ボク・セレナーデ

重永東維

ボク・セレナーデ

 たぶん、僕には絵の才能がなかったのだろう。皆無と云ってもいい。

 安田さんの横に煌めく「特選」の文字。彼女は小さい頃から絵が上手く、常に憧れの的だった。県主催の展覧会で彼女の絵を目にする度に、よく途方に暮れたものだ。技術は勿論のこと、センスも飛び抜けている。

 そして、今回も惜敗だった。いや、「完敗」と云ってよいだろう。実力の違いを目の当たりにしながら、僕は静かに消えゆく情熱の炎を静かに感じ取っていた。

 現実はいつも僕に冷たい。いくら努力を積み重ねようとも埋められない差。どんなに喰らいつこうと引き離される一方で、まるで追いつける気がしない。実力が中途半端な僕には、間接的にそれが分かってしまうのだった。

「よおっ! 僕さん。放課後に絵画鑑賞か、精が出るね」

「なんだ……長尾か。相変わらずだね」

 流し目で横を見ると、長尾は小さな粘土を持ち歩き、何かをコネている。今回は馬だろうか。十二支のミニチュアを造ると言い出し、子・丑・寅・卯・辰・巳ときてうまなわけだ。長尾の着眼点や発想は好きだが、如何せん基本が追いついておらず、毎度のことながら歯がゆい気持ちにさせられる。

 昇降口の掲示板に飾られる花火のような絵。実に、安田さんらしい絵だ。

 その小さな身体の何処に力が潜んでいたのかと疑うほどの情念の爆発。渾身の一枚だった。同じサイズのキャンパスに描いてるはずなのに、俄然大きく見える。色彩豊かで繊細なまでの筆捌き。それに比べ、斜め下に飾られている絵は綺麗に纏まっているものの味気がなく、その優劣は明らかだった。

「我ら美術部の女王さまは、今回も特選だな」

「三年間、僕は真面目にやってきてこのザマだよ」

「そう嘆くなって。僕さんだって入選じゃないか」

「特選と入選では雲泥の差だよ……」

 素直に吐露すれば意気消沈。もし、安田さんを超えることができたのならば、告白にも勢いがついたのに……。と、これではまるで格好がつかない。部員も密かに応援してくれていただけに、申し訳が立たなかった。 

「でも、選外の俺よりはマシだわな」

「テーマ性を無視するからだよ。なんだよ、あの絵は」

「お? 俺の絵、見てくれたのか?」

 長尾は嬉々としてこちらに顔を向け、僕の一言を待っている。毎回のことだが骨の折れる瞬間だ。感想を求めているのはわかるが、それを口で説明するほど難しいことはない。おそらく、僕の考える意見の半分以上は間違っていて、的を射ている自信はなかったからだ。

「的確だよ。僕さんの指摘は」

「なんだよ、いきなり薄気味が悪いな」

 ぶっきら棒に頭を掻きながら、僕は下駄箱に向かう。別に、照れていたわけではないが、内心を見透かさてる気がした。それに、長尾が何をしに来たかは大凡の察しはついている。つい口を滑らせてしまったのが運の尽き。野生動物に近い直感力の鋭さだけは末恐ろしいものがあった。

 外は突き抜けるような晴天の青空。校庭に響き渡る打球音と掛け声。放課後の、いつもと変わらぬ光景だ。平和で牧歌的、僕は小鳥の囀りを聴きながら歩を進め、背後からついてくる長尾をどうにか巻こうと考えていた手前、彼の含み笑いを見てすぐ諦めた。

「……どういう了見だ。なぜ、ついてくる」

「女王さまに告白するのでしょ? さめて、骨ぐらいは拾ってあげようかと思ってね。これも武士の情けってやつよ」

「なんで、負け戦が前提なんだよ」

 長尾は特に言葉を返すこともなく、木陰にある手頃なベンチに腰掛ける。僕はその間を開けるように一つ隣のベンチに座った。ここなら、昇降口付近がよく見渡せるからだ。彼女の待ち伏せには丁度良い。安田さんは帰りの学活が終わると、真っ先に美術室へ寄る癖がある。従来通りであれば、あと三十分弱で姿を現すだろう。

