いとしのおけつ

十一

おけつを見る

 毛むくじゃらのおけつを見てしまった。咄嗟に目を逸らしたため、視界に入っていたのはほんの数秒だ。細部を観察する余裕などなかったが、状況を考慮するに、おけつであったのは間違いないように思われた。


 それでも信じ切れずに、嘘であってくれという一心で千恵の様子をそっと窺う。仰臥した彼女の顔は蒼白となっていた。つい先程まで、頬と言わず額にまで朱が差していたのが嘘であるかのように血の気が引いている。


 見た? と視線で問う千恵に頷き返す。軽々しく笑い飛ばせる類いの問題ではなく、茶化す気分にはなれなかったが、かといってあまり深刻になるのもよくない。機転を利かせた言葉で彼女の不安を取り除ければと必死に頭を絞っても妙案は浮かばない。


 口を開く者は室内に誰もおらず、身じろぎするのも躊躇われるほどに空気は重かった。壁紙の白さが目に痛い。


 どれほど経っただろうか。息苦しさを感じるほどの気まずい沈黙はおけつによって唐突に破られた。


 猛烈な勢いで部屋を飛び出した時とはうって変わり、遠慮がちにスライドドアを開き隙間から身体を滑り込ませる。周囲の視線を一身に浴びながらもおけつは、ひたひたと歩みを進め部屋の中央までやって来た。


 帰ってきたおけつ。それもそのはずで、ここは総合病院の産婦人科にある分娩室だ。三階建ての病院には、古い日本家屋にあるような縁の下などなく、あるのは売店と食堂の入った地下一階だ。行く当てを失い元の場所に戻ってくるしかなったのだろう。


 おけつはこの地方の妖怪だ。胎内から出るとすぐに縁の下へと駆けこみ、産褥さんじょく期の女性の真下へと潜り殺してしまうとされている。そのため、産まれたのがおけつであった際は、縁の下へと逃げこむ前に取り押さえて命を絶たなければならなかった。


 同様の妖怪の伝承は日本各地にあるようで、詳細こそ異なっていたが、人から産まれた人ならざる者で、殺してしまわなければ母体の命が危険に晒されるのは共通している。うちの地方では産怪を総じておけつと呼んでいるようで、亀に似た風体で背中に蓑毛が生えた姿で描かれる事が多いが、角のある子鬼であったり小さな蛇であったりとその見た目は話によってまちまちだった。


 千恵の胎内から這い出てたおけつは、全身が太い体毛で覆われていた。ギリースーツを身に纏った嬰児か、尨毛むくげの小猿といった印象の猩々しょうじょうじみた異形だった。


 おけつは目的を見失い当惑しているらしい。四肢をも覆い隠す長い毛に包まれ、濡れそぼった黒い毛玉と化していたが、ぎょろりとした両のまなこだけは露出しており、戸惑うように視線を彷徨わせている。


 産婦人科のスタッフもまた困り果てていた。僕たち夫婦と同年配と覚しき助産師は、面くらって呆然と立ち尽くしている。経験の豊富であろう初老の医師でさえ、難しい表情で黙したまま異様な事態に対処できずにいた。


 千恵は顔を背け嫌悪感を露わにしていたが、不思議と僕はおけつが不快ではなかった。


 分娩台は美容院や歯医者の椅子と似た構造で、昇降装置を兼ねた基部こそ邪魔にはなるが決して下に入れない訳ではない。縁の下に拘泥する必要などなく分娩台の下へ潜ればよい。いや、母体の命を脅かすだけならそれすらいらない。直接襲いかかれば足りる。


 そこまで知恵が回らずにただ狼狽えているばかりのおけつは、どこかゆるキャラのようなユーモラスさがあった。さしあたって妻の身に危険はないと判断して余裕が生まれたせいか、ひどく滑稽に感じられた。


 とはいえ、おけつが経産婦を死に至らしめる妖怪であるのは変わらない。いずれ、なりふり構わず千恵を狙ってくるかもしれないため警戒はしておく。


 この手でおけつを殺めるのも考慮しなければならなかった。最優先すべきは千恵だ。彼女が傷つく事があってはいけない。

 妻を守ると覚悟を新たにし、僕は、スタッフにおけつの監視を頼んでいったん部屋を離れた。

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