透明な箱
傷は浅くない。
極彩色の硝子の群れは、肉を穿ち骨にまで達しているようだ。
普通の人間ならば、どう処置をしても助からないであろう重傷だ。
しかし、日々木歌子は術士である。
この巨大な右腕は、あらゆる機能を持っている。
それを引き出す、あらゆる造形を。
ここでは『円』を。
(円形。丸。不変。それから、それから)
頭の中で理屈を練る。
ジオメトリーモチーフに限らず、古今東西の円に対するイメージを反芻する。その中でも、役に立つ意味を掬い上げる。
それは例えば、『無欠』。
綻びも歪みも欠損もない、一から十まで今まで通りの形。
その在り方を、自らの肉体に重ね合わせる。
抉れた肉、裂けた骨、ありとあらゆる足りない箇所が、閉じるようにして埋まっていく。
「へえ。器用だねえ、君は。強化、魔除けの次は、治癒と来たもんだ。きっと、他にも色んな術を持ってるんだろう」
傷を見る見るうちに塞いでいく日々木に、匡は笑った。動揺はない。それぐらいのことはするだろうと、予想していたようだ。
回復した敵とは対照的に、彼女の肩からは、未だに血が滴っていた。透明な片刃の造形で貫かれた箇所から、赤黒いシミが広がり、濃くなっていく。
「しかも、ただ多くの術を持ってるだけじゃない。相手に合わせて、有利な特徴のものを瞬時に持ってくることができる。その判断力、反応速度。いずれも、血の滲む努力をして手に入れたんだろうね。まだ高校生ぐらいに見えるのに、大したもんだよ」
匡は言葉を紡ぐ。穏やかな顔だ。しかし、その薄皮一枚向こうにはドロリとした敵意が渦巻いているのだろう。
(よく動く口だ。一体、何を目的にべらべら喋っているんだろう。時間稼ぎか?)
周囲に構築中の術はないか、意識を巡らせる。同時に、匡の様子を伺う。しかし、見破れる策も突ける隙もない。
「ああ、言っておくけど。この談笑に、意味はないぜ。時間稼ぎでもない」
匡は笑いながら、「ただの余裕さ」と言った。
「僕と君とじゃあ、術士としての格が違う。君のパーは、僕のグーに負けるのさ。いくら君がじゃんけんの読み合いが強くても、話しにならないんだよ」
「そんなことは、私のパーに勝ってから言ってくださいよ」
日々木は右腕を振る。再び、透明な刃が分離して、風を切った。
3メートル。
2メートル。
1.5メートル。
距離が縮まり、1メートルを切ろうとした時。
床に落ちる箱の1つが弾け、再び極彩色が噴水のように散った。
飛び出たステンドグラスの群れが、透明にぶつかり、軌道を捩じ曲げる。
日々木の放った刃は、匡のやや上方に飛び、壁に刺さった。
グラスもまた、激突しては七色の塵になった。
中には、壁や天井に刺さり、電灯の明かりを反射して光るものもあった。
「どうだい。30年ぐらい一般的な教会の窓にはまってた、何の変哲もないガラスの神聖さは。絶妙だろ? 魔除けに弾かれるほど俗でもなければ、瘴気を祓うほどの聖でもない。【壊】の物理的殺傷力を高めるのには、これ以上ないぐらいのチョイスだ」
べらべらと、匡が喋る。
あるいは口に出すことで、術の効力を高めているのだろう。心の中で反芻するのと、実際に言葉にして耳に入れるのとでは、結ばれる理論の解像度が違う。
「しかし、箱には限りがあります。一方で、私は舌を鳴らせば何度でも造形を補給できる。泥試合ならば、負けませんよ」
日々木は啖呵を切る。箱内匡が今までどのような訓練を積んできたのかは知らないが、こちらには長い修練の果てに蓄えたスタミナがある。持久戦ならば、負けない。
ひとまず、あのステンドグラス箱爆弾は、防御で使い切らせてしまおう。日々木がそう思った時だった。
箱が一斉に、弾けた。ガラス片は全て、日々木に向かって飛散した。
色鮮やかな光の川が、渦を巻きながら迫ってくるようである。
日々木は四角を強く意識した。
腕の形状の安定。機能の安定。
それにより、今まで以上の早い動作が可能になる。
日々木はまるで、透明な腕で透き通る残像のカーテンを編むように、目にも留まらぬ速さで縦横無尽に掻き毟った。
ガラス片が、砕け散る。
しかし、その口からは血が漏れていた。
「やっぱり、グーとチョキを同時に出すことは、難しいみたいだね」
匡が微笑んだ。
その表現は、当たらずも遠からずである。
日々木は、複数の造形を大量に使いこなすことはできないのだ。
(選択しなければならない)
例えば、今のような物理的殺傷力を伴う箱爆弾を、匡が再び放ってきた場合。
腕に組み込まれた無数の円形から、大量の効果を出力したならば、外傷を治癒で帳消しにできる。
あるいは、四角の効果だけを強く発揮させたならば、この腕を高速で振り回し、ガラス片を全弾叩き落とすこともできる。
しかし、それでは瘴気に間に合わない。
匡の言う通り、箱内の血は凄まじい。生半可な魔除けでは、上から塗り潰されて終わりだ。
せめて即死は免れるぐらい、三角の機能を押し出さねばならない。
(箱内と戦うなら、三角のジオメトリーモチーフは常に使う必要がある。だが、四角と丸にも力を裂かねばジリ貧だ)
あの少女を倒すなら、自分も死ぬ寸前まで傷つく必要がある。
(覚悟はできている)
血の差は、捨て身で補う。