「……俺さ、なんだか緊張してきたよ。なぜか手まで震えてくる」 

「それは僕のセリフだ。嫌なら帰ってもいいんだぞ?」

「よく言われたな。嫌なら帰れって」

「ああ、長尾は本当に帰っちゃうもんな。ろくでなしだよ」

 小さな声で「うるせえよ」と、長尾が巫山戯て絡んでくる。僕は軽くあしらい、構わず話を続けた。

「たまには部室に顔を出せってさ。清水先生も心配してる」

「……苦手なのよね。そう言うの」

 粘土を弄り、長尾はバツが悪そうにしている。どういう訳なのか、顧問の清水先生は長尾ばかりに目をかけていた。その分、指導にも熱が入り、長尾は次第に部室に姿を見せなくなったのだ。

「ほら、あのオバさん、うるさいだろう?」

「うるさいって?」

「何かにつけて『デッサンだ、デッサンだ』と頻りに煽ってくる。描けば、鬼のようにチェックを入れられるしな。俺はさ、感性の赴くまま自由に描きたいわけよ」

「それは、基本がまるでなってないからだろう?」

「あらま。 僕さんはそっち系なの?」

 僕は呆れ顔で失笑した。なぜなら、長尾の絵に指摘する大部分は清水先生からの受け売りだったからだ。そうとも露知らず、僕に感想ばかり求めてくるのは些か滑稽でもある。でも、そんな長尾の立場が正直羨ましかった。彼は部内でも一目置かれる存在。なんせ清水先生の美術指導を受けたいが為に、市外からやってくる生徒が大勢いるくらいだ。僕も同じくして、あの安田さんですら、その内の一人だった。

「でもさ、デッサンは長尾が云う『感性』とやらを、邪魔するものではないよ」

「生憎だが、耐え忍ぶだけの修練は苦痛でね」と、長尾は首を捻ってみせる。

「誰でもそうだろ。しかし、デッサンに楽しさが見出せないってわけか……」

 納得したようにゆっくり首を縦に振り、長尾は手の粘土に視線を落とす。見たところ、馬の造形には手間取っているようだった。作りたいイメージが頭の中にあっても、それをうまく具現化できないのだ。未熟な僕らにとっても永遠のテーマでもあり、よくある落とし穴。これは何も絵に限った話でない。本来、問題が上がればそれに対する検証と対策を行うもの。全てはその繰り返しと積み重ねである。しかし、長尾はどうもその部分がスッポリ抜け落ちていた。たとえ、どんなに素晴らしい天才的な発想であったとしても、基礎となる技術なしでは貧弱な表現となってしまう。

 見兼ねた僕は、まごついてる長尾からおもむろに粘土を、ひょいと取り上げた。そしてすぐさま、大まかな造形のアタリをつけていく。馬は美しく躍動的な動物だ。模写でも散々やったし、馬体の構造は大体頭に入っている。ディフォルメ化するにせよ、よくもこんな犬とも猫とも区別がつかない形にしてくれたものだ。

「おいおい、僕さん何をすんだよ」

「まぁ、黙って見てろって」

 指先で魂を吹き込むように馬の形を整えていく。作業が進むに連れ、横で眺めている長尾の目が大きく見開き、やがて小さく感嘆の声をあげた。時間にしてものの十分。久し振りに作ってみたが手本としては上出来だろう。

「まぁ、どうよ?」

「どう……って、僕さん凄いな。俺は正直、猛烈に感動したぞ」

 僕は得意げに粘土を返し、長尾の反応を横でじっくりと伺う。別に技術を引けらかしかった訳ではなく、その場で披露した方がより効果的だからだ。長尾はまじまじと馬の造形を見つめ、何が自分と違っていたかを観察しているに違いない。ある意味、それが僕の狙いでもあった。

