苦痛に重いまぶたを開く。途端、強い風が顔に吹きつけた。
息を詰まらせた燕花の視界に最初に飛びこんできたのは、辺り一面、何もない平原だった。かわたれ時の平原は青い帳が幾重にもかさなり、はっきりと輪郭をなぞることはできない。
ぼんやりとしたまま、今度は自分を支える存在に気づく。燕花の身体に回された丸太のように太い腕、頬に触れる隆々とした胸板。触れた場所からは、布越しに体温と鼓動が伝わってくる。
馬に乗っているのだと、ようやく頭が理解した。男に支えられて燕花は平原を駆けている。
ゆっくりと顔を上げる。すると、馬を操っている男が「お」と呟いた。
「起きたか」
気を失う前に聞いただみ声だった。燕花は掠れた声で問う。
「……どこ?」
「
「……気持ち悪い」
「ちょっと待て。動くんじゃねえぞ、落ちるからな」
男が手綱を引く。顔に吹きつける風がやわらぎ、やがて揺れは収まった。
最初に男が鞍から降り、続いて燕花を降ろす。足に力が入らず、燕花は地面にへにゃりと頽れた。
「おい」
男が正面にしゃがみこみ、顔をのぞきこんでくる。薄明の中ようやく認めた男の顔に、燕花は気分が悪いのも忘れて見入った。
日に焼け乾燥した肌には無精髭が横行闊歩し、何年も櫛を通していないと思われる蓬髪は風でひどい有様だ。暗闇でも鋭いと感じた瞳はそのままで、今も睨むように目を細めている。うっすらと浮かんだ黒い隈が、さらに男の印象を悪くしていた。
「おい、大丈夫か」
男の手が額に触れる。ざらざらとした厚い手のひらは、燕花の柔肌には痛かった。
「……気持ち悪い」
「酔ったか」
「ちがう……」
燕花は袖で鼻を押さえた。
「ひどい臭い……無理……」
「……は?」
「ちょっと離れて……」
「てめえな」
男が舌を打つ。だが、燕花の頭を撫でると腰を上げて距離を取ってくれた。
詰めていた息を吐き、燕花はそのままずるずると横になった。
絹の
遠くで鳥がさえずった。仰げば、遮るものはいっさいない曙の空が視界を覆った。
淡くにじむような青の中、行儀よく並ぶ雲はまだ暗い。どれほど背伸びをしてもとうてい届きそうにない果てのない蒼穹に、両腕を伸ばして浸してみる。
ふと目を凝らせば、昨晩染めたばかりの爪があちこち欠けていた。隅々までていねいに支度しろと父に命じられて整えた爪が。
「――は、あははははははっ!!」
ふつふつとこみあげてきた感情を、燕花はためらいなくぶちまけた。
蹴られた腹が軋んで、笑うたびに痛みが走る。それでも燕花の根源からやってくる波は収まらない。身体を起こし、折れた膝に力を入れ、大地を踏みしめる。
靴を脱ぎ捨てれば、記憶の底に追いやられていた感触が鮮やかに蘇った。髪を飾る重い簪や歩揺はすべて取り、玉の腕輪も放り投げ、真珠と瑪瑙の首飾りは空へ高く投げる。身軽になった身体には衣さえ疎ましく、燕花はくすくすと笑いながら帯をほどき、肌着まで脱ぎ捨てた。
晒された無垢な肌が、早朝の空気に粟立つ。それも無視して、燕花は薄い身体に夜明けの光を浴びながらくるくると回った。
「……何やってんだ」
笑い声をあげながら回りつづける燕花に、男が呆れた様子で問う。
「おい、目ぇ回すぞ」
言われたと同時に、燕花は勢いあまって地面に倒れた。衝撃に一瞬ぽかんとするが、すぐにまた笑いがこみあげてくる。
「おい、燕。アホか。何やってんだよ」
男の顔がひょいと視界の端から現れる。燕花は胸に広がるぬくもりに任せて、幼い子どものような笑顔を咲かせた。
「
「てめえな。誰が助けてやったと思ってんだ、あ?」
「ごめん。あんまりにも格好いいから照れちゃった」
「調子いいこと言いやがって」
無骨な拳が燕花の額を軽く突く。それから男はくすぐったそうにする燕花の上半身に視線を落とし、太い眉を寄せた。
「大丈夫か、それ。あの男にやられたんか」
「んー、痛いけど多分大丈夫。お腹減ってきたし」
「けっこうひでえな。誰なんだあいつ」
「父上様」
「は?」
「一発で倒してなかった? すごいなぁ」
男の表情が険しくなる。
「もっと殴っときゃよかったな」
「いいよ、すっきりした。助けてくれてありがとう」
起きあがり、皓歯を見せて笑った燕花に、系と呼ばれた男は「おう」とうなずいた。
燕花が生まれたときに母親からもらった名は、『
この国では、庶子であっても男子ならば父親の財産を相続する権利が認められている。つまり、燕には鄭家の莫大な財産の一部を手にする権利があった。
しかし夫の不貞に癇癪を起こす正妻が庶子の権利を認めるはずがなく、ましてや家督を脅かす可能性さえある男子である。見逃すはずがない。
命の危険を感じた母は、燕を娘と偽ることにした。燕の秘密は村では誰もが知っていた。だが父親には知らされていなかった。
引き取ったあとに燕の正体を知った父は激怒した。そして一度は捨てようとしたものの、すぐに考えを改める。
女として育てられてきたのなら、そのまま女として育てればいい。見た目は申し分ないのだから、教養さえ仕込めばいい、と。
皇帝は美しく珍しいものを好む。それは花であっても鳥獣であっても、宝玉や陶磁器や書画であっても、もちろん人であっても、手元に置いて愛でたがる。男でありながら並の女よりも美しい人間ならば、必ず気に入るだろう。
