うぱぁー!

@kikuchihayato

うぱぁー! 全文

 妹が汚部屋の創造主になったのはいつからだったろう?

 ヴァイオリンが弾ける、声楽のカーロ・ミオ・ベン(Caro mio ben)もなめらかに歌える、運動はダメだけど勉強なら成績優秀の妹は、小学生のときまで私室の掃除を欠かさなかった。

 これにはわけがある。よく友だちが遊びに来ていたから、見栄っ張りな妹は整理整頓を欠かさかったのだ。そういえば、カードゲームの相手になる代わりにぼくに床磨きをさせていた時期もあった。

 中学生になって外で友達と会うようになると妹は部屋を片づけなくなった。ゴミ袋がゴミ捨て場に持って行かれることはなく、お嬢様風の衣装はクローゼットの外に散らかされ、本を整理しようにも本棚は常に満杯だった。

 何より印象的だったのはダンボール箱だ。妹は使わなくなった道具をダンボール箱に押し込んで床に並べていた。何かの用事で妹の部屋に入らなければいけないときは爪先立ちで箱の間を歩かなければいけなかった。

 高校生になると、妹は学校や塾で試験勉強をするようになった。私室の机がコーヒーの空き缶で埋まって使えなかったからだ。よく学びよく散らかす妹が名門大学に入学したとき、ぼくはベートーヴェンの逸話を思い出した。まったく片づけのできなかった音楽家は歩けないほど家の中を散らかしては引っ越すをくり返していたらしい。

大学生になってしばらくの間は電車で通学していたけれど、今学期からアパートでひとり暮らしを始めた。徒歩で大学に行けるし、近くにコンビニもあって、とっても嬉しいらしい。

 引っ越しの準備を覚えている。お母さんは、数日間ずっと妹の部屋の掃除を手伝っていた。女の子のお部屋のおかたづけは女性にしか手伝えないのだ。お母さんが妹の汚部屋にこもっている間は、ぼくが料理を父さんが洗濯を担当していた。

 元汚部屋は現在、妹がいつでも帰ってこられるようお母さんが整頓している。



 紐をかけ渡せば赤とんぼの止まる秋のお昼前。

 電車から降りると、ぼくはビルの上のいわし雲に心をゆるませた。

 ここは妹の住むアパートのある城塞市(じょうさいし)都城区(みやこしろく)の西方だ。

 城塞市はぼくの自宅の北東にある市だ。東西南北に土地を広げる城塞市は、地図だと丸い花びらを開く花のように見える。

 ぼくの自宅(妹にとっての実家)は南と西のはなびらの間にあって、そこから電車で北東に行けば中央の都城区に着ける。

 ビル街らしからぬ秋風が涼しい。早くも開花を迎えた金木犀の甘い香りに心惹かれてしまいそうだ。ちなみにぼくが着ているのは長袖の白シャツと青のスラックスだ。

 白いシャツの胸ポケットに手を当てて、中にある金の合鍵を確かめたら、お父さんの言葉を思い出した。

 一週間前のことだ。

「ちょっといいかい? 来週、あの子の部屋に行ってきてほしいんだ。お父さんはあの子が部屋を借りるときに見に行ったんだけどね、オシャレなアパートなんだ。洋風の木造のお屋敷でね。

で、お父さん、あの子がゴミをためてアパートの床を腐らせる夢を観てね。でも、父さんは飲み会……いや、友だちに会いに行くから、代わりに見てきてほしんだ。ごまかしが効かないよう不意打ちでね。これが合鍵だから。

あの子と会ったら、お寿司屋さんに案内してもらうといいよ。おいしい立ち食い回転寿司屋さんを見つけたみたいだから」

 手さげ鞄に入れていた水筒のお水を飲んでから、ぼくは事前に作っておいた地図を取り出して、ビルとビルの間に入った。なんとなく汚い印象を都会には持っていたけれど、タバコの吸い殻は捨てられていないし異臭も漂っていない。時間帯が良かったせいか、人ごみと出くわすこともなかった。

