忘却の彼方(試し読み)

巴乃 清

ケンジ ・ 1

「小太郎、どうしたんだよ」

 おれはすっかり参っていた。

 今迄こんな事は無かった。小太郎はいつだって聞き分けが良かったし、人や他の犬に吠える事はしなかった。リードを引っ張ることもなく、おれの真横を行儀良く歩いた。

 それが今日に限って、ちっとも言うことを聞こうとしない。リードを引っぱっても、足を踏ん張って抵抗している。小太郎の小さな体ではおれの力に勝つことは出来ず、ずるずる引き摺られて砂埃が舞う。爪がガリガリ音をたてる。それでも彼は、諦めようとしない。

「どうしたんだ、行くぞ」

 声を掛けると、悲しそうな顔をする。無理矢理抱き上げようとすると、遂に吠え出した。悲鳴みたいな、必死な声だった。

 これは可笑しい。具合でも悪いのだろうか。

 おれは途方に暮れて小太郎の前に座り込んだ。小太郎は体に力を入れるのをやめておれを見上げ、くんくんと鳴いた。そして、立ち上がって少しリードを引っ張った。

「なんなんだよ、小太」

「戻ってみたらどうかな」

 思いがけず、後ろから声を掛けられて驚いた。振り返る。転校してきたばかりで、まだ名前を覚えていなかった。が、同じクラスのやつだった。確か、杉……なんだったか。

「なんだって?」

 おれは立ち上がった。彼が胸につけている名札が目に入った。六年一組 杉浦啓(はじめ)。まだ帰宅途中らしく、ランドセルを背負っていた。

「その犬。君の犬。戻りたいんだと思うよ」

「戻るってどこへ」

「どこまではわからないけど」

 彼は首を竦めた。おれがリードを持つ手を緩めると、小太郎がおれの顔を窺いながらそろそろと歩き出した。

「行こうよ」

 杉浦が言った。おれは訳もわからず、小太郎に引かれる儘に歩いた。公園まで戻ってくると、小太郎はさっきおれが座ったベンチに向かって走り出した。

「おい、小太郎」

 おれは危うく転びそうになりながら追いかけた。杉浦は、後からゆっくり歩いてくる。小太郎がベンチの前にさっきと同じように座ったので、おれもつられてさっきと同じようにベンチに座った。

「そう言えば刻み煙草買ってきてくれって、じいちゃんから頼まれてたんだ」

「へぇ」

 おれの呟きを耳にして、杉浦が相槌を打った。どことなく、満足そうに見えた。訊かれてもいなかったけれど、おれはそうした方が良い様な気がして、横に立った彼を見上げて説明した。

「おれのじいちゃん、未だに煙管を使ってるんだ。葉っぱがきれたから、散歩行ったついでに買ってきてくれって言われてたんだ。忘れてた」

「そうか。なら、早く買って帰ってあげなよ」

「あぁ。そうする」

 おれが立ち上がると、今度は小太郎も素直に立ち上がり、いつものようにおれの横にぴったりとついて歩き出した。それを見て、杉浦があっさり片手をあげた。

「じゃあ、またな」

「お、おぅ」

 あいつ、何しにここまで来たんだろう。おれは少し呆気に取られた。家がこの近くなのかどうかも知らない。でもまぁ、また月曜日訊けば良いか。

 おれは家に帰る途中、角の煙草屋に寄って帰った。

 じいちゃんが死んだのは、日曜日の朝だった。


 忌引き明けに、昇降口で杉浦に会った。彼は上履きに履き替えて、スニーカーを下駄箱に入れているところだった。おれに気がつくと彼は、ちょっと顔を顰めるようにして言った。

「この度は、ゴシュウショウサマでした」

 きょとんとしたおれに、彼は誤魔化すように

「こういうときはそう言うんだって、母さんが言ってた。……大変だったな」

 その最後の一言に、思わず涙ぐみそうになった。おれは大層な、じいちゃん子だったので。もしあの時あの儘、お使いを忘れて帰っていたなら、じいちゃんは大好きな煙草を吸えずにこの世を去っただろう。