いつだって、彼女はそうしてきたのだ。
日々木歌子は血を口内に溜める。もしも接近した場合、目潰しに使うためだ。
右腕に含まれる円、四角、三角の効果を、滲ませる。
術も技も肉も心も、全身全霊の全力を、1つの巨大な機能に融和させ、研ぎ澄ます。
目的を果たすという、たった1つのシンプルな機能。
日々木歌子の造形。
(箱を断つ。中の絶望ごと)
脚に力を込める。
筋肉で膨張したエネルギーが、足裏から爆発するように、凄まじい速度で床を蹴る。
右腕を振る。片刃の造形が飛ぶ。空間を穿つ。
匡に迫る。もう、床に箱はない。ステンドグラスの弾幕で防ぐことはできない。
彼女は、やや姿勢を低くした。だが、避けきることはできなかった。刃が左肩をパックリと裂く。背後にある割れた窓から、外の夕闇へと血濡れの透明が溶ける。
あれは、最後の1本だった。右腕に組み込まれた、最後の刃。
腕に含まれた三角で、殺傷力が優れているのは、片刃の造形だけだ。
瘴気を切り裂く飛び道具を得るためには、再び反響定位を使わねばならない。
その隙を突かれることは、目に見えている。
だからこそ、日々木は距離を潰していく。
弾丸のような速度で、駆ける。
匡は今の投擲を防御しなかった。肩に傷を負う半端な回避しかできなかった。つまり、他に手段がなかったということだ。
であれば、この腕の一振りで十分に刈れる。
キラリと、匡の右手が輝いた。
ステンドグラスの破片だった。散った物の一部を、親指で弾いて飛ばしたのだ。
紫の光条が日々木の右眼へと伸びてくる。
(物理攻撃。魔除けは効かず、直撃すれば大きな隙になる)
日々木は咄嗟に、2つの造形を選択した。
1つは、四角。運動能力増大。透明な右腕が鞭のような速度でしなり、砕く。
もう1つは、円形。治癒力強化。粉になったガラス片で、網膜に傷を負わないようにする。
それは、反射的な選択だった。
魔除けの優先順位を下げたのも、反射的な選択だ。
匡が放ったのは強力な瘴気を持つ箱ではなく、単なるステンドグラス片だった。
その事実を「彼女はもう瘴気を吐き出すための触媒となる箱を持っていない」というように、解釈したのだ。
だから日々木は、右腕にある無数の三角のうち、二つの機能を切り、円形と四角に回したのだ。
「馬鹿だなあ、君は」
そこで、日々木は確かに聞いた。
嘲るような、匡の言葉を。
しかし、彼女の手に箱はない。隠し持っていたとして、それを出される前に拳を叩き込める自信があった。
それなのに。
(赤?)
日々木の両目から、鮮血が涙のように吹きこぼれた。
一拍遅れて、耐え難い苦痛が全身に充満していく。脚がもつれ、倒れ伏す。
腕を構成していた透明な造形が、壊れた玩具の部品のように散らばった。
真っ赤に染まった視界が、床を映す。夥しい量の黒い飛沫が、ボタボタと溜まっていく。それら全部が、日々木の耳や鼻や口から垂れ流される血であった。
日々木は夥しい瘴気を、ねじ込まれていた。
臓器が腐っていくのを感じる。意識が残っているのは、辛うじて三角の魔除けが機能したお陰だ。それがなければ、床に倒れる前に事切れていただろう。
だが、死そのものは回避できない。
もう長くない。そう自覚できるほどに、致死量の邪悪が入ってしまったのが分かった。
「……どお……して?」
くすむ思考を巡らせる。倒れる瞬間まで、箱なんてどこにもなかったのに。
赤く染まった眼球に、青白いスリッパが映る。
血だまりの日々木の傍に、匡がしゃがみ込んでいた。
自らの膝に頬杖を突き、楽しげに笑っている。
「決まってるじゃん。君を箱に入れたんだよ」
匡の白い指が、床の一部分を示す。ぼんやりと、視線を導かれる。
そこには、ステンドグラスが刺さっていた。
今までの箱爆弾で散った欠片だ。
「立方体を作るには、点が8個必要なんだ」
微笑みと共に、匡は言った。
「このステンドグラスは、そのうちの1つ。君はもう満足に首を動かせないだろうから教えてあげると、他にも天井や壁に、同じようなガラス片が刺さっている。合計8個ね」
彼女はそれから、指で自分の頭をトントンと叩いた。
「後は、点と点を脳内で結べばいい。そうすれば、自分以外の誰にも見えない箱が、僕の中にだけ完成する。君はまんまと、自分からその中に入っちゃったって訳さ。自分の命を守る盾を投げ捨てて、身軽になった腕をぶんぶん景気よく振りながらね」
匡の声がやけに遠く聞こえる。グジュグジュと耳から漏れる体液が、音を阻んでいるからだろう。
血の池に沈んだ聴覚が、彼女の声を拾い続ける。
「ステンドグラスは色鮮やかだからね。いい目印になるんだ。今日が雨で残念だったね。もしも晴れてたら、割れた窓から差し込む夕陽で、七色に煌めくのが見れただろうに」
そう言うと、匡は日々木の血まみれの指に、そろりと掌を絡ませた。
凄まじい痛みが、骨肉を蝕むのを感じた。
匡が手を開いた時、包まれていた日々木の右小指が、ぐずぐずに腐っていた。
「君が切り落とした久義の指って、5本だっけ。まずはそこから、お返ししないとね」
何でもないような声が、黒ずむ夕闇に溶けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます