エピローグ
収束する事件
それは四月。あたしが大学院で二年次になり、警視庁に入って一年と二ヶ月が過ぎた頃の話だ。
警視庁の人事制度って言うのはいくつかの不文律って言うのがある。
たとえば、昇進すると一度別な部署に出されて早くても二年間は戻れないとか、五年間働いたら別な部署に異動になるとか、そんなやつだ。
これは、上下関係が絶対な警察において、相性の悪い上司と部下があり得ることを想定した対応策と言われている。
例えば、嫌な上司の下で働くことになっても、何年か我慢すればどっちかが異動になるというわけだ。
もしそれが我慢できないレベルであれば、本人が昇任試験に受かればいい。少なくともその部署からは異動できるだろう。
技術支援班の田神班長は異動の年だった。
それに伴って、今度新しく警部が赴任してくることになった。
田神班長はいい人だったけど、技術的には疎くて、あんまり助けになってくれなかった。
今度の新しい人は、少しは技術に明るい人だといいと思った。
「一色長、新しい班長が来たみたいですよ?」
加奈子の言葉に新しく赴任してきた警部が遠目で見えた。
長らく警察病院にいた太田があたふたと向かっていった。
太田は、その若さもあって、一月ほどの入院で回復して、C4に復帰している。その時にまたひと騒動あったけど、それはまた別の話だ。
太田が近づいた瞬間、C4内がどっと沸いた気がするから、人気がある人なんだろう。
ちょっと興味がある。
新しい班長は所長室に入って申告をすませた後、技術支援班の所まで来た。
途中歩いてくる顔を見て、その人に何か見覚えがあるような気がした。
そして、突然気が付いて、あたしは目をこすった。
――そんな馬鹿な!
でも、その人はどんどんあたしの近くに歩いてくる。
その顔を近くから見てあたしはあっけにとられた。
異動の不文律は、特別捜査官には関係ないらしい。
確かに、あたしとかが別な部署に異動しても役に立たないし、仕方がないかもしれない。
――でもねぇ、わずか二ヶ月で所轄を追い出されて戻ってくる人がいるなんて思ってもみなかったよ。
「九条警部、技術支援班班長に命ぜられました。皆さん、これからよろしくお願いします」
真治の言葉にあたしは文字通り絶句していた。真治は愉快そうに、あたしに言ってくる。
「まあ、沙織を一人にしておく訳にはいかないからな。戻ってきてやったよ。びっくりさせようと思って、みんなには黙っていてもらったんだ。驚いただろ?」
あたしは真治が怪我してない側の右脇腹をたたいて、大声で言った。
「な、何でそんなことすんのよっ! びっくりして……」
あたしはぽろぽろ涙が出てくるのを感じた。
「びっくりして涙が、出ちゃうじゃないっ!」
「悪かったよ」
真治は涙目のあたしの頭をなでて言った。
「あ、頭、なでないでよっ」
あたしは、そう言いながらも、ちょっぴりうれしくて手を振り払わなかった。
あの事件の後、真治は一時は失血が多すぎてかなり危険な状態までいった。だけど、何とか持ち直すことができた。
あたしが涙目で協力をお願いに回ったら、一〇〇人くらい輸血してくれる警察官が集まってくれた。
それから真治が警察病院から退院するときは、敬礼とか挨拶とかがすごかったらしい。
だって、特捜官が身内の特捜官の女の子を守って怪我をするなんて、すごく警察官に受ける話なんだそうだ。
そして、今回のGABホールディングに関わった大使館員に下された処分は、『
それ以上は外交官に対して処分できない。
そして、外交官二人を除いたイギリス人の身柄は、警視庁にはなかった。
だけど、逃げられたわけじゃない。
真治が『ヤツラが逃げ出すことを心配しなくていい』って言ったのは伊達じゃなかった。
真治はあたしのことをきっちりフォローしてくれた。
警視庁と連携した米国
彼らは全員、
外務省と検察庁の特捜の頭越えを生活安全部長に納得させたのは、真治がFBIとの連携をしたからだった。マネーロンダリングに関する国際決済情報をFBIに流して、共同戦線を張ったんだ。
もちろん、そんな簡単に出来ることじゃない。
だけど――。
「俺が九条特捜官から言われて、米国
お父さんがあたしに説明した。満面の笑みで言葉を続ける。
