おけつを探る

 陣痛室を抜けて廊下に出た僕を認め、義両親が駆け寄って来た。


 手を取ってどうだったと訊ねる義母に、無言で首を横に振る。彼らは一様に沈んだ面持ちではあったが、存外に落胆の色は薄い。予定日よりも相当早い段階で破水が始まり病院へと急行した、そう聞いた時点で良くない結果を想定し腹を括っていたのかもしれない。同伴した夫が産声も聞こえぬ間に現れたのは予感が現実となった答え合わせだった。


「それでおけつは」

 義父の言葉で、分娩室を出たおけつを彼らも目にしていたのかと思い至る。

「今は医者に見張ってもらってます。千恵も命に別状はありません」

 彼は言葉を濁したが、ちゃんと殺したのかと続けたかったのは明らかだ。娘の安否をなによりも心配していた。


「そのおけつの事なんですけど」

 出産によって心身ともに疲弊したばかりか、おけつを目のあたりにして妻は強いショックを受けていた。本来ならば、側について心の負担を軽減してあげるのが僕の役割であるのにも関わらず、病室を抜け出してまで義両親に顔を見せたのは現状報告のためではない。


 義両親は、千恵の妹夫婦と四人で山裾の小さな集落で暮らしている。住所としては実家と同じ市だ。しかし、駅を中心に地方都市を築いている繁華街からも、大型ショッピングモールや新興住宅と現在進行形で発展中の郊外からも距離がある。開発から取り残された鄙びた農村。住民層の大半が高齢者で平成は愚か昭和の趣きさえ漂う土地柄か古い因習が廃れずに残存していた。


 義両親であれば、昔話でしかおけつを知らない僕よりも詳しいのではと推測したのだ。現に二人は、廊下を走る異形をおけつだと看破した。僕たち若い世代よりもよっぽど民間伝承に親しんでいたからこそだ。おけつを目撃したのは初めてではない線もある。


 しかし、期待とは裏腹に、義母も義父もおけつに関する知識量は僕と大差がなかった。義母が若い頃に一度噂を耳に挟んだくらいだった。


「以前にもおけつが出た事があるんですか。その後どうなりました?」

「どうって言われてもね。なにしろもう二十年近くも前だから」

 しばらく頬に手を当てて思案顔をしていた義母だったが、結局思い出せないのか最後には「ほら、あの話」と義父に振った。


「確かにおけつが出たと一時期噂になった。結婚して家を構えて何年かした時分だっただろうか。けれど、それだけだったはずだ。おけつが出たと少しばかり話題になったきりだった」


 なにぶん世間話にするには湿っぽいからなと締めくくられた。おけつか母親、ともすればその両方が死亡するはめになる。いくら近所の家庭事情も細大漏らさず把握しているような田舎であっても、そんな後味の悪い話はさすがに広まらないか。むしろタブーとなるほうが自然だ。


 実りはなかった。人より産まれし怪異、対処法は殺す事、それが全てだった。


 姿形こそ異なってはいるが、愛する妻からあのおけつが産まれたのは間違いない。可能ならば手にかけたくはなかった。


 おけつは僕たちの子供なのだ。

 千恵の膨らんだ腹部に触れ、胎内に脈動する新たな命を感じた。お腹を軽く叩けば蹴り返してくる、そのわずかなコミュニケーションに心揺さぶられた。出生前診断のエコーの陰影が伝える生命の息吹に胸を打たれた。NIPTで性別が判明してからは将来に思いを馳せては名前に頭を悩ませた。顔を拝む日をいまかいまかと待ちわびていた。


 しかし、誕生したのはおけつだった。

 遺伝的にも問題なくあの子は僕たち二人の娘だった。だとするのなら、千恵のお腹の中で何らかの事情によっておけつになったのだ。二口女ふたくちおんな寝太りねぶとり、清姫、人間の妖怪化は珍しいものではない。


 何故おけつは母体を殺そうとするのか。それがおけつという妖怪の性質だと言ってしまえばそれまでだが、胎児が妖怪となりそして母を襲うのには理由があるはずだ。


 たとえば、へその緒が巻きつき胎内で命の危機に陥る。赤子は羊水の海で死に瀕し、生きたいと願い、自分から未来を奪おうとする者を、母を呪う。生への執着と呪詛の感情エネルギーによって、一度命を絶たれかけたが妖怪として生まれ変わる。何事もなく健康に産まれられなかった恨みは親へとぶつけられる。それが母を狙うゆえんでは。


 もちろん、たとえ流産になったとしても妻のせいだと僕は責めたりしない。もし仮にそれが不幸な事故ではなく原因があったとしても、妻が悪いわけではない。責任があるとすれば、僕にもあるはずだ。夫婦なのだから、それは二人でともに背負っていくべきだ。


 けれど、子宮で幼い命を育むおけつからすれば、そうは思えず、直接的に自分を害しようとした母体へとただ怨嗟を募らせるのも仕方ないのかもしれない。


 念願叶って恨みを晴らしたおけつはどうなるのかと想像をさらに推し進める。幽霊の類いであれば成仏もするだろうが、おけつは実体を持った妖怪だ。豆腐を食べてもらいたい豆腐小僧が、相撲をとりたい河童が願いが成就したとして消えてしまうだろうか。


 ふと、幼少期に豆本の妖怪図鑑で見たけうけげんのイラストを思い出す。黒い毛玉に炯々と輝く大きな目のついた特徴的なルックス。あれは分娩室で目にしたおけつの容姿に瓜二つだった。


 けうけげんは床の下のような暗く湿った場所に住まい、その家に厄をもたらすと説明されていた。おけつが目指す縁の下は暗く湿った場所であり、経産婦の死は不幸に他ならない。これは偶然の一致だろうか。


 けうけげんはおけつの成長したものではないか。出世魚のように呼び名が変わっただけで同一の妖怪では。蝙蝠が野衾のぶすまに、野衾が山地乳やまちちにという例もある。


 この仮説が正しければ、母子両方を救える。母を殺すという目的を延々と先送りにできれば、妖怪としてではあるが僕たちの子供は生き続けられる。


 けれど、それは絶対的な解決方法ではない。推測が正しい保証もない。


 どうするのがベストなのか。やはり妻の安全を重視しておけつを始末すべきなのか。


 頭が整理できないまま悶々とした思いを抱え分娩室へと引き返す。

 怯えきった千恵、分娩台へと近づこうとするおけつ、それを押しとどめる医師。

 即座に僕は医師のいるほうへと向かい、そのままおけつを抱き上げた。

 おけつを小脇に病室を飛び出す。この子を千恵の近くに置いてはおけない。

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