嫌われ彼女は走り回る

松本まつすけ

異世界転生してきました

 疲弊していた。うんざりするような感情に苛まれ、無気力が体を取り巻いていた。

 ボロアパートの二階に上るのも億劫なくらい。いっそ、最近戸締まりに難のある玄関を開けることさえも面倒に感じてしまうほどだ。

「ただいま」

 誰がいるわけでもない、闇に向かって呟く。埃とカビの臭いにまみれたマイホームに出迎えられて靴を脱ぐ。ああ、なんで日本という国の文化では家に上がるときに土足じゃないのだろうか。

 壁をまさぐり、スイッチを入れる。

 依然として部屋は暗い。まあ待て、慌てることはない。

 ギシギシと軋む床を、穴が空かないように移動し、シンクへと向かう。そういえば普通の人は洗面所などという顔を洗う専用の水場を持っているらしいな。なんて贅沢な暮らしをしているんだか。

 蛇口を捻る。出るのが遅い。大丈夫だ、水道料金なら今月は払ってあるはずだから、不安になる必要などない。

 ちょぼぼぼぼ。まるで残尿感に悩まされる俺のような弱々しいソレを手で掬う。冷たい。心まで冷やされてしまいそうだ。

 ばしゃばしゃと何回くらいやったか。目を開ければ部屋はやや明るくなっていた。ああ、そろそろ電球も替えなきゃダメなのか。

 ふと、シンクの隅に目をやる。三角コーナーの片隅に何か落ちている。

 確か生ゴミは捨てたはずだったが、そのときにこぼしてしまったのだろうか。

 よく見てみれば妙に黒くて小さい。腐った何かの塊かと思えば違う。

 こいつはアレだ。俺からしてみればゴミであることには間違いないだろうが、いわゆる害虫。黒くて足の速いアイツだ。しかも大分死にかけている。

 まだかろうじて生きているようだったが、ほとんどミイラと変わらない。

 残念だったな。餌も何もなくて。

 シンクに残った水を頼りにここまでやってきたのだろうが、あいにくとこの家にはお前の餌などないのだよ。俺にとっての餌もだがな。

 触覚をちょいと抓む。あ~あ、こんなにひからびてしまって。

 最期の情けだ。水くらい、たんとくれてやろう。

 相変わらずのちょぼちょぼ具合だが、ちっぽけな虫けらにはタライをひっくり返したかのような豪雨だ。存分に味わうがよい。

 ティッシュにくるんでポイしてもよかったのだが、空っぽのゴミ箱に放り込むのは何だか気が引けてきた。短期であったとしても、死骸単体のワンルームマンションを提供してやるつもりなど毛頭無い。

 窓から丁重に投げ捨ててやった。一体今の一連の行動にどんな意味があったのか、正直なところ自分でもよく分からない。疲れすぎて頭も狂っていたのだろう。

 改めて手を洗い直し、万年床と化した我が城へとその身を投じる。

 大丈夫だ。ゴミは捨ててあるからキレイなものだ。何せ生命力の高い生命体がミイラ寸前にまで追い詰められる砂漠のような部屋なのだから。

 この部屋が砂漠ならば、さしずめそこはオアシスか。体が溶けるように布団に張り付く。毛布を体に巻き付けるようにして、精神は夢という名の異世界へと旅だった。


 ※ ※ ※


 雀の声が聞こえた。カーテンのない窓から日差しが飛び込んでくる。

 ふとコン、コン、コンとノックの音が聞こえるような気がする。結構さっきからずっと鳴っていたような気配だ。まずいな、大家か。

 家賃は先月までの分しか支払ってなかったしな。いや、待てよ。昨日払ったんだからもうしばらくは待ってくれるはずじゃないのか。

 なら、誰だ。こんな休日の朝にわざわざこんなかび臭い部屋を好き好んで訪れようとするものは。

 まさか親はないだろう。大体今何時だ。始発の電車でも無理な距離だ。わざわざ前日に近場で宿泊してくることもあるまい。

 候補は誰もいないんじゃないか。ああ、何かの勧誘か。朝からご苦労なことだ。

 このままふて寝してしまってもよかったが、相手をしてやろう。

 玄関を開けた瞬間に顔をしかめる様を見届けてやる。せいぜい金と地位のために粘って営業するんだな。

 ギギギ、がちゃり。チェーンも錆びて落ちた扉を開く。

 その扉の先にいたのは、想定外にも若い女だった。カラスの濡れ場色とでも言えばいいのか、妙に色つやのいい髪をして、高級感のある黒いスーツを身に纏った、上品さをそのまま体現したかのようなお嬢様だ。