「なぁ、僕さんは何処でこんな芸当を覚えたんだ?」

「長尾はさ、感性とやらに頼りすぎているんだよ。上手く作れないなら、馬の図鑑でも、写真でもなんでも手に取って見ればいい」

「簡単に言うけど、一筋縄ではいかないぞ」

「だろうね」

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

 長尾が不服そうに訴えかけてくるが、僕は口角を上げて笑い返した。答えなんてものは既にでている。問題はどうやって本人に「自覚」させるかなのだ。あとは丁寧に好奇心をくすぐってやり、本人の自主性に任すしかない。

「デッサンだよ。デッサン。これも長年培ってきたデッサン力の賜物なんだよ」

「はぁっ⁈ なんだよそりゃ?」

「納得はいかないだろうけど、これが現実ってやつなんだな」

 辟易とした表情で長尾は天を仰ぐ。淡々と形を変えてゆく青空には一筋の飛行機雲。青空に描かれる見事なまでの白い一本線だ。寝耳に水とも言うべき事実を突きつけられ、長尾もさぞかし堪えていることだろう。だが、僕らのやっている作業はトライアンドエラーを繰り返し、ひとつひとつ真摯に向き合い、修正を重ね少しづつ積み上げていくものだ。楽しむにせよ、決してらくをしててはいけない。

「しかし、……僕さんには、ほんとかなわんな」

「見たままをそのまま描くのではなく、特徴を捉えて考えながら描くんだよ。今なら、その理由が少しだけわかるだろう?」

「どのみち、避けては通れない道ってわけか……」

「長尾なら、きっと楽しめると思うよ」

 乾いた笑みを浮かべながら、長尾は静かに項垂れた。先が思いやられるのを間接的に感じ取ってしまったのだろう。今後、彼の前にたちはだかる壁はどれもこれも一朝一夕に越えられるものではなかった。だが、もしここで基礎を怠れば、いずれ限界を知る羽目にもなってしまう。

「孔子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かずってね」

「あん? なによそれ?」

「論語だよ。大昔の偉い人がそう説いてた」

「意味はよく分からんけど、いい言葉なんだろう?」

 と、半ば深刻な顔をつつ、集中力が散漫な長尾は、既に話半分で馬の粘土に夢中になっている。更に手を加えるつもりなのか、小さなヘラを取り出し馬の体になにやら縞模様を刻んでいた。

 悔しいが、長尾の持つセンスの良さは半端では無い。上手くは例えられないが、見る者の目を魅了し、琴線に触れるような仕上げ方をする。大きな声では言えないが、長尾の才能は本物だった。清水先生が執着するのも無理はない。ポテンシャルだけで見れば安田さんを遥かに凌ぎ、僕などは足元にも及ばないのだから……。

「共作になっちまったけど、こんなもんかな?」と、嬉々として長尾は、誇らしげに馬の粘土を掲げる。

「悪くないね。しかし、縞模様がほんとに好きだな」

「最近、ハマってるのよね。なんせ模様の組み合わせは無限大。しばらくはこれが題材になるだろうな」


(……なるほど、それであの絵だったのか)


 ──部活に来ない長尾に代わりに、縞模様の絵を清水先生に届けたのは、何を隠そう、僕と安田さんだった。先生はなんの反応もなく絵を普通に受け取ってはいたが、本当は心待ちにしていたに違いない。実際、長尾の描いた風景画のアイディアは素晴らしかった。生まれ持った才能と資質の差を知り、嘆息している僕を傍目に、安田さんも内心は穏やかではなかったはずだ。

 だが、残念なのは中学を卒業すれば長尾を育てる環境が無くなってしまうことに尽きてしまう。高校に進学すれば、嫌でも独学になってしまうだろう。

 一生を左右する大事な時期だ。家庭の事情も相まって絵を描く時間すら無くなってしまうかもしれない。どんなに素晴らしい才能が備わっていたとしても、育てる環境が無ければ全てが水の泡、「鉄は熱い内に打て」とは、よく喩えたものだ。特に、若い時にしか身につかない技術や感性もある。少なくとも、長尾は基本的な技術を習得しなければならかった。酷な話だが、歳を取ってから到底身につくものではない……。