 お父さんの心配は空振りに終わるかもしれない。不思議なぐらいきれいな街に住んでいれば掃除も楽しくなるだろうから。

 それにしても不意打ちか……。あとで怒られなきゃいいんだけれど。



 妹の住んでいるアパートは大通りから離れたところにあった。

 おしゃれな洋館だ。どこからおしゃれかというと、名前からおしゃれだ。

 イル・トロヴァドーレ(Il trovatore)。イタリア語で吟遊詩人。

 アパートの周辺には赤レンガが敷かれている。ちょっと端が白く欠けているのがむしろ趣きがあっていい。

 赤レンガの道の先に、白い木造の洋館が建っていた。両開きの扉の前にデッキチェアの置かれているポーチがあって、さらに手前の花壇ではピンクのコスモスが咲いていた。

 バリアフリーの坂道のついた階段を上って玄関をくぐって、受付にいたお姉さんに身元を明かした。金髪碧眼そばかすありのお姉さんが美しくて挙動不審になってしまったぼくに、お姉さんはしっかりとした日本語で挨拶と説明をしてくれた。

 お姉さんによると、妹は外出しているらしい。お散歩をなされるときの服装でしたと言っていた。不意打ちコース確定だ。

 合鍵を預かっていますとお姉さんに伝えて、ぼくはアパートの奥へ通してもらった。

 妹の部屋は二階南西にあるそうだった。ぼくは夏の風を通したくなる素朴な木の建築にうっとりしながらぼくは廊下を歩いて、妹の部屋のドアをノックをした。

 返事はない。外出しているようだ。

 金の鍵で開錠すると、ぼくはドアノブを掴んで目を閉じた。

 思い出すべきは汚臭だ。ほこり、脂、燃せるごみ袋につっこまれたコンビニ弁当箱の臭い。かつて実家に存在していた汚部屋の臭い。

襲いかかってくるかもしれない汚臭への覚悟を決めて、ぼくはドアを開いた。

 そこは広い洋風のお部屋だった。

 フローリングの上にほこりがない。

 正面のキッチンは銀色に輝いている。

 強張っていたぼくの鼻を可憐な香りが和らげる。お風呂上がりの妹が漂わせるオレンジの香りだ。

 浮かび上がってきた歓びのままぼくは笑顔で部屋に入ると、手提げかばんを下ろしてその場で回ってみた。ダンボール箱に足がぶつかることも、ゴミ袋を蹴ってしまうこともない。

 きれいだ。

「ありえない……」

 お父さん、あなたの一人娘はやりましたよ、と快哉を叫んでいいはずだ。

 でも、なぜだろう? 背筋がざわめいている。

 ぼくは手さげ鞄を置いたままキッチンに向かった。

 キッチンの隅にかわいらしい桜色の炊飯器が置かれている。妹が引っ越しをする直前に、家族でお金を出し合ってプレゼントした炊飯器だ。実家のごはんが好きな妹は、三月に一回、お母さんからお米を届けられているはずだった。

 炊飯器の中には焚かれた白米が入っていた。

 炊飯器の蓋を閉めて、ぼくはコンロと流しに指をすべらせる。表面はなめらかだ。油汚れもせっけん汚れもない。

 それがおかしい。このキッチンのきれいさは、まめに掃除をした結果ではなくて、そもそも使ったことがないからこそのものだ。

 お皿がない。コンビニのおにぎりの包みも、フライパンや包丁もない。スポンジと洗剤はあるけれど、乾いてしまっている。

 そして。

「ゴミ箱がない」

 キッチンの南側にある引き戸は開かれていて、その先はリビングだった。大きな木のテーブルと小さな木の椅子。テーブルの上にはパソコンが置かれていた。ここで勉強や読書やインターネットをしているのだろう。

