おけつを愛でる

 新居のリビングの床に仰向けで寝転ぶおけつ。ベビーベッドは既に準備してあったが布団が汚れると面倒なので、後始末を考慮し、フローリングに敷いたバスタオルにビニールシート被せて作業スペースを拵えそこにおけつを横たえた。


 有り難い事に病院を出てからというもの、騒ぎも暴れもせず為すがままにされていた。元々が大人しい性格なのか、あるいは本能で父親だと認めて安堵しているのか。


 だが、刃を構えた途端におけつは喉を鳴らし身を捩ろうとする。反射的に僕はおけつの口を手で覆う。掌を震わせるくぐもった声。毛束が割れた瞬間になんとか口を塞げたが、あと少し遅れていたら叫び声を上げられていた。


 明らかに、おけつは刃先を凝視していた。そして、それが何であるのかも理解しているようだった。


 乳幼児の目は、受容体が未成熟で明暗を見分ける程度の能力しかない。光という外部からの刺激を受け、経験を通じた学習によって目と脳が最適化され次第に視力を獲得していく。


 やはりこの子は人間ではない。

 けれど、おけつの腹部を見下ろすせば、蓬々ほうほうとした体毛に紛れ、小指の先ほどの赤黒いものが垂れ下がっている。へその緒だ。医師が切った記憶はないので自力で引きちぎったのだろうが、間違いなくそれは千恵の胎盤を通し栄養を受け取っていた証だ。


 どれほど風貌が赤ん坊らしくなかろうと、僕たちの娘なのだ。


「桃」

 知らず知らず僕はおけつに呼びかけていた。緊張を取り除くように、ゆっくりと、彼女の名前を繰り返すと強張っていた肩から力が抜けて行く。口元から手を離しても、もう喚いたりはせず、僕の声に反応しては瞼を瞬かせきゃっきゃと笑い声をたてる。


 桃に話しかけながら、和毛にこげと呼ぶには太く硬い毛に鋏を入れていく。全身を蒸しタオルで拭いてあったので毛は纏まりやすい。一束二束と根元から切り落として行くにつれ露出する、弾力ある赤みがかった肌は赤ちゃんのそれだった。全身の毛を短くした後にカミソリで剃るつもりだったが、肌が負けそうで躊躇われた。


 一通り刈り揃えた所で再度全身を蒸しタオルで清める。短い毛が身体中にまばらに残っているのは無精ひげのようではあったが、多少は衛生的になった。あのまま放置しておくよりはマシだろうと納得し、最後にへその緒を消毒する。


 紙おむつを履かせた桃は、身体が軽くなったのが嬉しいのかリビングを走り回り始めた。本来の目的を忘れ無邪気に笑いながらあちこちと動き回っている。このマンションに引っ越して来てそれほど経過していないというのもあるが、千恵も僕も私物が多い訳でもなかったので、あるのは必要最低限の家具くらいだ。室内はこんまりとしている。ぶつからないように注意して見てさえいれば、物を散らかされる心配もなかった。ドアは閉めてあるし、玄関にはチェーンもかけてある。自宅にいる限り、千恵に危害は及ばない。


 これからどうすべきか。散髪しねそれらしくはなったものの、産まれたばかりで二本足で彷徨いている時点で人間ではない。


 おけつについてもっと情報を収集しなくては処置のしようもない。

 インターネットで調べてみても役に立ちそうなページは見当たらず、民間伝承となれば地元の図書館で郷土資料に当たるのが定石なのだろう。しかし、桃をほったらかして家を離れるわけにはいかないし、かといって連れて行くのも憚られる。


 実家に預けようにも、父は営農の慰安旅行で京都へ行っていた。おけつについてまだ伝えていなかったが、言えば飛んで戻ってきそうではある。だが、安産祈願のお守りを貰ってきてやると息巻いて出掛けていっただけに今報せるのは酷に思えた。せめて旅行くらいは楽しんで欲しい。


 病院に頼るというアイデアが脳裏をかすめたが、即座に打ち消す。あの人たちはダメだ。おけつの出現に慌てるなとは言わない。だが、産婦人科でさえ手に負えないという事実は僕たちの不安を煽るだけだ。狼狽えていると悟られるような態度を取るべきではなかったのだ。プロであるのなら。あの人たちにはとてもではないが信頼しておけつを任せられない。


 行動の指針が決まらないまま翌日にになり、朝、会社から着信がある。特別休暇の都合もあるので一報をと言われていたのに、おけつにかまけていて失念していた。


 通話ボタンを押し上司の話し声が聞こえて来ても、どう説明したものか考えあぐねてしまう。僕が言葉を詰まらせるので、ある程度察したのか上司は慰めの台詞をかけ、それから努めて事務的に今後の手続きの話をする。特別休暇はそのまま貰えた。


「お前も辛いだろうけど、一番辛い思いをしているのはのは奥さんだ。しっかりお前が支えてやるんだぞ」

 そう言って電話は切られた。


 いったい僕は何をしているのだろう。

 サイドボードのデジタルフォトフレームの写真の中、ウエディングドレスを纏った千恵とタキシード姿の僕が肩を並べ満面の笑みを浮かべている。


 牧師の言葉が甦る。

 健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命のある限り、真心を尽くす事を誓いますか。


 今こそ側に寄り添い手を差し伸べる時ではないか。喜びも悲しみも分かち合うと誓った。だというのに僕は……。

 病院へ戻ろう。そうだ、僕のいるべきは千恵の隣だ。

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