ゆびきり

時雨オオカミ

「やくそく」

 夜須礼やすらい椿つばきさんおめでとうございます!

 あなたは厳選なる抽選の結果招待されました!

 以下の日時に記載のある場所へ入店し、このチケットを提示してください。開店記念のため、友人をお一人のみ招待することも可能です。


 ○月○日 神奈川県○市○○-○ ○時○分






 あなたは招待状を握りしめ、テーブルに座っている。

 周りには羊のマスコットと、喫茶店にありがちなメニューの書かれた黒板。それから草原のような淡い緑色の乗せられた内装が目に入る。

 窓の外には、まるで山の中のような景色が広がっていた。

 雑誌棚にはいくつかの動物雑誌と、それから小説のようなものが置かれている。

 「儚い――」 とあなたはそれを読み上げようとしたが他の雑誌に遮られてしまい、手に取らない限り題名を読み上げることはできないだろう。


 あなたは退屈だ。

 招待状を持っているものの、あなたの友人がまだ到着していない。

 注文も一緒にするつもりだったあなたは心底困り果てている。まるで何十年も退屈だったみたいに、招待された喫茶店のテーブルで水だけを嗜んでいた。

 相手側に置かれた水はしょんぼりとあなたを見つめているようだ。


 そうしてあなたが暇を持て余していると、ドアベルが鳴らす高い音が退屈の終わりを知らせることとなった。

 ドアを開けて入ってくる友人は、酷く泳いだ目で店内を眺めている。招待状を握ったままそれがしわしわになってしまうほどに。

 こんなに緊張する彼女を見たことがないあなたは思わず笑ってしまった。

 草原を模した店内で片手を上げ、あなたは友人の名前を呼んだ。


百子ももこ、こっちよ」


 すると彼女は肩をびくりと揺らし、あなたを探す素振りを見せた。

 ひどく怯えている様子の彼女にあなたは席から立ち上がり、探しやすいようにしている。

 店内はあなた達以外に人がいないが、あなたが座っている場所は奥の景色がよく見える席だからか、友人は戸惑っているようだった。


「えっ? あ、え…… ?」


 そして、やっとあなたを見つけると、今日何度目かの驚愕を表す。まるで幽霊でも目の前に現れたように。

 彼女はひどく狼狽してその頬を指でつねるだろう。その効果がないことは、あなたが見た通りだ。


「つ、椿…… ?」

「どうしたの、百子? あ、久し振りだものね…… 私が高校の途中で引っ越しちゃって、それ以来かな。連絡があってちょうどいいと思ったわ! ね、招待状の日時がぴったりでしょう? 今日はあなたの誕生日だもの! 料理代は私が出すから、遠慮なんていらないのよ」


 勢いよく捲し立てるあなたに彼女は困惑しているようだ。

 いきなり呼び出したのがよくなかっただろうか? と思い返すも、会うこと自体は彼女が提案してきたことだとあなたは記憶している。

 彼女が指定した空いている日のうち、一つが招待状の日時と一致していたためあなたがその日を指定したのだ。

 その日が彼女の誕生日という偶然も重なり、あなたはとても楽しみにしていたのだが、どうも彼女はそのつもりがなかったのだろうか。


「とりあえず、先に座りましょうか」

「え、ええ……」


 あなたに促されて彼女が正面の席に座る。

 彼女の前に置かれた水はもはや 「drink me」 とでも言うようにその存在感を表している。やっと自分を飲むものが現れて嬉しいのかもしれない。消費されて消える運命にあるものがそう思うかなど、分かりやしないけれど…… あなたはそんなどうでもいいことを考えて気を紛らわせた。


 彼女は椅子に座るとある程度落ち着いたように一息つき、けれど周囲を探るように見る仕草はやめようとしない。

 ここは開店初日で誰も彼もが知らない場所だろう。不味い料理が出てくるかもしれないし、全くの無知だからこそ、少し警戒しているのかもしれない。

 あなたは何度か高校生時代に食事を共に摂っているので、彼女は既知の店の方を好むと知っていた。曰く 「コーヒーが熱々の適正温度で出てこない場所は一目見て冷める。コーヒーが冷めてるだけにね」