 例えるならば、長尾は巨大なエンジンを積んだ軽自動車のようなもの。身の丈の合わない小さな車体に振り回され、コントロールのまったく効かない暴走車になっている。対処するには、エンジンに見合った頑丈で強固な、重い車体を手に入れることが必要不可欠だった。実力に裏付けされた土台が無ければ、折角の感性もただの「思いつき」になり果ててしまう。僕はその怖さを数々の先生から十分に教えられていた。


「で、どうだったよ。俺様の縞模様の風景画は?」

「全然ダメだろうね」

「あのな、かなり自信あったんだぞ……」

「やりたいことは分かるけど、テーマ性を無視したら評価以前の話なんだよ」

「少しは誉めてくれよ。 僕さん、いちいち厳しすぎなんだよ」

 僕は意に介すことなく、昇降口にそっと目を向ける。さて、そろそろ安田さんが出てくる頃合いだろうか。悪いが、いつまでも他人ばかりに構っているわけにはいかない。僕には、僕の行く未来がある。いやなことも、面倒なことも、歯を食いしばり乗り越えていかなけばならない。

 人生のイベントは目白押しだ。凡人には凡人なりのやり方ってものがある。きっと、失敗や挫折の繰り返しなのだろう。それでも、前に進むしかない。結果はどうあれ、絵画と一緒だ。必死にやり遂げるしか他に術がないのだ。この告白がたとえ、ただの「通過儀礼」に過ぎなかったとしても、悶々とした自分の気持ちに決着をつけねばらならなかった。然もなくば、これから先は進めない気がしたからだ。

「ああ、後頭部の裏がだんだん冷たくなってくるね……。なんでこんな事しているのだろう。自分が本当に嫌になるよ」

 そして、そっと青空を見つめる。先ほどの飛行機雲は何処かに消え去っていた。まるで、自分の敗北を暗示しているかのように。

「……僕さんさ。別に、無理することもないよ」

「今更だな。嫌でも、やらなければならない時ってあるだろう」

「青春だねぇ……。いまがその時だってやつ?」

 流行りの文言を並べ立てて、気を紛らわしてくれるのはありがたいが、薄ら寒いだけで、励ましにもなっていない。

 すると、昇降出入り口から安田さんがひょっこりと姿を現した。予想はしてたが、やはり友達と一緒だ。安田さんは小さな身体に不釣り合いな大きなキャンパスと画材をこれでもかと抱え、ヨタヨタと歩いている。まるでかわいいヒヨコみたいだ。思わず口から笑みが溢れてしまう。

 だが、今日も彼女は懸命なのだ。沢山の手荷物は、自らに課せられた使命と責務の重さにも思えた。両親が共に画家なのもあるだろう。お兄さんも優秀だと聞いている。でも、その姿を目にする度に、僕は深く共感してしまう。何処かで彼女と繋がっていたいと、強く望むのだった。


 ──そんな彼女に僕は「告白」をするのだ。


 柄でもなく両頬を強く叩き、僕はできる限りの気合を入れた。安田さんは「撃墜王」と呼ばれるほどの、校内でも屈指の美少女でもある。所謂、高嶺の花というやつだ。なにも、告白をした生徒は僕が初めてというわけではない。次々に散っていく同士を見守りながらも、心のどこかで安心しきっていたのだ。だが、そんな消極的な日々も今日で最後にしよう。たとえ、負けると分かっていても、男ならば戦わなければいけない瞬間がある。逃げるのはもうやめだ。いざ、出陣の時である。

「よっし! ちょっくら、行ってくるわ」

「おうっ! 行ってこい、青春小僧!」

 長尾が思い切り背中を叩くのと同時に、僕は勢いよくベンチを飛び出した。目指すは愛しの安田さんの元へ。足取りは重いが着実に歩を進める。今でも逃げ出したい衝動を抑えるのに手一杯だ。震える足はすでに、ぬかるんだ地面でも歩いてるような感触だった。