 コーヒーの空き缶はない。

 ゴミ箱もやっぱりない。

 南と西にあるフランス窓にはアパートから贈られたものなのかもしれない白いカーテンがつけられている。

 なんとなく妹の監視を受けているような気がして、ぼくは窓の前を避けながら、リビングの東にあったドアの前に立つ。

 このドアの先は寝室なのだろう。寝室とシャワールームを覗く気はなかったけれど、ここにゴミをためこんでいる可能性もある。

 なかなかノブを握られなくて目を下ろすと、伸ばした手が震えていた。ただ妹の部屋に入るだけなのに。

「ごめんね」

 ドアを開いた。

 中には奥の壁に沿うようにベッドが置かれていた。これもアパートからいただいたのかもしれない白いシーツに、見覚えのあるかけ蒲団がかけられている。実家にいたときから使っていたお蒲団だ。

 ベッドの端に、平べったいクリーム色のくまのぬいぐるみが座っていた。

 妹が大切にしている、くまのにじゅーだ。小学校高学年だった妹が夏のお祭りの屋台で20番のくじを引いて当てたから、にじゅーなのだ。

「おひさしぶり」

 にじゅーの顔色は実家にいたころより明るく見えた。きれいなお部屋の空気がおいしいのだろう。

 寝室もきれいで、ベッドの下を覗いてみてもゴミ箱は見当たらなかった。

 にじゅーのプラスチックの黒目が、寝室の北側に視線を送ったような気がした。

 振り向けば、隅に大きなクローゼットがあった。扉の縁に彫刻されているぶどうの紋様がおしゃれだ。アパートの備えつけの家具なのだろう。

 クローゼットの隣に小さな机があった。机の上には理科の実験で使うような五徳が置かれていて、その上に小さな神棚が祀られていた。千木と鰹木のある神明造。お札を収める扉はひとつだけ。砂壁や障子のない洋風の部屋で、神棚は幽雅に時を過ごしているようだった。

 ぼくと妹の実家には神棚と仏壇があるけれど、妹がお祈りをすることはなかった。城塞市には神社が多いらしいから、興味を持ったのかもしれない。

 神棚を祀る五徳の前に小さなダンボール箱があった。蓋は閉じられてはいるけれど、テープで止められているわけではないみたいだ。

 ぼくの鼻の先が動いた。

 ダンボール箱の中から臭いがする。

 あの汚部屋の臭いが。

 ぼくは神棚に礼をして、ダンボール箱へ手を伸ばした。

 やめて、と声が聴こえた気がした。かわいらしいソプラノと厳かなアルト。くまのにじゅーと妹が祀っている神様の声だったのかもしれない。

 でも、ぼくは蓋を開いてしまっていた。



 汚臭が強まった。

 瘴気とも呼べる臭いに涙が出た。

 なんとなく座りこまない方が良い気がして踏んばる。

 まぶたをこじ開けると、ゴミが見えた。

 コンビニのお弁当の容器を詰めこまれた城塞市の燃せるごみの袋。

 一回しか開かれることのなかったのだろうビニール傘の束。

 実家に帰ってきたとき妹がずっと着ているパーカー。もちろん畳まれていない。

妹ぐらいの年齢の女の子を対象にしたファッション雑誌。表紙は秋のキャミワンピース。

 炊飯器と同じ桜色のバランスボールは、炊飯器と違って数回だけしか使われなかったのだろう、十分に空気が入れられて球の形を保っている。

 ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ。

 ゴミだ。

 ゴミが続いている。

 ゴミの空間。

 汚空間(おくうかん)。

 汚臭を忘れるよう頭を振って、辺りを見渡す。

 頭上は灰色で占め尽くされている。濃淡がないから雲でも天井でもなさそうだ。

 前方にはまるで最低限の秩序を死守するようにピンクの旗が二本立てられていた。

 踵を下げるとシューズの踵が何か軽いものと触れ合った。見下ろせば、蓋を閉められたダンボール箱があった。寝室にあったのと同じ小さなダンボール箱だ。

 このダンボール箱が汚空間の出入口なのだろうか? 

 ダンボール箱の蓋を開けたから、ぼくは汚空間に入ったのだろうか?

