夜の山が呼んでいる




 久義が目を覚ました時、視界には気だるげな中年男性がいた。

 吉田はパイプ椅子に座り、煙草を咥えて本を読んでいた。何だか胡散臭げなオカルト雑誌である。


「吉田さん」


 喉を通り抜けた声は、見事に掠れていた。寝起きの人間が出す不明瞭な音。どうやら長く眠っていたようだ。

 吉田は雑誌からこちらに視線を移し「やあ」と呟いた。


「気が付いたようだね」


 力を入れて、上体を起こす。痛みはない。怪我は負っていないようだ。

 周りを見れば、吉田医院の狭い病室であった。先日、自爆した大悟を運び込んだ場所だ。それにしても硬いベッドである。箱内病院のものと比べれば寝心地は雲泥の差だ。


 箱内病院。


(そうだ、俺は匡に話を聞きに行って)


 雨の中、匡の病室に行った。吉田から伝えられた真実を確認するためにだ。

 そして尋ねた。箱内家は呪殺を生業にする術士集団なのか、否か。

 

 結果、匡は全てを認めたのだった。


 だが、途中から記憶がない。

 どうして、自分は吉田医院に寝ているのだろう。


「俺……どうして、ここに」


「昏睡状態の君を、日々木さんが運んできたのさ。いつぞやとは逆のパターンだね。宣戦布告と共に盗聴器が破壊されたんで、私が派遣したんだよ。あのままだと、君が一生あそこから出られなさそうだったんでね」


 盗聴器。

 そうだ、盗聴器を持って彼女に会いに行った。

 吉田に持たせられたのだ。万が一のことがあったら、すぐに助けに行けるようにと。

 まさか、一度久義を半殺しにした日々木が、救出の役目を担うとは思わなかったが。


「ちなみに今は、あれから二日目の夜。時間は0時。君は長い時間ここで眠ってたんだ。それで、私の看病の甲斐もあり目覚めたという訳さ」


 吉田は煙草をふかしつつ、また雑誌に視線を戻した。

 とても看病しているスタイルではないが、しかしこんな時間帯まで寝ずに傍にいてくれたのだ。


「……ありがとうございます」


「ん」


 感謝を伝えれば、吉田は少しだけ右手を上げた。そんな彼から目を逸らし、ぼんやりと天井を見る。


 ずっと、自分は昏睡状態だったのか。一体、何が起こったんだろう。

 そこで、ようやく久義は思い出した。

 匡に後ろから抱きしめられていた時、靴にルーズリーフ製の白い箱が触れていたことを。

 あの箱だ。あの箱に、ゆっくりと五感を抜かれるようにして、気を失ったのだ。

 それ以降のことは、日々木が助けてくれたことも含め、全く思い出せない。


 何となく、嫌な夢を見ていたことは、記憶している。


 ぼんやりと、丑の刻参りをする夢だったことは覚えている。だが、それ以上のことはあやふやであった。

 とても怖いものが出てきたような気がするのだが。


 否、そんなことはどうでもいい。

 久義は日々木と匡が気になった。


「あの、すく……日々木さんは、無事ですか」


「君を助け出す中で、手酷く匡さんにやられたようだね。事前に黒枝さんが渡してた薬を噛んで、辛うじて動けるぐらいに回復はしたが、それでも体力の限界だったらしい。この病院に辿り着いてから、バタンキューだ。ほら、この通り」


 視線を移すと、隣のベッドが膨らんでいることに気付いた。顔が出ていないので分からなかったが、どうやら日々木が包まっているらしい。毛布が微かに上下し、呼吸を感じさせる。


「中々の重体でね。目に見える範囲だけでも、指が2本腐り落ちてた。鼻骨も粉砕。臓器系も深いダメージを負ってて、今夜が山って感じだったよ。まあここに辿り着いてすぐ、黒枝さんの懸命な処置を受けたおかげで、今は容態が安定しているがね」