父親の本心を知った燕は、絶望のあとに激しい怒りを抱いた。自分が父にとってただの道具でしかなかった事実もさることながら、彼は燕との約束を違えていたのだ。
村を出るときも、鄭家で暮らしているあいだも、折々に燕は故郷の暮らしぶりを気にしていた。小麦も満足に実らない寒村での生活はかつかつで、少しの天候の気まぐれが命に直結しているのだ。
父は燕を育てた礼をすると里長に約束したし、不作の噂が耳に入れば援助もすると言った。燕は自分が女として鄭家で暮らしていれば村は安泰だと信じていた。
だが、現実には村は数年前の凶作で壊滅し、村人は流民に身を落として散り散りになっていた。その事実も、母の友人である女が、偶然城壁近くの貧民窟で系たちと再会しなければ知りえなかったのだ。
――おのれを殺して鄭家に尽くしても、満たされるのは村人の腹ではなく父や兄の出世欲だけ。
燕は鄭家を出る決意を固め、昨今世間を騒がせている義賊に乗じて系や村の若者に脱出の協力を仰いだ。事前に邸の見取り図も渡していたし、段取りも細かく決めていたので侵入は簡単だったが、父親に早々に見つかってしまったのが誤算だった。
「でもひやひやしたよ。約束した時間を過ぎても来ないから、何かあったんじゃないかって心配した」
「直前に義賊の頭が取り分を上乗せしてきやがったんだよ。結局、おまえの頭に挿さってたやつ一本抜いてったけどな」
「え、どれ?」
「よくわからん」
「嘘、人が苦労してつけてきたのに。そいつこそ一発殴っておいてよ」
「おまえなぁ。んなことしたら、俺ら今ごろ首と胴体が分かれてるぞ」
むう、とくちびるを尖らせてみせると、系は呆れていた。それがおかしくて、燕はすぐに破顔する。
「あ、そういえばおばさんは? 無事?」
「ちゃんとつれてきたから安心しろ。あとで合流する」
「怪我は? 大丈夫?」
「本人は平気だってさ。おまえこそ気失ってたから心配してたぞ」
「よかった。あとで謝らないと」
「何を」
「俺をかばってくれたから」
そうか、と系が呟いた。
背後から鳥の鳴き声が近づいてきて、群れが二人の頭上を飛び越えていく。
東へ目をやれば、地平線に白い光が射し始めていた。太陽がまたこの蒼穹へ姿を現そうとしている。
「綺麗」
風にそよぐ髪を払いながら、燕はぽつりと呟いた。
夜明けの澄んだ匂い、名も知らない鳥のさえずり、茜色の
幼いころ、兄と慕う少年に手を引かれて鶏小屋へ卵を取りに行くのが日課だった。あんなささやかな日々がこんなに遠く感じる日が来るとは、あのころは知らなかった。当たり前のように浴びていた朝日を、額にかかる前髪と戯れていた風を、固く握った大きな手を、こんなにも恋しく思う日が来るとは。
「……系」
「なんだ」
呼べばすぐに返事がある。そのことにひそやかに胸を震わせながら、燕は義理の兄を振り返った。
「これからは俺、男に戻るよ」
「やっとか」
「うん。それで、みんなで一緒に商売しようよ。持ってきた簪とか売って資金にして、店をかまえて、たくさん儲けよう。お金が貯まったらみんなでおいしいものを食べよう。好きなものを食べて、好きな服を着て、好きに暮らすんだ」
「酒もたらふく飲みてえな」
「お酒? 飲めるの?」
「まあまあな。もう何年も飲んでねえなぁ」
「じゃあまずはお酒を買おう。それと
「おまえの服もな」
「うん」
よっこらせ、と系が腰を上げた。燕は目を丸くしたあと、小さく吹き出した。
「何だよ」
「何でもない」
系が不可解そうに眉を寄せる。どうやら無意識のようだ。
「つーか、いいかげん服着ろ。風邪引くぞ」
「重いから大変なんだよね。まあいい値段で売れるだろうけど」
「そうか? 上に着てたのはごてごてに刺繍してあるからわかるけど、下はただの裙子だろ」
燕はあぐらをかきながらため息を吐いた。
「系、あの裙子だけでも俺たちがしばらく食べられるだけの価値があるんだよ。そのへんに転がってる簪も、一本で優に一年は暮らせるはず。この耳飾りも海の真珠を使ってるから、最低でも数十両はするかな」
指先で耳朶にぶらさがる真珠を弾いてみせる。系の顔色がみるみると変わった。
「マジかよ。んなもん投げ捨てんな。早く拾え」
「誰もいないから大丈夫だって」
「……まあ、そうか」
父が鄭家の威信にかけて揃えた品々だと知っていたからこそ、燕はわざわざ後宮へ赴くための衣裳で着飾っていたのだった。系たちに頼んで運び出した物を含めれば、資金としてはじゅうぶんだろう。
地平の彼方から一条の光が平原を貫く。新たな一日がまた始まる。
昔、無邪気に地平線の彼方まで飛んでいけると信じていた足は、きっとまたその先まで駆ける力を与えてくれる。
牢籠はもう燕を閉じこめることはできない。おのれを縛るものはすべて置いてきたのだから。
生まれ来る太陽へ両手を伸ばす。目覚めゆく数多の命の息吹を全身で受けとめ、おのれをその営みの中へ投じる。
食んだ
朝に身を投げて 佳耶 @kaya_hsm
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