野島刃物店
孝一は包丁が好きでよく合羽橋を訪れる。
この日も柳包丁が見たくて来た。とても、今の小遣いでは買えないが、見るだけで心が踊る瞬間が好きだ。
さて、とある包丁屋を通りすぎたとき、異質な雰囲気に出会った。包丁屋をそっと見つめる内地帰りだろうか、一人の青年が写真でしか見たことがない軍服姿でいた。
気づかぬ振りをして通りすぎようとしたが、気になって声をかけてしまった。相手の声は聞こえないので雰囲気だけだが、どうやら中国で亡くなってしまったらしい。
女房と子供を残していったのが心残りでいつか復興後のこの店を見つけて、それ以来こうして見守ってるらしい。これからどうするのかと心で訪ねたが、どうやらもう少ししたら消えてなくなるらしい。訪ねるとお嫁さんはまだご健在らしい。
そっと考え、ふとただいまを言ったらどうかと提案してみた。もちろん、そんな弱い体では直ぐに消えてしまうかもしれないし、相手が気付くのかも怪しい。それならこのままそっと消えるまで見ていたいかとも思ったのだ。
するとその青年≪野島壮介≫は…名札で分かった名前だが、野島青年は体を貸してくれと願ってきた。分からなくてもいい、スグに消えてもいい、ただ『ただいま』が言いたいと…
俺も二つ返事でオーケーした。ただ、どの位で消えてしまうか分からない。それほど彼の体は薄れていた。だから俺がお嫁さん、お嫁さんを呼んで貰ってから乗り移ると言う手段をとった。
二人(?)して店に入る。初老の男性が元気な声で『いらっしゃい!』と声をかけてきた。
『すみません、はつえさんを呼んできて貰えますか?』そう告げると、『どちら様で?』『なんのご用で?』と矢継ぎ早に質問された。
『知り合いから渡したいものがあって。直接渡したいので、呼んで貰えますか?』そう告げると旦那さんは奥に向かって『おーい、ばーちゃんを呼んでこい!』と大きな声で叫んだ。
いよいよだ。今だと言わすがな壮介さんは入ってきた。とても懐かしい感覚に襲われた。懐かしくて恋しくて、それでいて悲しい。こんな雰囲気だった。壮介さんはこんな思いで帰ってきたのか、そう感じた。
やがて2階から腰の曲がったおばあちゃんが出てきて『どなた?』の声を聞くと壮介さんは直立不動、最敬礼をして、『野島壮介、ただ今戻りました!』と真っ直ぐに彼女を見据えてこう言った。
はつえさんは直ぐに理解したらしい。あっという間に目に涙をいっぱい浮かべて『お帰りなさい。お待ちもうしておりました。』と俺を、いや壮介さんを抱きしめた。
『ただいま、大分待たせたのぅ』そう言うと壮介さんは俺の体からスッと出ていった。もう寿命だったのに無理したのだろう。それでも、最愛の家族にただいまを言えたなら良かったのだと思う。
俺は疲れはててその場に経たりこんでしまった。もともと、憑依させるときの疲労感はハンパない。はつえさんはそんな俺をいつまでも抱き締めていた。
ふと正気に戻った孝一は、未だ寄り添っているはつえさんに『旦那さんは逝かれました。』とだけ言った。
はつえさんは『はい、見送りさせていただきました。ありがとうございました。この日のために生きてきましたから。』そう言うとニッコリと微笑みかけてくれた。
孝一がふらつく。人の魂を憑依させるのは体に大きな負担を強いる行為だ。
『すみません、少しこのまま休ませてください。』孝一が言うと初枝さんの息子さんが肩を抱いて土間に座らせてくれた。まるで狐につままれたような顔をしている。
『あなたのお父さんが帰ってきましたよ』と言うと息子さんはワンワン泣き出した。驚いてはつえさんとなだめるのに苦労したのは笑い話だ。
はつえさんはしみじみ話してくれた。戦争中苦労したこと、空襲で家が全焼したこと、お義父さんお義母さんと一からまたお店を始めたこと、子供を一生懸命育て上げたこと…
よく見れば息子さんは壮介さんによく似ていた。
お煎餅とお茶を戴いてすっかり長居してしまい帰ろうとすると、息子さんが店からン万とする柳包丁を持ってきてくれた。驚いて辞退してもどうしてもと言う。それなら、僕にはまだ勿体無いから初心者用の安い物を下さいと言った。息子さんは腕が上がったら良いのを渡すからいつでも来なよと言ってくれて握手した。はつえさんともまた会う約束をしてその場を去り家路についた。
そのはつえさんの訃報を聞いたのはそれから2週間の後だった。それはとても満足そうなお顔だったという。
角原孝一の幽霊事件簿 たぁ @tktaachan
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