朝に身を投げて
佳耶
第1話
室内に灯りはない。普段ならとうに寝入っている刻限だが、燕花は
その爪よりも鮮やかな
かすかに身動ぐだけで、耳元で歩揺がさらさらと鳴る。少女は目を閉じ、幽かな音を慰めにした。
今年の春に十五を数えた燕花は、
父親は
順調に官位を上げていく父に、将来を嘱望される長兄。それに続こうとする次兄と三兄。
彼らの栄達への道を整えるために、燕花は明日京師へ上り、皇帝の後宮へ入る。
父はそのために燕花をわざわざ引き取ったのだ。まともに字も書けず、裸足で野山を駆け回っていた燕花を。
父の正妻はとても嫉妬深く、女色盛んな父が女に手をつけるたびに折檻した。母もそんな下女のひとりだった。そして不幸なことに、母は燕花を孕んでしまった。
妊娠が知れれば正妻の悋気はますます募るだろう。へたをすれば、母子ともども命が危ういかもしれない。
そう考えた母は、ひとりで故郷へ戻りひとりで燕花を産んだ。毎日の生活さえ精一杯の、それでも心優しい人々が互いに協力しながら日々を営む寒村で、燕花は伸び伸びと育てられた。
それが一転したのは十歳のときだ。
すでに母は他界し、遠縁の世話になっていた燕花の前に、突然存在さえ知らなかった父親が現れた。
何がきっかけで、十年のあいだ放っておいた庶子を思い出したのかはわからない。ともあれ、父は燕花に価値を見出した。
燕花は母親に似て美しい子どもだった。生まれながらの白い肌に深い色をしたつややかな瞳、細く通った鼻筋に花弁のようなくちびる。
土にまみれる生活をしながらも、人の目を引きつける容姿だった。そこに父は目をつけたのだ。
そうして燕花は鄭家へ引き取られ、
裸足の足はやわらかな靴にくるまれ、清潔で目にも鮮やかな絹の衣をまとい、無造作に束ねていた髪はていねいに梳られて少女らしく結いあげられる。大家の娘らしく室内で過ごすことで、もともと白かった肌はよりいっそう白くなり、しみのひとつもない新雪のように清らかに透きとおる。
字を習い、言葉づかいや立ち居振る舞いを習得し、礼儀や学問を学び、詩作や楽器や囲碁を教わるかたわらで裁縫もこなした。
やがて京師のことばを自在に操り、流麗な字を書き、史書を諳んじ、琵琶を奏でながら小鳥のように歌うようになった燕花に、父は満足しながら前触れもなく告げた。
「陛下は美しいものに目がない。おまえは必ずや陛下のお気に召すだろう」
なぜ、自分のような子どもをわざわざ引き取り手間をかけて教育を施すのかと、日々疑問を膨らませてきた燕花にとって、それが父からの答えだった。
父にとって燕花は血を分けた子ではなく、単なる政争の道具でしかない。おのれの栄達を極めるための踏み台だ。
そもそも、燕花が妃になれるはずがないのだ。父もそれを承知しているはずなのに、こうして入宮の手筈を整えてしまった。
(馬鹿馬鹿しい……)
五年のあいだ暮らした自室へ視線を巡らせる。
夜闇に沈む机、書棚には女の道徳を説いた書が積まれ、
足元から忍び来る虚無の気配に、ぶるりと細い背が震えた。
出立前の酒宴の喧噪は絶えて久しい。知人を招いての宴だと聞いたが、それも燕花の門出を祝うのではなく、おのれや息子たちの将来を祝うものだ。
馬鹿馬鹿しい、と今度は音となって床に落ちる。それ以外の感情は言葉にならず、組んだ両手に力が加わった。
――今ごろ父は寝台の中だろうか。
燕花はゆっくりと指をほどき、挿していた簪のひとつを引き抜いた。鈍い色をまとうそれをじっと見つめ、強く握る。
煽りはじめた鼓動を落ち着かせるために、深く息を吐いたときだった。かたん、と扉が開く音がして、女がひとり
「盗賊よ。早く逃げなさい」
燕花は素早く立ち上がり、簪を懐に収めて扉へ向かった。知らせに来た女は寝室の中央でぽつんとたたずんでいる。
「どうしたの?」
「あたしが囮になるから、燕は先に行きなさい」
「馬鹿なこと言わないでよ」
燕花は寝室へ戻り、女の手をきつく握りしめた。