 しかしそれじゃまるで喪服じゃないか。この女は営業を何か勘違いしてるのか。

「おはようございます。朝早くから申し訳ありません」

 教科書を脳髄に刻み込んだかのような、逆にロボットじみてぎこちない丁寧すぎる所作で会釈をもらった。本格的に新人くさいフレーバーが漂ってくる。

 見たところ、手ぶらのようだし、その身一つでこんな安くてボロくて不安を覚えるようなアポートに飛び込んできたのか。勇気があるのか、無謀なのか。

「一体、何のようだ」

「あなたに会いたかった……」

 いきなり涙を目にためたかと思えば、女は俺の胸に飛び込んできた。しかも妙に機敏な動きで。

「おわっ!? お、おい、なんだよ。ちょ、ちょっと!」

 俺の制止など耳も貸さず、抱きついてきやがる。

 分かった。これは新手の詐欺だ。こうやってあたかも片想いの女性を装って、男を骨抜きにして金をせびるやつだ。なんて汚い女だ。

「ここにくるまで……、本当に長かった……」

 感極まった演技のところすまないが、その手には乗らないぞ。貴様の薄汚れた本心などとっくにお見通しなのだからな。

「あんた一体、なんなんだよ」

 肩を掴んで突っ返す。めちゃくちゃ軽い。

 睨み付けてるつもりなのだが、涙目ながらもニコニコとしている。不気味な女だ。

「すみません……、急に押しかけてしまって。自己紹介もまだなのに」

 シュンとしぼんだように肩を落とす。

 一体どんな設定を持ってきたんだ。俺から金を奪っていくシナリオがどんなものなのか、期待がないわけでもない。

 生き別れの妹か、昔の学校で転校していった幼なじみか、はたまたストーカー設定で通してくるか。最近の詐欺は巧妙だからな。ちょっとした劇場気分を楽しませてもらおうか。

「私はあなたに命を救われたゴキブリです」

 途中まで、ほうほう、と思ったが、なんだ最後の変な設定は。喧嘩売ってるのか。

 怒りが込み上げてきて、無言のまま玄関の扉に手を掛けた。

「あ、本当なんです。あなたの時間では昨日の出来事かもしれませんが――」

 思い切り閉めた。挟まった感触もなかったからきっと身を引いたのだろう。

「私はあれから異世界に転生して、人間に生まれ変わったのです」

 あれ? なんで背後から声が聞こえるんだ?

 扉があまりに薄すぎてここまでもクリアに聞こえてしまうものなのか。

「あのとき、あなたに恵みの水をもらえてなければ、転生することもありませんでした。慈悲を与えられたため、女神様から転生の権利をいただいたのです。だからこそ、私はあなたに恩返しがしたくて、世界を救ってきたのです」

 振り向くと、その存在感のある黒い女が立っていた。

 思わず、玄関の扉にすがるように飛び退いてしまった。

「私はただ一人の女性として、この世界に戻ることができました。どうやら私のいた世界とは時間の流れが大きく異なるためか、こちらでは一晩しか経っていないようですが……」