 彼女は温度を直接目で測ることのできる特殊な人間だった。人間サーモグラフィとでも言おうか。その代わり、メガネをかけないと人の判別もつかない嫌な特殊性だ。

 あなたもそういう分類の特殊な人間であり、彼女からの猛烈なアプローチによって高校生時代を共に過ごした同類の仲間である。

 三年生の最後にもなって引っ越すことになってしまったあなたは彼女と別れを告げ、大人になるまで会うことがなかった。


 彼女と会うことのなくなったあなたは孤独となり…… そのあとは?

 医者になることを夢に頑張っていたと記憶しているだろう。


「椿……」

「ん、なにかしら? 百子」


 あなたは思考を中断してなにやら言いにくそうにする彼女を見やった。彼女は何度か言い出そうとしながらなかなかはっきりと口にはしなかった。

 あなたはこんなにもどもる彼女を初めて見る。むしろそれはあなたの役割だった、と懐かしく思いながらもあなたは黙って彼女が話すのを待った。


「えっと…… あなたと別れて、何年になるっけ?」

「なんだ、そんなこと? 顔を忘れられちゃったかと思った」

「忘れるわけ、ない…… だって、親友でしょう?」

「ええ、懐かしいわね。私が引っ越してから何年かしら。3年くらい?」


 あなたが答えると彼女は 「そう」 と言ったきり俯いた。

 手持ち無沙汰にあなたがメニュー表を広げると、そこには一ページしかなく、その上ほとんどが白紙だった。


「なによこれ……」


 あなたが文句を言いながらそのメニュー表を彼女に見せると、彼女は目を見開いてその中身を見つめた。



『アミルスタン羊のフルコース』

※ 要望を頂ければ各品でお出しいたします



 あなたは笑ってしまった。

 あるのはラム、またはジンギスカンのみ。もしくは野菜も?

 あなたは羊の種類なんて分からないが、あの独特な臭みが苦手なことは確かだ。

 あなたはどうしてここの招待を受けてしまったんだろうと後悔した。招待状にはなにも書かれていなかったので仕方ないことだが、確認していれば別の場所にしていただろう。


「ねえ、椿…… あなた大学生活は楽しくやれた? コミュ障なんだから相当苦労したんじゃない?」


 失礼な! とあなたは怒ってムッとしたが、なにも言い返せないことに絶句してしまった。人と目が合わせられないのはあなたの体質によるものだが、それがまったく改善した記憶がないのだ。


「それは…… それよ。いいのよ、ちゃんと〝 大人 〟になってここにいるのだし」

「ああ、そう…… やっぱり椿はあの頃と変わらないのね」

「子供っぽいってこと? 百子だって変わらないじゃない。特に胸とか……」


 怒られると分かって話題にしたあなただったが、その言葉に俯いて 「本当に変わってない」 と繰り返し口にする彼女に困惑した。

 てっきりデコピンの一つでももらうと思っていたのに!

 あなたは、思った反応が来ないことに焦った。


「そ、そうだ料理を注文しましょう? なぜだか店員さんも来ないみたいだし、クレームついでに注文しに行きましょう!」

「分かったわ。一緒に行きましょうか」

「え……」


 あなたは豆鉄砲を食らった鳩のように驚いた。その発想が思い浮かばなかったからだ。

 けれど、立ち上がった彼女があなたを見下ろしている。


「あれ、一緒には来ないの?」


 あなたは苦笑して立ち上がった。

 なんだか足が重い。まるでその場に繋がれているかのように。

 けれどあなたは彼女の言葉に行動で答えることにした。


「行くわ」

「そう」


 あなた達が厨房の前まで来ると、執事のような格好をした男性がそれを阻んだ。あなたの前に立っている彼女がその男性に 「注文をしたいのだけど」 と告げると、男性は事務的に答えた。