彼女は母の友人で、生まれたときから世話になってきた恩人だ。置いていけるはずがない。
「そんなこといいから。行こう、おばさん」
促せば、女は一瞬迷ったもののすんなりとついてきてくれた。
房の前に広がる
暦はすでに初夏を過ぎている。深夜の空気は月影とともにしっとりと肌に絡みつき、頬を撫でる風に耳を澄ませれば、下男とおぼしき喚声がかすかに混じっているのがわかった。邸の表から、じわりと混乱の気配が伝わってくる。
燕花は女の手を握ったまま、自室からもっとも近い通用門へと足を向けた。
しかし、院子を出てすぐに道を塞がれる。現れた人影に、燕花は息を呑んで立ち止まった。
「燕花、どこへ行く」
「……父上」
やはり眠っていたのだろう。いつもきっちりと結わえられた頭髪はわずかに乱れ、寝間着の上に官服ではなく日常着の袍を羽織っていた。
鋭い視線に燕花はその場に居竦む。上から押し潰されるような威圧感は常と変わらなかった。
「……賊が、邸内に入ったと聞きました」
「問題ない。おまえは房へ戻れ」
「ですが」
言い淀みながらもその場に留まる燕花の姿に、父の眉が顰められる。
「なぜその衣裳を着ている。身支度にはまだ早いだろう」
燕花は臍を噛んだ。違和感を確信へと変えた父が詰め寄ってくる。
「房へ戻れ」
「……嫌だ。後宮には入らない」
見下ろしてくる父を睨みかえす。対峙した目の色がゆっくりと変わった。
「おまえは陛下の寵愛を賜り、我が鄭家の繁栄の礎となるのだ。それがおまえがこの世に生を受けた意味だ」
「あんたが勝手に決めるな。自分の人生の意味は自分で決める」
「相変わらず生意気な口を利く」
父親の手が燕花を捕らえようと伸びてくる。
身を捩りながら懐に隠した簪を握ると、燕花は父の腕を大きく薙ぎ払った。たしかな手応えとともに、ぱっ、と目の前に鮮血が散る。
「あんたの馬鹿げた野心に付き合っていられるか。俺はもう二度とあんたの思いどおりにはならない!」
燕花は叫び、そして女の手を引いて走り出した。「燕花!」と怒鳴りながら父が追いかけてくる。
足にまとわりつく裙子が邪魔だった。なにより、思うように足が動かない。
のどかな農村を駆けていたころは地の果てまで飛んでいけると信じていたのに、五年間邸に閉じこめられてきた燕花の足はわずかな距離で縺れ、心臓は悲鳴をあげる。通用門までのほんのわずかの距離が、燕花にとっては千里だ。必死に足を動かし、先を行く女についていっても、門は少しも近づいてこない。
あっというまに父に追いつかれた。簪を握ったままの腕を強く引かれてよろめく。背後から容赦なく締め上げられると、激痛が肩から指先へと走った。
「この親不孝者が。おのれの立場を弁えよ」
「立場なんか、っ!」
ぬるりとした手が燕花の顎を掴んだ。つん、と金臭い臭気がする。皮ふに指の先が沈み、燕花は痛みに言葉を呑んだ。
「何のために今まで育てたと思っている。おまえには膨大な金と手間を費やした。それらはすべておまえを陛下の寵妃に仕立てあげるためだ。
「ふざけ……、っ……!!」
顎の下から気道を絞められる。頭に血が溜まる感覚と、息が詰まる圧迫感。なんとか空気を確保しようと口を開けば、父はさらに手のひらに力を入れた。
彼は燕花が許しを請うのを待っているのだ。許してほしいと跪き、親不孝を詫び、後宮へ入ると自分から言い出すのを。
燕花にそのつもりはない。けれど、このままでは気を失ってしまう。
「燕!」
衝撃が父の背中を襲う。燕花の喉を絞めていた力が緩み、少し呼吸が楽になった。
それは母の友人である女の仕業だった。どこからか棒を調達してきて父を打ったのだ。いつの間に、と燕花は瞠目する。
ふたたび女が棒を振り上げる。父は燕花を足元へ投げ、すばやく女の腕を捕らえた。
たとえ相手が筆と辯のみで国を動かす文官であっても、一介の女が力で勝るはずもない。揉み合ったすえに棒は奪われてしまい、彼女は先端で腹を突かれて崩れるように地面に倒れた。
「この婢が」