「いやいやいや、いやいやいやいやいや! な、なんなんだよ、あんた一体!?」

 俺は扉を思いっきり閉めたはずだ。なんでそれが背後に回っている。

 どんな超スピードだっていうんだ。これじゃまるでゴキブリみたいじゃないか。

 そして、なんだ、その意味の分からない三分で考えました的ないい加減な設定は。

 人をおちょくってるとしか思えない。そんな話をホイホイと信じてもらえるほどお人好しか、あるいは低脳と思われているのだとしたら遺憾の意を表明する。

「あ、家宅侵入。不法侵入。お前、勝手に家に入ったな。警察、警察だ。通報してやるからな」

「ま、待ってください! 私は本当のことを言っているのです。信じられないかもしれませんが」

 どんな手品を使ったか知らないが、もう向こうは犯罪者だ。相手が女性だから状況証拠的にこちらが不利になる可能性は高いかもしれないが、知るものか。

 俺は何もやっていない。無罪を主張して勝ち取ってやる。弁護士雇う金があるかどうか怪しいところだが、逆に金をふんだくれば多分どうにかなるはず。

 さあ、警察呼んで突き出そう。

 そう思ったのだが、スマホが出てこない。ポケットに入れてたはずなのだが。何処かで落としたか? まずいな、仕事用に支給された奴だから紛失すると面倒だぞ。

「あのー……すみません?」

 申し訳なさそうに声を書ける、その女の手に、俺のスマホが握られていた。

 ま、まさか、こいつ、何処かで俺のスマホを拾って?

 そうか、そうだよな。スマホなら個人情報なんて探り放題だもんな。なるほどなるほど、そういう手法できたか。

 しかし、これはまずい。この家には固定電話がない。あのスマホがないことには警察への通報手段がない。

 寝起きでまだ少し頭がふらふらするが、大家に……は借りを作ると怖いから止めておいて、公衆電話に飛び込むか。アパートの横にボロいのがあったはず。

 よし、この作戦で行こう。

 玄関の扉に手を掛け、靴を履く間も惜しみ、飛び出した。

 が、目の前に誰かが立っていて、行く手を阻まれる。

 俺以外に住民などいないはずなのに。そう思ってよく見ると、黒い女だった。

 あれ? この女はたった今、俺の後ろに……。

 振り返ると、女がいない。

 すごい、とんでもないマジシャンじゃないか。これで稼げるだろ。

 なんて手の込んだ詐欺なんだ。最近の詐欺は進歩していると聞いていたが、まさかここまでやってくるなんて。無駄な努力の結晶だな。真面目に汗水流して働きやがれってんだ。

「混乱させてしまいましたね。そうですよね……急ですものね。私とあなたは初対面なのですから……」

 しょんぼりとした仕草を見せる。かわいらしい。あどけない。なんて男殺しの仕草なんだ。騙されてたまるものか。騙されたりなどするものか。

 この隙に、と思ったが無理だ。通路が狭すぎる。

 押し倒せばいけるかもしれないが、いや待て。

 もしその場面を何処かで録画されていたらどうする?

 そんな可能性はあるか? ある、あるぞ。

 もう分かった。こいつの正体は分かった。

 筋金入りの詐欺だ。俺が押し倒したところを映像に残して、証拠として叩きつけてそれで金をふんだくるという算段だ。恐ろしい。二重三重の罠を仕掛けてくるとは。

 手品を見せつけたのも、俺を錯乱させるための前準備か。

 なるほど、なるほどな。やってくれる。

「信じてもらえないとは思っていました。だってあなたにとっては昨日の話。突然こんなことを言われても、頭のおかしい女ですよね……」

 どうする。どうしたらいい。この状況を打開するには……。

「仕方ありません。あまり魔法は使わない方がいいのですが――」

 突如、女の体が発光する。

 今度は何だ。またえらく大がかりな仕掛けを持ってきやがって。

 そんな金かけても俺にはそのタネを買う金も持ってないというのに。

 眩い光がかき消えていく。その先にあの黒い女の姿はなかった。

 いなくなったのかと思えば、違った。

 床。

 そこに何かいた。

 それを認識するのには時間を要した。

 黒い。

 アレ。アレがいる。

 だが、大きさが。スケールが、違う。

 人間大の、アレが、通路を阻んでいた。

 触覚も動いている。羽もテカテカしている。

 間違いなく、アレとしか形容しようのない存在。

 ま、まさか、作り物だろ?

 そう、思った矢先に、ソレは動いた。


 カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ。


 廊下を、壁を、天井を、黒い巨体が走る。

 物理法則という観念が、概念が、今このとき消失してしまったかのように、ありえない速度。現実のものとは思えない。

 どうして目の前にこのような光景があるのか。

 それはそれはあまりにも名状しがたい、おぞましい光景だった。

 俺は、本能的になのか何なのか。思考が機能をなくした。

 なんでなのか、どうしてなのか、分からないし、分かるまでもなく、その理解に至る前に気を失っていた。

「これで信じてもらえましたか?」

 誰かが何かを言っていたような気もするが、それが俺の耳に届くことはなかった。

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