 そこで吉田は紫煙を吐き、続けた。


「ちなみに、匡さんは無傷らしい。惨敗だったと、日々木さんは息も絶え絶えに言ってたよ」


 久義はほっと溜息をつき、慌てて口を覆った。匡は日々木の敵で、吉田医院の敵だ。ここで彼女の無事を喜ぶのは不適切だ。

 しかし、当の吉田は久義を咎めることもなく、ピコピコと煙草を唇で揺らしながら、雑誌を捲っていた。

 聞こえなかったのか。

 聞こえたけど、それでも許したのか。


 何だか、申し訳なくなった。

 久義は俯きがちに、言った。


「……すみませんでした。俺……匡のこと、止められなかった」


 箱内病院に戻る前に、吉田から指示を出されていた。

 箱内匡を説得してくれないかと。

 もしも彼女が、箱内家の他の術士と同じように、他者を惨たらしく呪殺する道を歩もうとしているならば、そこから引き戻してくれないかと。


 詳しいことは言えないが、そうすれば匡を排除せずに済む。


 久義はその時点で、吉田の言葉の全てを信じていた訳ではない。

 匡含む箱内家が、呪殺に手を染めているなど、考えたくなかった。

 それでも、もしも匡がその事実を認めるならば、どうにかして止めようと思った。


 だが、結果として何もできなかった。


 匡は箱内家の術理を久義に教えた。

『箱の中には悪いものが溜まる』という理屈を染みつかせるため、我が子の前で愛猫を呪殺するような教育をしていると、包み隠さず伝えてきた。

 その説明から滲む箱内の凄惨さは、そのまま彼女の背負うものの重さを表しているようだった。


 自分は、こんなことをする家の跡取りとして育てられてきた。

 そして、その在り方を変えることはできない。

 そんな自分を、久義は受け入れてくれないのか。




 久義は、僕が手を汚していたら離れていっちゃう?


 僕は丑の刻参りを許したのに。




 匡の言葉が何度もフラッシュバックする。

 それは理屈、久義の心の奥に巣食う狂気をつつく言葉であった。

 自分は既に、この親友を丑の刻参りという形で裏切っている。

 ここで彼女を受け入れられなければ、再び裏切ることになるのではないか。


 無論、頭では分かっている。それでも止めることが、友として成すべきことだったと。匡を本当に大切に思うならば、それでも受け入れられないとはっきり拒絶するべきだったと。

 だが、負い目が再び彼を鈍らせた。


 そして何も正しいことを成せないまま、意識を奪われたのである。


「まあ、そこまで気負う必要はないさ」


 しかし、吉田はいつものように気だるげに言った。


「長い間術士として暮らしていた彼女と、昨日今日でこの世界を知った君とじゃ、価値観が違いすぎる。いくら伊国くんと匡さんが唯一無二の幼馴染だからって、その年月が全てを解決する訳じゃない。むしろ、長い付き合いの中で生まれたしがらみが邪魔することもあるだろう。……君の場合は、罪悪感かな」


