そして、絶望が残った
日々木の小指が、音もなく壊れた。
掌でゆっくりと包み、開いた時にはひどく鬱血し、今にも腐り落ちそうであった。
壊した張本人である匡は、楽しそうに笑った。
「どう? 痛い? 指って神経いっぱい詰まってるみたいだし、生きながら破壊されたら滅茶苦茶辛いと思ったんだけど、どうかな?」
日々木は答えない。血生臭い荒い息を漏らし、低い呻き声を上げている。
まだ意識は途絶えていないようだ。
それが、匡には嬉しかった。
この女には、苦しみ抜いて死んでもらわねばならない。
「でもさ、君ってやばいよね」
匡が微笑を湛えながら、眉を浅く八の字にした。やれやれと、呆れたような表情だ。
その表情で、まだ綺麗な薬指に手をかける。
「いくら相手がおっかない術士の家系の跡取りだからってさ、その友達を傷付けたりするかなあ。指を切り落としたり、鼻骨折ったり、頸動脈切ったりするかなあ。清く正しく戦えなんて言わないけどさ、でも限度があるよね。そんなことも分かんないぐらい、育ち悪いの?」
どろりと、匡の手から赤黒い汁が漏れた。日々木の薬指が壊死して蕩け、破けて腐った血が漏れたのだ。
「ぐ、むぅ……」
掠れた呼吸とも声ともつかない音が、日々木の喉から漏れる。表情は分からない。まるで顔ごと全身を臍の中に隠すように、体を丸めているのだ。
だが、全身に浮いた粘つく汗から、彼女を焼く苦痛の深度が伺えた。
「ま、君のご両親がどんな残虐ファイトを君に伝授したかは知らないけどさ。その結果がこれじゃあ、切ないよね。君が頑張って与えた傷も、ほらこの通り」
匡の言葉に応じるように、ベッドの下から白い箱が転がり出た。それは小鳥か人魂のようにふわりと浮くと、今もまだ血の滲む肩の傷にピトリと触れた。
「【
彼女の呟きと共に、箱が震えた。あるかないかの、僅かな振動だ。その立方体に触れて数秒も経たぬうちに、匡の傷は嘘のように消えていった。
まるで箱の中に、負傷したという事象そのものが吸い込まれていくようだった。
「ほら、あっという間に全回復。さっきの君の治癒の術……【
血に濡れた穴が消え、破れたパジャマだけが残る。あれだけの戦闘を行ったのに、彼女の身体には僅かな傷も残らなかった。全身から嫌な臭いのする血液を漏らす日々木とは、大違いだ。
その事実が愉快だったので、匡はクスクスと笑った。
クスクスと笑ってから、突然日々木の薬指を千切り取った。
壊死した神経の束と骨髄と皮膚の分かれる音が重なり、ぶつんという嫌な響きになった。鋭い痛みが走ったようで、ウェーブがかった栗色の髪がビクン! と跳ねる。
赤黒い糸を引く指の欠片をゴミ箱に放ると、匡は日々木の髪を掴んで無理やり起こした。
まだ僅かな闘志を滲ませこそすれ、焦点の合ってない彼女の目が、匡の洞穴のような瞳孔を映す。
「今、もしかして気絶しようとした? 君から滲む希宇が薄まってたけど」
匡は床に転がっている透明な三角を指で弾きながら言った。
術士は基本的に、意識がなければ術を発動できない。
術が存在し続ける事実こそ、日々木がまだ気絶していない証左だった。
気絶されては、困る。
「駄目だよ、まだ久義の分も返してないのに。あと中指と人差し指と親指を腐らせて、鼻を削いで頸動脈を爛れさせて詰まらせないと」
口元だけで笑いながら、匡は日々木の顔を床に叩きつけた。1度だけでなく、何度も。骨の砕ける音が段々と肉の潰れる音に変わり、赤い血が点々と散る。
「これはオプションね。君と久義とじゃ価値に差があるから、追加で沢山苦しんでもらわないとつり合い取れないんだ。あ、でもそうか。頭を強く打ったら、痛みを感じづらくなっちゃうか。しまったなー、僕自分でこういうことするの初めてでさー」
困ったような表情を浮かべながら、匡は日々木の薬指の断面をほじくり返した。爪にヌメヌメした血が纏わりついて不快だったが、日々木の身体が苦痛で震えるのを見るのは楽しかった。
この少女には、出来る限り苦しんで死んでもらう必要があった。
久義を傷付けたことに対する復讐だけではない。
彼女を死を以て、箱内病院に巣食う希宇を強化するためだ。
希宇。人の思いを現実に滲ませる力場のことを、匡はそう呼んでいる。
生きとし生ける者の多くが持っている希宇であるが、それは人体にのみ宿るものではない。
否、正確には人体にのみ留まるものではないのだ。
人は死ねば、希宇を遺す。
思いを現実に滲ませる力場が、まるまる残留するのである。
希宇は大体の場合、持主とつながりの強い空間に引かれ、そこに定着する。
宗教的な意味での聖地と呼ばれる場所は、だから芳醇かつ偏りのある信者たちの希宇で満ちている。
例えば、キリスト教の論理構造をバックボーンにした術士が、救世主聖誕の地であるベツヘレムで術を行使した場合、土地に染みた希宇が効果を後押ししてくれるのだ。
逆もまた然りで、この土地において仏教由来の術式を構築しようとしても、普段より手間がかかったり微弱なものになってしまう。
全ては遺志のみぞ知る。
聖地は神の御心ではなく、人の妄念が作るのである。