「な。杉浦おまえさ」

「ん?」

「おまえ、犬の言葉がわかるの?」

 彼は、とても怪訝そうな顔をした。

「それとも、まさか、未来がわかるとか?」

 そこまで言うと、彼はおれの言わんとすることを理解したらしい。唇をきゅっと引き結び、少し笑うような形に曲げた。

「おれのはそういう、力ではないよ」


 他の記憶はどうか知らない。でもこの記憶は、しっかりとおれに紐付けられて、一度も落としたことがない。

 これが、おれとハジメの最初の記憶。



「茶太郎、おいで」

 おれが呼ぶと、ころころと転がるように走ってくる。豆柴。まだ一歳。下駄履きのおれの足の上もお構いなく踏んで飛びついて来る。爪が食い込んで少し痛い。

「元気一杯だな」

 苦笑いするように、啓が言った。盆に載せた湯呑みを口に運び、茶の熱さにちょっと眉を顰めて唇を舐めた。

「熱かった?」

「うまいよ」

 おれの質問を微妙にはぐらかして応え、湯呑みを盆に戻す。猫舌だけれど熱い茶を好む彼の、お眼鏡に適うお茶を用意できたことが未だに無い。もう十年を越える付き合いなのだが。今度はもう少し温めの湯で入れてみよう。

「茶太、こい」

 啓が手を出すと、茶太郎が走っていって小さな桃色の舌でぺろぺろと舐め出した。

「よしよし、可愛いな」

 捏ねくり回すように撫でられて、茶太郎が軽く唸り声を上げながら飛び回る。毛の生えた茶色いゴム毬が跳ねているように見える。そう言えば先代の小太郎のことも、こいつはよく可愛がってくれたものだったな、などと思い出す。啓は無理矢理跳ね回る茶太郎を捕まえて膝の上に乗せると、何気ない調子で

「そう言えば今朝さぁ」

 と言い出した。

「うん?」

 おれの手からブラシを取って茶太郎の毛を梳きながら、啓は続ける。

「学校へ行く道で、女の人が落としたのを見たんだ」

「うん」

「彼女が幼い頃に、集めていた小石の記憶だった。とてもきらきらしていて。其の儘置き去られていくのが可哀想に見えた」

「記憶が? その女の人が?」

 おれは注意深く訊いた。

「両方、だな」

 茶太郎の毛が顔についたのか、腕で鼻先を擦り上げながら、彼はぼそぼそと言う。

「本人にとっての大事な記憶は、本当にとても綺麗に見えるんだ。遠目にも、わかる。宝石が、落ちているような。そんな言葉じゃ違うくらい、綺麗、なんだ。だから、すごく悲しくなる。置いていかれる記憶も、なくしてしまう人も。その光景そのものが、とても切ない」

 啓が片言のように、考えながら言葉を紡いでいくのを、邪魔しないようにおれは身動(みじろ)ぎせずに聞いている。普段どちらかと言えば滔々と流れるように話す男だ。頭の回転も速くて、考えながらでも間断なく話す。こんな風にたどたどしい喋り方をするのは、少なからず心を痛めているときなのだ。言葉にするのを躊躇い、口に出すことで傷ついている。しかし、そうしないことには彼の中で整理がつかず、膨れ上がり、やがて膿んで破れてしまう。

 おれに出会うまで、啓がどうやってこの痛みと闘ってきたのか。おれは知らない。ただ吐露する場所を提供出来ているだけでも、おれは彼の友達をやれるようになって良かったと思っている。おれの存在意義がある。少なくともその一点だけでも。

「ホームレスの、人がいたんだ。いつも、いる。肌が浅黒くなっていて、側を通るだけで異臭がする。髪はどうやってか、剃りあげているんだ。どこかで拾った毛布を袈裟懸けに巻きつけていて、まるで、坊さんのように見える」

 ブラシを動かす手が止まった。茶太郎はくりくりした真っ黒な瞳で啓を見上げた。ブラッシングが終わったと思ったらしく、膝からぴょんと飛び降りる。庭の隅にさっき自分で落としておいた赤いボールを見つけて、一目散に走っていく。啓はまるでそれに気がつかないように、空になった自分の胡坐をかいた足をぼんやり見つめていた。おれは彼の手からブラシを取り上げて横に置く。湯呑みを覗いたら茶太郎の毛が入ってしまっていたので、庭の土の上にお茶を捨てた。盆に一緒に載せてある急須から注ぎなおす。ぼんやりと湯気が立ち上るが、さっきよりは冷めている。おれは黙ったまま、啓の目の前に突き出した。

「ありがとう」

 受け取って、一口含む。表情を変えずに飲み下す。

「うん。うまいな」

「そうか。良かった。……それで?」

「うん」

 湯呑みを両手で握りこんで、啓は頷いた。

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