 久義は何も答えない。

 だが吉田は、もうすべて理解しているようだった。

 きっと、盗聴器越しに聞いた二人の会話から、推測したのだろう。


 伊国久義は丑の刻参りをした。

 それが彼にとって、とても深い罪悪感を残した。

 だから、幼馴染との長い付き合いの中で、贖罪の意識を育ててきた。

 箱内匡はその事実を知っていた。

 だから、そこを突いた

 そうすれば久義は自分に逆らえないと、分かった上で突いたのだ。


「でも、収穫はあった」


 彼は雑誌から目を離し、久義に視線を向けた。

 ブラウンの疲れた瞳が、電灯で淡く光っている。


「今回のことで、君と匡さんとの距離感が何となくだけど掴めてきた。少なくとも、普通の幼馴染と比べればどこか歪だ」


「歪……ですか」


「普通の幼馴染は、相手を昏睡させて監禁したりしないからね」


 何でもないように吉田は言った。

 監禁という言葉が、頭の中で反復する。

 そうか、匡は自分を閉じ込めたかったのか。そんなことを思う。

 しかし、何のために。

 久義には分からなかった。分からないまま、吉田の次の言葉を聞いた。


「とにもかくにも、匡さんの君への執着は目を見張るものがある。そこを利用すれば、まだ彼女を傷付けずに懐柔する手段があるかもしれない」


「それは……どういう」


 吉田は煙草を口から放し、ふわりと白雲のような煙を吐く。電灯でぼんやりと光り、ゆっくり消えていった。


「言葉を選ばなければ、人質作戦みたいなもんだ。久義くんを返して欲しければ、お母様と相談してこちらの派閥に入りなさい、とか」


「匡が……箱内家じゃなくて、吉田医院に所属するってことですか?」


「そうだよ。まあ、スカウトみたいなもんさ。いや、これはひょっとすると名案かもしれないな。『当初の目的』よりも多くの利益がある。なんせ箱内の秘蔵っ子が、戦力として加入してくれるんだから」


 嘘か本気か分からないような、気だるげな口調で煙交じりに言う。

 久義は吉田の真意を図りかねたが、とりあえず疑問に思ったことを聞いた。


「……でも、匡が……そんなこと、しますかね。そんな……箱内家から、抜けるような真似」


 あの少女は、箱内家で育った。

 術士の世界をほとんど知らない自分でもわかる。

 彼女が身を置く箱内家は強大だ。

 そんな箱内家の跡取りである匡には、その重責に見合った様々なしがらみがあるはずなのだと。

 

「条件さえ揃えばやるんじゃないかな」


 しかし、吉田はこれまた何でもないように言った。


「例えば抜けるんじゃなくて、一時的に修行目的で所属するとかさ。こちらの派閥で3年活動したら、伊国くんと一緒にお返しするみたいな。で、預かってる間に私や君が口八丁手八丁で説得するんだ。呪殺なんて馬鹿なことは止めて、人助けに専念しなさいとね」


