恋の続きは図書館で
もう俺には彼女しか見えていなかった。
白馬に乗った王子様を待ち侘びる、文章の中だけの少女、櫻子。
その彼女が小説の中から飛び出して、俺の目の前にいる。
「……櫻子!」
気づけば俺は、彼女の元へ駆け寄り、声をかけていた。
ここが図書館であることも、いつもお決まりの席に向かうことも、交換小説を確認することも忘れ、ただ一心不乱に。
「え……、ひいっ――」
突然声をかけられたからだろうか、彼女をは俺の方へ振り返るやいなや、小さな悲鳴を上げた。目を大きく見開き、歯をがちがちと震わせている。感動的な邂逅、そんな様子ではまったくない。
なんだ、思っていた反応と違うな。もっとこう、頬を赤らめて、いかにも『恋する乙女です』みたいなのを期待していたのに。
「櫻子だよな。俺だ、俺。交換小説相手の、ノートに小説を書いてる、あの――」
しかし構うものか。夢にまでみた、『現実』の櫻子とこうして出会えたのだ。
俺は高まる感情を抑えきれずに、ただひたすらにまくし立てる。思ったように思考がまとまらず、途切れ途切れの単語を言い放っていった。
櫻子。ようやく会えた。
昂っている俺に、君はどんな言葉を返してくるだろうか。現実の君は、現実の俺を見て、どう思ってくれているのだろうか。
「た、助けて――」
返ってきてのは、恐怖に顔を歪ませた、命乞いにも似た言葉だった。
「ごめんなさい……、い、今はお金、あんまり持っていなくて」
「ま、待ってくれ。違う。聞いてくれ」
彼女はただひらすらに、怯えていた。図書館でよく見かけるヤンキーに絡まれてしまった、そんな風にしか見えない。
違う、俺はただ君に会いたかっただけなんだ。君も約束通り、西日の差す座席で、俺を待っていてくれたじゃないか。
彼女と会えた喜びと、彼女の態度に対する困惑が俺の中で右往左往し、思わず彼女の肩を強く掴んでしまった。
「ひいっ……!犯される……!」
「ち、違う!俺はお前、櫻子に、ただ会いたかっただけで――」
今にも泣きだしそうになってしまった彼女。このままでは痴漢か暴漢に間違えられてしまうと思い、必死に弁明していた、その時だった。
「さ、櫻子って……、誰ですか……?」
彼女の口から、そんな台詞が飛び出したのは。
「え、いや、お前だろ。……いや厳密にはお前じゃないのか。お前と俺が書いていた小説に出てくる、あの脳内お花畑女だよ」
「い、一体何のことですか。私、小説とか書きませんけど……」
ガツン、と後頭部を殴られたような気分だった。
この子は櫻子じゃないだと。いやそんなはずはない、彼女が櫻子に間違いない。現にこうして、約束の場所に来ているのだから。
「う、嘘を言うなよ。夕日の差す机で待っていてくれって、書いたじゃねえか。それを見てここに来たんだろ?」
「い、いつも使っている学習コーナーが今日は改修日で使えないから、たまたまここに来ただけです……」
嘘だ、そんなの嘘だ。
じゃあ櫻子は、白馬に乗った王子様を待ち侘びる、あの痛い女、櫻子は。
「じゃあ、一体どこに――」
「……衣笠さん。ここは図書館ですよ」
一体どこにいるんだ。
そう叫ぼうとした矢先、背後からポツリと声がした。重たい頭をなんとか働かせてゆっくりと振り返ると、静かな怒りを滲ませた受付司書の西依さんがそこにはいた。司書さんの後方では、何だ何だと利用客たちがこちらを見ている。
「……すんません」
ざわつくギャラリーを見て、俺は途端に冷静になる。ガクリとうなだれ、首を垂れ、謝罪する。あと君もね、と女子高生にも頭を下げると、彼女もペコリと頭を下げてこの場を去っていった。
あとに残されたのは、絶望に打ちひしがれている、俺だけだった。
「――――ハァ」
大きなため息をつき、ふらふらといつもの席へと向かう。
彼女は櫻子ではなかった。ではあの小説を書いているのは、少女漫画みたいな夢を見ているあの女は、いったい誰なんだ。
茫然自失の状態で席へたどり着くと、今日もあのノートは置かれていた。
いつもなら真っ先にページを捲って小説の続きを確認するのだが、そんな気にはなれない。夕日が差し込む机で俺を待っていてほしい――そう書いたものの、彼女は現れなかったのだ。断りの文が綴られているか、そもそも続きが書かれていない、そのどちらかに違いない。