 徐々に安田さんの姿が大きくなるに連れ、お供のように付き添う勘のいい女友達たちが急に囃し立て始める。僕の姿を目で捉えて、さぞかし浮き足立っていることだろう。今日も今日とて「恐れ知らずの馬鹿」がやってきたと、心をときめかせているに違いなかった。悔しいが、全くその通りだ。だが、此の期に及んで、恥ずかしがってる場合ではない。既に、賽は投げられたのだ。おめおめと、このまま黙って引き下がるわけにはいかないのだ。


 しかし、こんな時に限って、つまらぬ考えが頭をよぎった。


 ──それは、安田さんと長尾の関係性だった。


 もし仮に、これが一つの『恋愛物語』だったとして、その中の登場人物である僕の立ち位置だどうだろうか? 主人公を長尾だと仮定すると、ヒロインは間違いなく安田さんだ。 才能ある二人が織りなす恋愛縞模様。きっと、絵になる。僕は精々、二人を引きたてるだけの脇役に過ぎない。事実、二人は恋愛を意識せずとも惹き合ってる部分もある。そうなると、僕は二人を繋ぎ止めるだけの役どころという訳だ……。

 よくある展開だ。話序盤でフレームアウトしてゆく主人公の友人。彼はヒロインに見事に振られ、その後は物語に絡むことなく消えてゆく運命。現に、僕はこの後に控える受験に向けて猛勉強しないとならない。どの道、長尾とは入れ替わりで美術部にも通えなくなるだろう。悔しいが、二人はお似合いだ。本来なら、安田さんの横には長尾のような男が相応しい。


 ──でも、『だから、なんだというのだ』


 確かに僕は凡人だ。長尾のような光るセンスも安田さんのような才能も見当たらない。しかし、それが人間的な魅力を決定づけるものとは思えない。思考は所詮、ただの想像であって真実では無いのだ。自らを卑下し独り相撲を繰り返すのも今日で最後にしよう。負けてなるものか。臆することなく、僕はただ目の前の現実と向き合えばいい。そう、未来は自らの手で切り開くものだ。

「安田さんっ!」

「はっ、はいっ?」

 安田さんの狸のような瞳が忙しなく動く。唐突な出来事に明らかに動揺していた。緊張して力が入りすぎてしまったのか、安田さんが怯えて後退りしている。

 鼻息の荒い僕が何をしてきたのかは雰囲気で察しがついているのだろう。しかし、完全に間が悪かったかもしれない。それとも勇み足だったか。周囲を見渡せば、野次馬らしき生徒に注目されている。とはいえ、ここが正念場。もう後には引けなかった。〝覚悟を決めろ〟と、僕は自身に強く言い聞かせながら彼女に詰め寄った。

「あ、あの、僕は安田さんがですね……」

「木下くん、あのね」

「はい」

「場所を考えて……」

「へっ?」

 頬を真っ赤にした安田さんが、校舎をこっそり指差すと窓際に隠れている同級生達が目に入った。状況から察するに、告白はすでに噂として広まっていたに違いない。そう、発信源は長尾以外ありえなかった。

 どうやら、僕は長尾の口の軽さを忘れていたようだ。

 本人に悪気がなかったとしても、こうなってしまうのは安易に想像できたはずだった。不覚にも、全て自分で招いてしまった結果だ。そして、遠くからひたすら声援を送っているお調子者が一人いる。僕は完全に出端をくじかれ、恥ずかしさのあまり、そのまま固まってしまった。

「……はい。とりあえず、この荷物持って」

「ええっ……?」

「一緒に、帰りましょ?」

 眉をへの字に曲げて、安田さんは荷物を強引に押し付けると一足先に歩いてゆく。僕は従者の如く、項垂れながら後に続いた。間一髪、彼女の機転で助けられたものの、とてもつもなく悪いことをしてしまった気がする。僕は自分のことばかりで、相手の迷惑など微塵も考えていなかったのだ。おまけに、いらぬ恥までかかせてしまった。不甲斐ない気持ちで一杯になった。