「注文をされる際は、材料をお決めになってください」

「はあ? メニュー表にはフルコースとしか書かれてなかったけど」

「あ、でも各品でも良いって書いてあったわね。部位を決めるってことかしら? フルコースなんて食べきれないでしょうし……」


 あなたが呟くと、彼女はしばらく考えて 「そうね、喫茶店でフルコースはちょっと」 と言った。

 すると、厨房を塞いでいる男性が手を横に向け、二階に行くことを勧めた。それと、小さな声で彼女に耳打ちしている姿も。


「行きましょうか、椿」

「…… ええ」


 ますます足は重たくなっていくようだ。

 あなたは少ししかない階段にも弱音を吐きそうになりながら上がりきり、彼女について歩く。


 周りには牧羊地のような柵が描かれ、棚には一目見て羊に関する書籍だと思われるものが入っている。


「あ、儚い羊たちの祝宴」


 そこには下の階にもあった本が置いてあった。

 あなたはそれを手に取ろうとしたが、軽く読める部類ではないことを認識して手を伸ばすのをやめた。

 時間を潰すにも小説を読むのは長くなってしまう。それに、店から出た後続きを読みたくなって書店に駆け込むはめになるかもしれない。

 もしくは電子書籍の購入で?

 喫茶店の雑誌は暇潰しにあるもので、あくまでメインは食事だ。あなたはそう思っている。


 それから、あなたは何気なく一番手前にあった新聞を手に取った。


「え……」


 あなたはそれを凝視しながら目で追っていく。

 それは古い新聞だったが、あなたは十分に暇を潰せたようだ。

 まるでクロスワードパズルを解くようにあなたの思考が勝手に組み上がっていく。新聞から目を上げたあなたの前に立っていたのは、彼女だった。


「どうしたの、椿?」

「い、いいえ。なんでもないわ」


 あなたはそっと彼女に見えないように新聞を棚に戻し、今度は彼女の持つ本に目をやった。

 けれど、題名を読み切る前に彼女自身がそれを背後に隠してしまう。

 少しだけ見えた表紙には、 「材料名簿」 と記されていたようだ。

別の手には 「来店者名簿」 もあるが、そちらは隠さずに見せてきた。どうやら来店者は必ず二人で来るシステムになっているらしい。


「ところで、その後ろの本は?」

「あ、あはは…… ね、ねえ椿? 大学で受けた授業の内容とか、覚えてない?あなた医者になりたがってたわよね。最近はどう? 上手く行ってる?」

「どうしてそんなことばかり訊くの? 私だってあなたのこと、訊きたいのに」


 新聞紙には、三年前のちょうど今頃、知っている高校の、知っている学年の人間が事故死したことが書かれていた。

 あなたは焦れて彼女に食ってかかるが、彼女はそれを適当にいなして笑うばかりだ。


「私はなんの面白みもない職業よ。猫探しに犬探し、はたまた人間探し……」

「それってもしかして、探偵かしら?」

「まあ、そうね。〝 これ 〟が役に立つ職業よ、一応ね」


 そう言って彼女は自分の茶色い目を指す。

 人間サーモグラフィーな彼女ならなるほど、簡単に生き物を探すことができるだろう。その専用の赤縁メガネがなければ人の顔を認識することもできない厄介な目だが、彼女は自身で将来の道を定めることができたようだ。

 あなたはそれに安心して笑った。 「そう、良かった」 と。


「あなたは、どう? 〝 死期が分かってしまうその目 〟で、助からないはずの人を助けるために医者を目指していたでしょう?」

「ええ、ええ、そうね…… けれど、やっぱり上手くいかないものよ。だって……」


 それ以上は上手く言えず、あなたは口を閉ざした。

 その人の運命を変えてみせるとまで言っていたあなたは、なにも言うことができなかった。


「そっか…… 気づけなくて、ごめんなさい」

「え? な、なんで百子が謝るの? あなたなにも悪くないじゃない。その目を使いこなしてきちんと働いてる。それって素敵なことよ」

「…… そうね、ありがとう」


 彼女は目を伏せて、あなたの頭に恐る恐る手を乗せる。

 あなたはその姿が泣いているように見えた。震える彼女の手が雑にあなたのふわふわした髪の毛をかき混ぜ、降ろされる。


「注文が…… 決まったわ」

「そう、それじゃあ下に行きましょう」


 あなたは階段を下りる彼女の後ろについて行きながら、笑顔の練習をする。口を指でいーっと広げ、目元を和らげ、袖で拭う。


 あなたは彼女に最高の笑顔を提供すると、決めた。


「注文します」


 あなた達は再び、厨房の前にやってきていた。


「注文がお決まりになったのですね」


 男性はにっこりと笑顔を浮かべたが、その後に 「当店から退店する際には、必ず料理を召し上がっていただく規則になっております」 と念を押すように言う。

 それを聞いて俯いた彼女はあなたの手を握った。

 汗をかいて、小刻みに震えている。けれど力強く。

 そして絞り出すように震えた声であなたに訊ねた。


「ねえ、椿。三年前の、今日…… あなたはなにを用意してたか、覚えてる?」

「ええ、あなたの誕生日プレゼントを。あなたが好きって言っていたブランドの腕時計よ。必ず用意するって豪語して急いでいたのを覚えているわ」


 ぎゅっと掴まれたあなたの手が痛みだす。

 まるで離れたくないとでもいうように、それは態度で如実に表されているようだ。


「結局、あなた来なかったじゃない」

「…… ごめんなさい」

「約束したでしょう?」

「………… ごめんなさい」


 あなたが眉を寄せて微笑むと、彼女はもうそれ以上見たくないとった風に首を振る。

 縋り付くように、涙を堪えるように、彼女はあなたの手を離さない。


「あれから、私は約束なんて大っ嫌い!」

「ごめんなさい、百子」


 困ったように微笑むあなたに彼女は目に涙を溜めながらそっぽを向いた。まるであなたの顔なんて二度と見たくないとでもいうように。


「ごめんなさい。あなたが注文しづらいなら、私が言うわよ? お願い、私に注文してと言って。そうしたらすぐに、終わるから」

「そんなの言うわけないじゃない!」


 吐き捨てるような彼女に、あなたは怖気づいて言葉を詰まらせた。

 男性はそんな様子を微笑ましく見守っているようだ。

 姉妹喧嘩でも見学しているような気分だろうか? そんなものを見ても楽しくないだろうに。あなたはそう思ったが、彼を無視して話を進めていく。


「ねえ、どうしたら分かってくれるの?」

「分からない! 分かりたくないわよ!」


 ヒステリックに叫ぶ彼女にあなたは困惑した。

 できれば早く彼女には退店してほしいのだ。


「あなた、分かってるの? あなたがどうなるか……」

「分かってるわ」


 本当は分かっていた。


〝 あなたは死んでいる 〟


 三年前の、今日。最悪なことに、よりにもよって彼女の誕生日にだ。


 プレゼントを買った帰り道だった。その日あなたは鏡で自身の目が真っ黒く塗り潰されているのを見た。それは、今まで見てきた死期の迫った人々と同じ現象だった。

 けれど、それでも外出した。自分なら大丈夫だと。

 しかし、その死期を変えられずにあなたは事故に遭ったのだ。


 他人の死期を知りつつ、けれどその運命を覆せるようにと医者を目指していた。その自分自身が抗えずに死んだのだ。あなたにとってはとんだ皮肉だろう。


 新聞を読んで、あなたは全てを思い出していたのだ。


 そして、この店は人間の肉を材料に料理を作る場所だ。アミルスタン羊という名称で偽り、あなたか彼女かどちらかがどちらかをフルコースにして食さねば、きっと退店することが許されないだろう。