 とすると、妹は掃除を覚えたわけではない。汚空間にゴミをためこんでいただけなのだ。

 おお、お父さん……あなたの娘は汚空間の創造主になってしまいました。

 ダンボール箱を開くため、振り返ってしゃがもうとする。

 すると後方にピンクの旗が二本立てられているのが見えた。距離は最初に見えた前方の二本の旗と同じぐらいで、四本の旗を線で結べば正方形が作れそうだった。

 もしかして、この汚空間には限界があるのかな? ひたすらゴミの野が続いているように見えて、実は同じ空間が隣り合っているだけ? 正方形の端から出れば反対側に出られるかな?

 右斜め前のピンクの旗の下に見覚えのあるものが見えた。

 ハードカバーの本――スプーンおばさん。小さいころ、妹がご近所に住む初老の婦人から借りたまま汚部屋に埋もれさせてしまった本だ。

 今さらかもしれないけれど、あの本ばかりは返させなければいけない気がする。

鼻から息を吸ってみる。汚臭は苦しいけれど嗅細胞を破壊するようなものではないらしく痛みはない。

 スプーンおばさんを拾うべく、ぼくはピンクの旗へ足を踏み出した。

 心の中で妹に謝りつつ、散らかされた妹の私物を踏んでいく。ゴミが何の上に乗っているのかはわからないけれど、どうやら足場はしっかりしているらしい。

 ぼくはゴミの沼がないことを祈った。ターザンが出てくる映画で底なし沼に沈んでいった悪役のようにゴミに埋もれたくはない。ぼくはきれい好きなのだ。

虫はいない。キノコも生えていない。生き物はぼくとぼくの体内の細菌だけみたいだ。

 呼吸が荒くなる前にぼくはスプーンおばさんの前にたどり着けた。

 幸運にも汚れていない本を拾い上げる。

 するとスプーンおばさんの後ろに小さなダンボール箱があることに気づいた。

 このダンボール箱もどこかに通じているのだろうか?

 この汚空間以上の汚空間を妹は創り上げてしまったのだろうか?

 ぼくが他人なら、ダンボール箱を開ける理由はない。スプーンおばさんを持ったまま引き返して、初めのダンボールを開けて外に出ればいい。

 けれども、ぼくは妹のお兄ちゃんで、妹が汚部屋を築いていないか調べに来たのだ。

 ぼくは目を閉じて、口で深呼吸をした。

 紛失してしまう可能性があったから、スプーンおばさんはダンボール箱の隣に置くことにした。あとまわしにしてごめんなさい。すぐ戻ってきますから。

 まぶたを閉めて鼻をつまむと、ぼくはダンボール箱を開いた。



 熱がぼくを取り巻いた。お風呂以上サウナ未満の熱さだ。

 ゆっくりまぶたを開くと、辺りは薄暗かった。鼻から息を吸っても汚臭はやってこない。

 かすかに波打つ淡い翠色の壁が四方に立っている。まるで掘り出したばかりの翡翠に囲まれているみたいだ。ちなみに妹はパステルカラーならほとんど好きだ。トーンにこだわるタイプらしい。

 四方の壁と異なり、翠の天井と床は平らかだった。おそるおそる触れてみると温かくて気持ちいい。

 なるべく熱を吸いこまないよう口を手で覆って呼吸をする。

 窓がないせいか狭苦しいけど、この空間の広さは先ほどの汚空間と等しいみたいだった。明かりらしきものはないのに辺りを見渡せられるのが不思議だ。ゴミをためるように外の熱をためられるのかもしれない。

 斜め前にベンチがあるのが見えて、ぼくは後方も確認した。同じ形の木のベンチが壁の前にあって、ベンチの真ん中に小さなダンボール箱が置かれている。この空間の出入口だ。

 あのゴミの野を歩かねば脱出できないけれど、迷子にならないことにぼくはほっとした。スプーンおばさんを忘れないようにしなければ。

 斜め前のベンチにもダンボール箱が置いてあって、隣にはブラウンのバスタオルと水色のクーラーボックスがあった。これは異空間への出入口ではないような気がしてクーラーボックスを開くと、冷えたミネラルウォーターのペットボトルが数本入っていた。