だが、そんな個々人の意志に左右される希宇の残留を、第三者が思い通りに操る方法が存在する。
非業の死である。
今までの人生で培ってきたあらゆる思いを塗りつぶすような、特大の苦痛を与えるのだ。
そうすることで、つながりの強い土地は丸ごと希宇の行き先から吹き飛び、かわりに苦痛を与えられた現場へと意識が縛り付けられてしまうのである。
その際、術を使って惨殺できれば、さらに都合がいい。殺される側の希宇に、術の強力さが染みつくからだ。経験は理論と同じぐらい、希宇に影響を与える。そして、痛みの伴う経験のほうが残りやすい。
そうして出来上がった希宇は、殺す側の術士の我央をよく滲ませてくれる。
己の術のみを利する聖地の完成である。
匡は今から、この聖地作りの手法を実践するつもりであった。
己の術で日々木の希宇を蹂躙し、この病室含む箱内病院にへばりつかせて、未来永劫使い潰してやるつもりであった。
自分と久義が暮らす箱に、役に立つとはいえ敵の残滓がこびりつくのは、あまり良い気持ちがしなかったが。
「じゃ、出来るだけ頑張ってよ日々木さん。でも、あまり断末魔は上げないでね。久義が起きちゃうから」
意識を背後の幼馴染に割く。術で眠らせているため、ちょっとやそっとで覚醒することはないだろうが、万が一にもこの惨状を見られたくはない。
「取りあえず、腎臓あたりに【
笑みを浮かべながら、匡が日々木の背中に手を添えようとした。
ピクン。
「えっ?」
ぞわりと、匡の産毛が逆立ち、冷や汗が滲む。
視界の端で、ある物が動いたからだ。
ベッドに横たわる目覚めないはずの久義。
その指が、大きく震えたのである。
まるで、夢から戻ってくる寸前のように。
(まだ、術は解いてないのに!?)
匡は思わず、そちらに意識を向けてしまった。
彼にこの状況を見られるわけにはいかない。
まだ彼は、術士を知って日が浅いのだ。口では「いつまでも一緒にいる」と言ってくれたが、その直後に生きながら腐る日々木を見たら、動揺してしまうかもしれない。
それでもし、自分たちの関係に亀裂が入りでもしたら。
それまでの思考を、匡は1秒の半分にも満たない時間で終えた。
大丈夫だ。もし見られたら、すぐに記憶を除いてあげればいい。
そんなことより、目の前の少女に集中しなければならない。
そして、気付いた。
日々木から、希宇が消えている。
(死んだ?)
4分の1秒で思う。
惨殺できなかったか。
希宇を礎に混ぜられなかったか。
刹那を分割したような僅かな思考が、泡のように弾けては消える。
それは、動揺であった。
同時に、油断でもあった。
それと同時に。
満身創痍であるはずの日々木が、ぐらりと起き上がっていた。
「は?」
なぜ立てる。
希宇の切れた状態で、治癒の術も使えない状態で、全身を腐らせながらどうして立てる。
死んだのではなかったのか。
しかし、立ち上がった日々木は確かに、目に光を宿していて。
その口が開いた。前歯のあたりに、黒い粉末が付いていて。
まるで、錠剤を噛み砕いた後のような。
「吉田医院には、良い薬剤師がいるんですよ」
言い切るよりも先に、日々木は左手を振っていた。
透明ではない銀の光。
それは匡を狙わなかった。
刃は空気を切り裂いて。
眠る久義の頸動脈に、深々と突き刺さった。
「あ」
匡はその瞬間、頭の中から一切の計算が掻き消えた。
目の前に日々木歌子が立つことも、自分が一瞬で彼女を殺せることも、忘却していた。
1秒も経てば、思い出すようなことだった。
しかし彼女は、その半分も待つことなく、久義の首から刃を抜いた。
血が噴き出るよりも先に【贄】を施した。
そして、久義の生命の危機は須臾も経たずに消え去った。
そんな彼の体を、日々木が割れた窓へと蹴飛ばした。
「言ったでしょう。貴女の幸福な日常を奪いに来たと」
その声が匡に届いた時、日々木と久義の身体は、病室の外へと落ちていた。
「待っ――」
待て。
叫びが喉から迸るより先に、匡は窓に駆け寄り下を見た。
血まみれの日々木はどんな術を使ったのか、無事に着地していた。
両腕に久義を抱いたままで。
肉体強化を使ったのか、日々木は彼を保持した状態で、夕闇の町に凄まじい速度で駆けていった。
そんな彼女を見て、匡がすぐに追いかけられなかったのは、安堵のせいだ。
久義の頭が地面にぶつかり、ザクロのように割れなかったことへの安堵。
彼はまだ、生きている。
「と、取り戻しに行かないと……!」
匡はすぐに、窓から飛び降りようとした。彼女もまた、ここから地面に無事に着地する手段を持っていた。
「待って、匡」
どくん、と心臓が嫌な脈打ち方をした。
背後から聞こえた声。
嫌な声。怖い声。
聞きなれた声。
病室の扉が開いた。
「お母さんが、代わりに行ってあげる」
箱内立方が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
背にかかる長いポニーテールが、絞首台の縄のように、緩慢に揺れていた。
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