「はあ……」
先ほどよりも深いため息をつき、俺は机に突っ伏す。気づけば、そのままふて寝を決め込んでしまっていた。
『閉館時刻となりました。今日もご来館、まことに――』
どんよりとした気分のまま寝落ちした俺を覚醒させたのは、閉館を告げるアナウンスであった。2時間くらいだろうか、気持ちいいほどに熟睡してしまっていた。櫻子に会う楽しみと緊張で、昨夜はよく眠れなかったからな。
視界がまだぼんやりとした中で、ふとあのノートが目に入った。
こんなことになるなら、俺を待っていてくれなんて書かなければよかった。
後悔の念に苛まされながら、何気なくノートを開き、ページを捲ってみる。
『それを聞いて私は――夕日の差す机で、彼を待つことにした』
そこには女の字が、櫻子の字が、綴られていた。
間違いない。見間違うものか。1ヶ月の間、ずっと眺めてた字だ。彼女は今日も、小説の続きを執筆していたのだ。
時と心臓が、ピタリと止まったような錯覚に陥る。
なんとか意識を我が物に取り戻し、俺は恐る恐る視線をノートから西側の座席へと移していった。
「お姉さ――西依、さん」
不愛想な表情、ピンと伸びた背筋、黒く透き通った長い髪、度がきついことが容易に想像できる眼鏡――図書館司書の西依さんが、約束の場所に座って、じっとこちらを見つめていた。
「西依さん、あ、あんたが」
「……西依、櫻子です」
いつもと変わらぬその硬い表情で、いつもとは違う震えた声で、彼女はそう言った。
「……閉館後の清掃のあと、あのノートを失くしたことに気が付いて、もう本当にパニックだったんです」
硬い表情の中にどこか陰りを見せつつ、彼女はこちらに近づきながらポツリポツリと語り始めた。
「衣笠さんがあの日、受付で笑いを堪えてたのを見て、私ピンときまして。貴方が帰ったあと、急いで貴方がよくいる席に向かったんです」
西依さんは俺の前で歩を止め、大きく肩を落とした。
「終わった――そう、思いました」
そして、頭を抱えた。
「けどノートを開いてみると、そこには貴方の文字で、小説の続きが書かれていて……。恥ずかしい気持ちとは裏腹に、すごく嬉しくなって。気づいたら小説の続きを書いて、ノートを元の場所に戻している自分がいました」
そう吐露する彼女の肩は、震えていた。
先ほどの俺と同様に、自分の感情の整理がついていないのだろう。その目からは涙がこぼれ落ち、眼鏡の淵へと滴っている。
「最初は、衣笠さんと小説のやり取りをするのが楽しかったんです。でもいつしか、仕事中も貴方を眺めている自分に気づいて……。衣笠さん見た目は怖いけど読書好きで礼儀も正しいしなあ、本を読んでる時とか小説を書いてる時の横顔が凛々しいなあ、ギャップあるなあ、って」
嗚咽交じりの彼女の声を、ただひたすらに聞いていることしかできなかった。
「で、でも衣笠さんは高校生だし、私は社会人で、地味で、可愛くなくて……。だから私は、司書の『西依』ではなくて、小説の中の『櫻子』として貴方に接しようって。そう決めてたのに……。もう気持ちが抑えきれなくなって、気づいたらあんなことをノートに書いていて――」
俺の前で小さく震える彼女が、なんだか愛おしくて仕方がなかった。
司書の『西依さん』としてでも、小説の中の『櫻子』でもなく、一人の女性・西依桜子として、彼女の気持ちになんとしてでも応えたい。いつの間にか、そう考えている自分がいた。
こんな時、男として俺は彼女にどんな台詞をかけてあげるのが正解なのだろう。
恋愛経験のない俺には、最適解が見つからない。
だから、仕方がない。
恋する乙女を落とすためにここはひとつ、恋愛百戦錬磨である『オレ様系男子』の台詞と力をお借りするとしよう。
俺は震える彼女をそっと抱きしめ、耳元でそっと呟いた。
「知ってるか櫻子、白雪姫ってのは、キスで目覚めるんだぜ」
俺たちの恋は、これからも図書館で続いていく。
恋の続きは図書館で 稀山 美波 @mareyama0730
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