 まだ汗ばんでないけど、一応、一本だけいただいておこう。次の空間がどんなところだかわからないから。

 ペットボトルの蓋が未開封なのを確かめてから、ぼくはベンチの上のダンボール箱の蓋を開いた。



 イル・トロヴァドーレが靴を履いたまま上がる場所だったことに感謝した。靴底の下から砂の鳴き声が聞こえたからだ。

 見渡す限り、白い砂浜が広がっていた。さっきの空間より少しだけ涼しい。七月初めの暑さだ。風が吹けばリゾートでくつろいでいる気持ちになれるのだろうけれど、涼風もお日様もヤドカニもいない。

 水はどうだろう? オアシスは?

 反対側を向いてピンクの旗と足下のダンボール箱を確認したら、水滴を落とすペットボトル片手に歩き始める。砂を踏むたびに鳴禽のさえずりが聞こえる。微小な貝がらが含まれているのだろう。

 午前2時の星空のようにきらめく砂浜を鑑賞しているうちに、前方に大きなくぼみが見えてきた。きよらかな水を注げばオアシスになりそうだけど、中はからっぽだった。

 くぼみの向こう側の縁に、ピンクの旗が二本立っている。

 出入口のダンボール箱の周辺には何もなかったはず。

 だとすれば、この空間にダンボール箱はない。

 行き止まり?

 そもそも、どうしてここは砂浜なんだろう? このくぼみは何? さっきの異空間は?

 確かめる方法がひとつある。

 妹に尋ねればいい。

 ぼくが思い出したのは寝室に祀られていた神棚だった。

 この異空間を開く力は、妹が城塞市の神様から引き出されたものなのかもしれない。

 もし……ぼくの祈りが届くなら…………。

 ぼくはくぼみの前で両膝を着いた。さらさらとした白い砂が温かい。スラックスはたいして汚れないだろう。

 ペットボトルを手放して、手を合わせて、目を閉じて、お祈りする。

 神様。妹の力をお引き出しになられてくださったのかもしれない、神様。

 まずは勝手にここまで立ち入ってしまったことをお詫びいたします。ごめんなさい。

 どうか妹に会わせてください。部屋は片づけませんし、せっかく開けるようになった空間のひとつをゴミで埋め尽くしてしまいましたし、年中なっとうを食べていますし、キューピー人形のようなスタイルですし、アルバイトをしている塾では高校生たちに『背伸びしてお姉ちゃんのスーツを着ちゃった中学生の女の子みたいでかわいい』と言われているようですが、頭の良さを鼻にかけないかわいらしい妹なんです。

 おねがいいたします。



「お兄ちゃん」



 振り向けば小柄な女の子がいた。お顔がまるくて、色白の肌があったかそうで、小さな唇が桃色で、キューピー人形のようなスタイルにオレンジの香り漂わせる、愛らしい女の子。

 ぼくの妹だ。

 受付のお姉さんの予想どおり、本日は散歩に出ていたらしい。波立つブラウンの髪を梳かしてあるだけで化粧はしておらず、室内着らしい長袖のパーカーとジーンズを着て、足には白いソックスに簡素なサンダルを履いている。パーカーは赤い地に黄色いハイビスカスの模様だった。そういえばお友だちと野外フェスティバルに行ったって、メールが入ったことがあった。そのとき買ったグッズかな?