風を切り、棒が倒れた女の背中を打つ。
「おばさん!」
燕花は父の腕に飛びつき、棒を奪おうと腕を伸ばした。しかし父が虫を払うように腕を振るだけで燕花はよろめき、尻もちをついてしまう。そのあいだにも身の毛がよだつような打擲の音は続く。
「やめろ! 打つな!!」
「婢が主人に逆らったのだ。当然の仕打ちだろう」
「何が当然だ、ふざけるな!!」
「燕花。房へ戻れ」
言外に持ち出された取引に、燕花はくちびるを噛んだ。あんなところへ二度と戻りたくなかった――けれど。
「燕! あたしのことはいいから逃げなさい!!」
「黙れ」
風が鳴り、棒が撓る。ひときわ強く響いた音に燕花は叫んだ。
「わかった! 戻るからやめろ!!」
「手間をかけさせおって」
父はもう一度女の背中を打つと、燕花の腕を掴み、来た道を引き返した。燕花の房ではなく邸の中心、父の寝室の方角だった。
四辺に連なる棟とそれに囲まれた院子を通りすぎる。華やかな盛装は土や血で汚れていた。項垂れた頭の上から舌を打つ音が聞こえ、燕花は拳を握りしめる。
そのとき、突然前院の方角から怒号と悲鳴の混じりあった声が上がった。ほんの一瞬、父の気がそちらへ向けられる。
その隙に燕花は新たに簪を引き抜き、父の足を狙って思いきり振り下ろした。腕の力が抜けた瞬間に縛めを振り払って走り出す。
「燕花!」
父が怒鳴りながら追ってくる。その跫音は怪我のせいで乱れている。さすがにすぐには追いつけないはずだ。
邪魔な裙子をたくしあげて、燕花は自室への道を必死に駆けた。まずは父に打たれた女の無事を確かめなければ。その後のことはそれから考えればいい。
「あっ」
丸く刳り抜かれた門の敷居に躓き、燕花は院子に肩から転がった。
心臓は胸を破らんばかりに暴れ、喉は灼けるように痛い。ゆらゆらと揺れる地面に苦労しながら、それでも震える膝を叱咤して立ちあがる。
「燕花ぁ!」
罵声に振り向く間もなく、背後から髪を掴まれる。燕花の細い身体は軽々と地面へ投げ倒された。
「この
父のつま先が腹にめりこんだ。身体の中心が破裂するような激痛と猛烈な吐き気が燕花を襲う。殴打の嵐から腹部を守るために背を丸めたものの、逆上した父にはそれさえ気に入らなかったらしく、さらに強く背中を蹴られた。
父はけっして燕花の顔を殴らない。それは見目を気にしているからだと、今ならわかる。
燕花は父親にとっても兄たちもとっても不愉快な存在だった。ことあるごとに妾の子売女の子と、非力な末子を加減もなく殴りつける。抵抗する術のない燕花はひたすら耐えるしかない。
やがて燕花の意識が薄れるころに、ようやく父の暴力も収まった。激痛に悶える燕花を見下ろしながら忌ま忌ましげに唾棄する。
「最後まで小賢しい」
ぐったりとした燕花を抱えようと、父が腕を掴んだ。
その背後に、ふと影が射す。
「おい、あんた」
ひどいだみ声だった。まるで出来の悪い寺の鐘を鳴らしたような。
横たわった燕花からは声の主は見えなかったが、背後を振り向いた父にはその姿が捉えられたのだろう。袍を着た背中に緊張が走る。
「おまえは――」
「おい、あんたがやったんか」
「この、賊が!」
父が隠し持っていた短刀を抜くのが見えた。しかし抵抗はあっけなく、顔を殴られた父はその場に倒れこみ意識を失った。
「おい、おまえ」
またあの不快なだみ声だ。ざらざらとした低い声音。聞いたこともないのに、なぜか懐かしく慕わしい。
「おい」
肩を押されて燕花は仰向けになった。月を背負う何者かの顔は、暗くて判別できない。わかるのは、邸の下男ではありえない襤褸を着ており、そしてかなりの大柄だという点だ。
男の暗い目と視線が合う。鋭くまっすぐに、遠慮なく燕花を射貫く瞳。
「……鄭燕花か」
燕花は小さく顎を引いた。男が燕花の顔をのぞきこみ、頬を撫でる。
終わりだ――と、燕花は意識を手放した。
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