 ズシリと腕にのし掛かる重たい手荷物。華奢な女の子が毎日これを抱えて通学していたのかと驚いた。いったい、僕は彼女の何を見てきたのだろうか。こんな努力や苦労をしながらも、気にも留めていなかった。それなのに、僕は恋だ何だとん熱病のようにうなされていたのだ……。

「あのね、好きな気持ちは十分に伝わってるから。もう、恥ずかしい真似しないで」

「ごめん。自分勝手だったよ……って、いま何て言いました ⁈」

 さっと顔を上げれば、顔を赤らめそそくさと逃げてゆく小さな背中。

 僕は安田さんの後を追いながらも、言葉の真意を探ってみたくもなった。でも、直ぐに考えるのをやめた。いつもの悪い癖だ。どうせ、先のことなんて誰にもわからない。いまはただ、二人きりでいられる時間と空間を共有し、存分に満喫しようではないか。

 あっ……、という掛け声と共に安田さんはふと立ち止まり、青空を見上げる。綺麗な横顔が顕になり、潤んだ黒い瞳がキラキラと輝く。ゆっくりと空に伸びる指先につられて僕も同じように空を見上げた。

「綺麗ねぇ……」

「これは、また驚いたな」

 大空のキャンパスに幾重もの飛行機雲が横一線に並び、青と白の美しい『縞模様』を形成していた。我が目を疑うような光景に思わず感嘆の声が溢れる。

 僕は自然と隣り合わせに肩で並び、安田さんとしばらく縞模様の空を眺めた。遥か彼方に遠い未来の予感がする。決して色褪せない永久不滅の記憶。少なくとも、僕らを待ち受ける世界は少々面倒だ。望むことならば、この先も共に手を取り合い歩んでいけるよう切に願うだけだった。


    *


 ──あれから、二十年ほど経っただろうか。


 僕は故郷を離れ医師となり、十年ほど前に妻と籍を入れて娘を一人設けた。

 歳は離れてしまったが、二人目も産まれる。それなりに幸せで充実している。家庭にも仕事にも特に不満はなかった。想い返しても忙しない日々。高校入学と同時に医大を目指して猛勉強に明け暮れ、医大に入ってからもそれがなお延々と続く。研修医としてのドサ回りもかなり厳しかった。

 ほっと一息つけたものここ数年来の話になる。世間は目まぐるし移り変わり、携帯電話だインターネットだの枚挙に遑がない。いつの間にかオリンピック開催地も東京に決まり、あれよあれよとあと三ヶ月後に迫っていた。

 僕といえば病院の都合上、医師としてのサポートに加わる羽目となり、打ち合わせや最終調整に追われる毎日。妻は「名誉なことなのだから」と、背中を押してくれてはいるものの、身重な彼女の前ではどこか気が引けてしまう。

 最愛の娘も今年で九才。わんぱく盛りで手ばかりかかるが血は争えない。妻に似て、絵の才覚を現し始め将来有望。近頃はタブレットを使って漫画まで描き始めている。僕も負けじと趣味の絵画を再開してみたが、すぐに追い抜かれそうな勢いだった。

 そして、妻の沙耶香とは長い付き合いになる。

 中学を卒業してからは疎遠となってしまったが、地元の飲み屋で偶然再会したのは大学三年の夏だった。だが、出会った当初、沙耶香は心身共に疲れ果て痩せ細っていた。二浪の末、国内最高峰の美大に入ったのも束の間、講師や友達との反りが合わず常に苦悩する有様。大好きだった絵画すら殆ど描けなくなり、あまつさえ「君は、病んでる時の方が良い絵を描くね」などと、言われてはたまったものではない。

 紆余曲折を経て沙耶香と付き合うようになり、互いを支えながら結婚に至った訳だが、未だに大学時代の呪縛は彼女を苦しめている。でも、最近は娘に彩色を教える傍ら、描く楽しさを少しづつ取り戻しているようにもみえた。僕は不器用ながらも見守ることしかできない。また妻が筆をとってくれると密かに期待している。

 