 確かに、箱内家の術は他者に害をなすだけのものではない。人から悪いものを吸い取り、癒すこともできる。

 匡を説得すれば、後者の使い方だけをさせることも可能なのだろうか。

 もしもそうなら、嬉しかった。少なくとも、彼女に呪殺なんてしてほしくはない。


 だが、そんなに上手くいくのだろうか。

 箱内家の500年は、その中で培われた邪悪の歴史は、彼女の意志1つで変えられるほど軽いのだろうか。


 久義の不安を感じ取ったのだろう。吉田はこう続けた。


「そりゃあ、匡さんの背負うものは大きいだろうがね。だが、それでも彼女の天秤はこちらに傾くだろう。少なくとも……彼女が絶対に譲れない条件は、こちらにあるようだし」


 絶対に譲れない条件。

 いくら頭の回転の鈍い久義でも分かる。

 匡の譲れないものは、恐らく自分のことだ。術を使い病室に閉じ込めまでした、幼馴染のことだ。

 だが、なんのために。何が目的だ。その執着は、どこから来るのだ。

 謎であった。


 それに、仮に匡が吉田医院へと入ってきたとして。


「……危険じゃないですか」


 久義は言った。


「……箱内家って、恐ろしいところなんですよね。そんな集団が……自分たちの跡取り娘を、手放しますかね。……吉田さんへの報復とかも、あるような気が」


「自分のかかりつけ医を心配する性根には感心だが、それについて君が考える必要はないさ」


 吉田は再び煙草を口に咥えた。


「一応、私は箱内家の現当主と顔見知りなんだ。話ができないこともないこともないこともない。いざとなれば、私の非術士殺法でコテンパンにやっつけてやるさ」


 これ以上なく嘘くさいことを言ってから、彼は久義を見た。


「まあ、安心しなさい。伊国くんはただ……ここにいればいい」


 それはつまり、吉田医院にいるだけでいいということか。

 本当に、それだけか。

 思わず、久義は尋ねた。


「吉田さん。俺……他に何かやるべきことは」


「ないよ。箱内の人間に誘拐されないよう、気を付けてくれ。それ以外はダラダラしててよし。食事も私が用意しよう。これでも独り身が長いんでね、料理はお手の物さ」


 そして、彼は雑誌を椅子の上に置き、ゆっくりと立ち上がった。


「ま、とりあえずは今夜の晩ご飯を用意しよう。伊国くんは図体が大きいからね。沢山食べないとやっていけないだろう」


「……いや、大丈夫です。あまり……腹、減ってなくて」


「ああ、そう。……じゃあ、明日の朝ごはんを楽しみにしていなさい」


 病室の薄い扉が開かれ、吉田はその向こうに消えた。そして、閉まる直前で顔だけ出して、言った。


「それから。もしも外に出たい時は、護衛を付けなさい。私と黒枝さんは忙しいから、日々木さんに頼むように」


「……分かりました」


「ん。じゃ、おやすみ」


「……おやすみなさい」


 久義が答えると、今度こそ吉田は引っ込んだ。

 そして、彼は隣ですうすうと寝息を立てる毛布を見た。

 

 外に出る時は、日々木を伴わなければならない。


 吉田の言葉を反芻する。


(そもそも、外に出るべきではないよな)


 そうすることで、匡が本当に吉田医院の仲間になってくれるのならば。間違っても、箱内の人間に誘拐されるようなことをすべきではない。

 

 しかし、と思う。

 

(でも中にいたからって、襲われたらどうしようもないよな)


 むしろ、外に出て他の場所に身を隠していたほうが、安全なのではないか。

 少なくとも、匡は吉田と久義のつながりを知っている。自分がここに隠れているということも、容易に推測される気がする。


 じゃあ、どこに逃げよう。


 自宅か。否、そこもすぐにばれる。何より、父母に迷惑をかけたくない。匡のことだから、きっと自分の両親である彼らを傷付けることはしないだろうが、それでも万が一がないとも限らない。

 友人の家という訳にもいかない。そもそも、久義が家を知っている友達は匡ぐらいだ。大悟は独り暮らしをしているということ以外、どこに住んでいるのか知らない。仮に知っていたとしても、どんな危険があるかも分からないことに巻き込みたくない。


 では、どこへ。


 誰にも迷惑をかけず、簡単には見つからないような場所。なおかつ、自分が熟知している場所。

 

(例えば、あの山)




 丑の刻参りの山。




「……言い訳だよな、こんなの」


 本当は分かっている。

 自分がどうして、あの山に逃げようとしているのか。

 論理ではない。誘拐の危険性を減らすため云々ではない。


 体が、熱くなっている。


 時計を見る。1時を回っている。


 丑の刻だ。


(俺があの時、山に行ってれば、こんなことにならなかったのかな)


 日々木との戦闘後、匡の病室に泊まった夜。

 幼馴染に呼び止められた、丑の刻。


 本来ならば、あの日も山に行くつもりだった。


 この十四年間、欠かさずに行っていたように。


 久義の中で、丑の刻は特別な意味を持っている。

 それは罪の時間であり――。


 贖罪の時間。


「……我央、か」


 久義はゆっくりと立ち上がる。

 息をひそめて、隣を見る。日々木はまだ、眠っている。毛布は規則正しく、彼女の寝息で膨らみ、萎んでいる。


 ざりざりと、指の腹を擦る。

 白く罅割れた腕に、意識を落とす。


「……煤けるなぁ」


 どろりと凝った溜息を吐き、彼は静かに病室を出た。


 今にも噴き出しそうな、赤黒い炎を内に秘めて。

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抉じ開ける彼我 腸感冒 @shimogoe

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