「あの、各品でも退店はできますか?」

「はい」


 けれど、彼女は諦めなかった。

 あなたがとっくに諦めていることを。


「材料はフルコースの場合こちらで解体しますが、各品の場合はご自分で持ち寄りください」


 一本のナイフが転がり落ちる。

 どこからか降ってきたそれは、あなた達の前、その中心に現れた。まるで今からこれを使えと言うように。


「百子、やめましょう? こんな…… こんな…… 自分でなんて」

「いいわよ…… やってやるわよ……」


 彼女はあなたの話に耳を傾けない。


「いい? 椿。約束してくれるかしら。あのとき渡し損ねたプレゼントを、今度こそ渡すって」

「そんなの、無理よ…… ? だって…… 私死んでいるんだから」

「いいから! 約束して、お願い」

「あなたさっき約束が嫌いになったって」

「そんなのもういいのよ」

「…… 約束」


 あなたは握られたままの手をそっと握り返した。

 それは、肯定の合図だった。彼女は何度かあなたに確認を取ると、反対側の手でナイフを拾う。


「怖かったら、私がやるわ」

「自分でやる。大丈夫よ」


 あなた達は一旦手を離すと、そのまま小指を絡ませて笑いあった。


「指切り拳万、嘘ついたら針千本のーます!」


 あなた達は一緒に歌いながら、お互いに目を合わせる。

 最高の笑顔を見せ合うように。


「指、きーった!」


 互いに絡ませた小指を立たせ、そこにナイフを滑らす。

 不思議なことに、苦もなくその部位は切り落とされ、そして…………






××× ×××






 あなたは、沢山の喧騒の中目を覚ました。


 居眠りをしていたからか、周りの席は埋まり始めている。

 約束をしている友人の席は確保してあったが、中々な混み具合にあなたはうんざりした。

 開店初日でこれとは、きっと人気店になるに違いない。

 あなたが注文した目の前のメロンジュースを飲むと、中に沈んだサクランボがゆらゆらと揺れた。


 待ち合わせの時間はもうすぐだ。


 時計の針が待ち合わせの五分前を刺したとき、ドアベルの音が妙に高く響き渡った。

 思わず入口の方を見やったあなたは、走ってきたのか息を切らしている友人の姿を発見した。きょろきょろと辺りを見渡し、あなたを視認した彼女は信じられないものを見るように口を手で覆う。


「椿!」

「どうしたの、百子? そんなに取り乱して。そんなに私から誘うのが珍しい?」

「だ、だって今日は、あなたの命日で、それで……」

「ええ? なにを言ってるの? 今日はあなたの誕生日でしょう。それにそんな不吉なこと言わないでよ」


 あなたはとんだブラックジョークだと笑い飛ばした。

 彼女の誕生日に、あなたが死ぬ。そんなの、ただの悪夢ではないか。

 きっと今朝の夢見でも悪かったのだろう。あなたはそう結論付けて彼女を席に座るように促した。

 白昼夢を疑っている彼女はときおり頬をつねったりしているが、あなたはそんなことも関係なく注文を行う。

 注文したのはありふれた、ただのオムライスだ。


「えっと、あれ、メニューも普通…… じゃあこの、サンドイッチとコーヒーを」


 彼女も問題なく注文し終わり、あなたは笑って袋を取り出した。


「誕生日おめでとう、百子」

「………………」


 ぽかーん、と間抜けな顔で固まった彼女は黙ったままあなたの手からプレゼントを受け取り、 「開けても良い?」 と訊ねてくる。

 あなたがそれを了承すると、彼女が封を開け中身を取り出す。

 それは彼女が以前欲しがっていたブランドの腕時計だ。昔となんら趣味の変わっていない友人にあなたは最高の笑顔で 「どう?」 と訊く。


「…… ありがとう、椿」


 そのまま泣き崩れる彼女に、あなたは困り果てた。

 まさか泣くとは思っていなかったのだから。


「どど、どうしたの百子! そ、そんなに嬉しい? で、でも泣くことないじゃない!」

「あっ、ありが、と…… つばき……」


 あなたが慌てて彼女の目元を手持ちのハンカチで拭うと、彼女はまるで決壊したダムのように止まることもなく泣き続けている。

 あなたがそれを甲斐甲斐しく宥めていると、彼女は泣きながら小指のない左手を胸に抱く。

 あなたを事故から救おうと、彼女も巻き込まれて偶然か否か二人とも小指を失ってしまっていた。


 彼女はそのまま泣き笑いをして、あなたに告げる。


「あなたが生きていて、本当に良かった」

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