 ──そんな「ある日」のことだった。


 『もうすぐ完成する施設の下見を兼ねて是非お越し下さい』と関係者から通達があり、業務の合間を縫って施設を訪れることにした。場所は湾外沿いの埋立地にある真新しい白い建物。職場から首都高に乗り一時間ほどの距離だった。渋々と行ってみると、高台から東京湾が一望できる絶景スポットに思わず息を飲む。

 こうして海を眺めるのは何年ぶりだろう。海鳥が気持ち良さげに飛び回っている。僕は来客用の駐車場に車を停め、ゲート入り口で手続きを済ませて中に入っていった。

 施設内はまだ内装工事の途中で、設置作業が急ピッチで行われている。気質の荒い職人たちが怒号を交えて真剣に取り組んでいた。僕はなるべく邪魔にならないように医務室を見て回ったが、見学するには少々早すぎる気もする。不思議と来客らしき人間も他におらず、末席を汚すように施設内を丁寧に歩き回ったのだった。

 やがて、おそるおそるメインとなる競技場に踏み入り、目に飛び込んできた景色を見て思わず言葉を失った。


 〝しまもよう〟だ。


 競技場内の東西南北には全体を囲むように〝しまもよう〟に彩らていた。絵画や小さなオブジェが至る所に配置されている。古い記憶が呼び醒まされるようだ。呆気にとられながら、僕はぐりると場内を見渡す。すると、背後から人の気配を感じ取った。

「よおっ! 僕さん。仕事をサボって昼間から施設見学とは精がでるね」

「……やっぱり、長尾か。随分と久しぶりじゃないか」

 振り返ると、長尾は軽く会釈をした。長い髪を後ろに結って無精髭を生やしている。汚れた作業服を身に纏い、タブレットとスケッチブックを持ってゆっくりと近づいて来る。

「俺ってば、ここのアート・ディレクターも任されちゃってるのよね」

「ほんと、大した奴だな。いつからやってたんだよ」

「かれこれ五年ぐらいかな。大したことねぇよ」

 惚けた素ぶりで韜晦しているが、僕は長尾が苦労の連続だったのを知っていた。進学先の高校を中退し、十年以上も海外を放浪してアートビジネスを成功させ名を挙げてきたのだ。どのような経緯を辿ったかは不明だが、出会った人々にも恵まれたのだろう。外国に渡ったと聞いて一時期はどうなることかと心配したが、日本に戻ってきてからは個人事務所を設立して現在に至る。故郷では唯一、錦を飾った男として有名だ。

「なぁ、僕さんこの縞模様を覚えてるか? 全ては、あの絵から始まったんだ」

「懐かしいな。まさか、こんな風に仕上がるとはな」

「再現するのに二十年もかかっちまったが……、僕さんには真っ先に見て欲しかったんだよ」

 まだ場内のオブジェは仮置きの状態なのだろうが、長尾の表情はどこか儚げだった。そして、モニター室に合図を送ると競技場内のライトが一斉に落ち、前面の大型スクリーンから〝しまもよう〟をモチーフしたCGが展開された。その映像の中には、当時作っていた干支の案も盛り込まれている。

 際限なく繰り返される縞模様の祭典。長尾の持つ優れたセンスと色彩感覚も健在だ。万華鏡を覗くような輝きは様々な形を催し、天上から降り注ぐ音楽の如く煌びやかに響き渡る。これが、長尾の内面に潜む世界観の本質だったのだろう。妻の沙耶香もこれを目にしたらきっと創造力を刺激されるに違いない。

「……感無量だよ。流石だわ」

「やっと褒めてくれたな。その言葉、心待ちにしてたぞ」

 僕は一人、餞とばかりに万感の想いで彼に拍手を送った。長尾は深く頭を垂れながら、丁寧に一礼をする。何度も諦めかけ、逆境に立たされても、それでも尚、愚直なまでに感性に従う。執念と不屈の魂でやってきた男の集大成でもあった。そして、長尾は誰に向かうことなく小さな声で、ひと言だけこう呟いたのだった。


 ──虚仮の一念、岩をも通す。ってな。


                               《了》

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