「どうやって入ったの?」

「ダンボール箱から」

「そうじゃなくって、アパートの部屋」

「ああ」ぼくはシャツの胸ポケットから鍵を取り出して。「お父さんから合鍵を預かったんだ。部屋が崩れる悪夢を観たんだって」

「パパか……」

 妹は目を閉じて、うーんとうなった。うなるという言葉を使うのがためらわれるほど高くてほそくてかわいらしいうなりだった。

「いつの間に、こんなことできるようになったの?」

「城塞市で暮らしてたらできるようになったの。不思議なことの多い市みたい」

「箱の中に異空間を拓く特殊能力(ちから)?」

「そんな感じ」

 軽く両手を上げて嬉しそうに言う妹の足元にダンボール箱があった。たぶん、ぼくの知らない異空間につながっているのだろう。

「生き物が入ったらわかるように設定してあるから、お兄ちゃんが入ってきたとき、ピーンと来ちゃったの。お水を取りに行ったあとでよかったよ」

「最初のは汚空間だとして、次の空間は? あの熱くて暗いの」

「汚空間…………。二番目のは岩盤浴だよ。バスタオル置いてあったでしょ? あの異空間のダンボール箱はいつもバスルームに置いてあるけど、ここにお水を入れるのに失敗してもアパートのお部屋が水びたしにならないように、今日は空間を入れ子にしておいたの」

「マトリョーシカみたいに?」

「そう」

「なるほど」

 …………ちょっと待って。

「お水?」

「うん。ここ、あたしがリラックスできるオアシスにしようかなって」

 妹がのびをする。この空間にお日様はいないけれど、妹の頭上には水色の空が広がっている。どう創造しているのかはわからないけれど、少なくとも、きよらかな空を思い描ける心の持ち主ではあるということなのだろう。

「やっぱりオアシスだったんだ」

「砂漠にたくさんお水を入れたらオアシスみたいになるかなって」

「じゃあ、そのダンボール」

「うん」

 妹が足元のダンボールを持ち上げた。

「中にね、外で取ってきたお水がいっぱい――――」

 ダンボール箱の底が破れた。

「あ」

「あ」

 破れた底の端からテープが垂れ下がっている。蓋を塞ぐと封印できるのだろう。でも、ずっと汚部屋に放置していたテープは傷んでいるものだ。

 水が溢れ出る。

 水が押し寄せる。

 重い。冷たい。流される。

 ぼくは叫んでいた。

「うぱぁー!」



 気がつくと、ぼくはずぶぬれで妹の寝室に倒れていた。

 同じように濡れていた妹は、ぼくを起こすとシャワーを浴びて着がえた。ダークブラウンのカーディガン、襟につけられたイミテーションの真珠の麗しい黒シャツ、白のロングスカート、コルク製のサンダル、赤いフレームの伊達眼鏡をかけて白いハンドバッグを持つその姿は知性的で、とても汚空間の創造主には見えない。

妹からブルーのジャージを差し出されると、ぼくも温かいお湯を浴びて着がえた。下着はなかったけれど、自失していたぼくはそのままジャージを着た。

シャワールームを出て濡れたシューズを履いたあと、妹に手を引かれるままにぼくはお昼の駅前の立ち食い回転寿司屋さんに入った。

「あっ、お兄ちゃん、たまご来たよ」

 たまごのお皿が流れてくる。ぼくの大好物、覚えてくれていたんだ。

 気が抜けてうまく動けないぼくの代わりに妹がたまごのお皿を取って、同時に納豆巻(なっとうまき)のお皿を取った。妹の好物はたしか大トロと納豆巻と茶碗蒸しで、本日の茶わん蒸しはもう食べられている。

「まぁまぁ、食べなよ。今日はわたしのおごりだから。あっ、でも、お兄ちゃんは絵皿を食べたらおなかこわすよ」

「…………このジャージ」

「ん?」

「ぼくより、ひとまわりサイズ大きい」

「彼氏のだからね。……あっ」

 妹は桃色の唇に立てた人差し指を添えて。

「パパママにはヒミツね」

「うん……人にヒミツありだね」

「そうだねー。あっ、鳴門金時パンナコッタだって、おいしそう!」

 妹の笑顔を見届けてから、ぼくはたまごをいただいた。



 スプーンおばさんは、後日、ぼくが初老の婦人に返却した。

                            結

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