「『SlapStick』が流したグローバルアクセスバンクの情報を知ったのは、だいぶ前のことだ。そして、捜査に必要な時間を稼ぐために、決済サーバのパスワードを変えた。それも二〇桁に」
その言葉は、絶大な衝撃とともにあたしを襲ってきた。お父さんはあたしの様子に気づかずに説明を続ける。
「沙織もグローバルアクセスバンクを調べていることを知ったのは、例のケガのときからだ。あずさ銀行がグローバルアクセスバンクと関係があることは、こちらも知っていたからな。もちろん七尾のことも知っていたさ。だが、日本では手が出せなかったんだ」
あたしは文字通り言葉が出なかった。
真治が病院で一命を取りとめた後、お父さんに言われた言葉がこれだった。
「俺はFBI特別捜査官も拝命している。俺の身分は機密扱いなんだが、あのシンジケートは知っていたんだ。だから、沙織を殺そうと躍起になったらしい。俺に警告する気だったんだろう」
お父さんは肩をすくめて続けた。
「それがあいつらの致命傷になったわけだ。そして九条特捜官も、自分が作ったプログラムのパスワード解析データを調査して、俺が沙織のPCで実行していたプログラムのパスワードハッキングの順を変更したことを気付いたらしいんだ。それで、彼に俺の身分が知られてしまったわけさ。さすがに警視庁のコンピュータ特捜官は甘くないな」
――お父さんが特別捜査官? しかもFBIの?
あたしはビックリすると共に、呆れるしかなかった。だけど一つの疑問が氷解した。
「そう言えば、あたし調べたんだけど、FBI特捜官が、ホワイトハットとかあちこちの関連組織に、変な噂を流していたみたいだけど、お父さんは知ってる?」
あり得ないほどうろたえた様子でお父さんが言う。
「ど、どんな噂だね?」
「今度警視庁に入った一色特捜官は美人とか、可愛いとか、優秀だとか」
あたしがため息をついて言うと、お父さんは憮然とした顔をしていた。とりあえず、お父さんがあたしのこと、男扱いはしていないことは分かった。
――そのせいで、シンジケートにあたしが娘だって知られたんじゃないの?
「そういえば、最近は、気が強いって噂も付け加わってるようだな」
お父さんが呟いている。ばっかみたい。
お父さんの話は、シグ・ザウエルを持った男に及んでいた。
「アンダーセンは自信満々だったが、結局警視庁を混乱させたようだな。それどころか九条特捜官に途中で知られてしまったようだが。連行された時の憮然とした顔が見られなかったのが心残りだよ」
「アンダーセンってシグ・ザウエルを持ったあの人のことね? 公園でも、七尾からあたしを守ろうとしたんでしょ?」
「沙織一人なら守り切れただろう。実際、沙織が気付かない時に何度も助けていたよ。だが、若い巡査長や、九条特捜官が沙織を見守っていたから、最低限の関与にとどめたんだ」
あたしは、その言葉に不平を漏らすしかない。
「何で、最初から教えてくれなかったのよ? ずーっと太田を撃ったのはあいつだって思ってたんだから」
「外交上の理由で、FBIが警視庁の特捜官を保護するわけにはいかない。本来なら、警視庁内で対処するのが筋だからな」
それはそうだろう。だけど、警視庁内に説明があったって良かったはずだ。
あたしがそう疑問に思っていると、お父さんはそれに気づいたように説明してくる。
「警視庁にその理由は説明できなかった。最初はテロ対策として外務省と警察庁を経由して情報を交換しようとしたが、その内容が相手組織に筒抜けで逆に混乱させられた」
あたしはその説明を聞いてすぐに気が付いた。
「七尾がやったんでしょ?」
あたしの言葉にお父さんは軽く頷いた。
「そうだ。だからやむを得ない処置だった。警視庁の中でもこのことを知っていたのは、上層部と九条特捜官、小田監察官などごく僅かだけだ」
「警察官が守られるなんて、警察官失格ね」
あたしが自虐的な言葉を発すると、お父さんはあたしの頭を軽くなでた。
「警察官にも役割がある。市民を守るための一翼を担う、それだけが警察官の役割さ。沙織には沙織の役割があるんだろう?」
お父さんの言葉に、あたしははっとした。
そうだった。何度も言われた。
だけど、あたし自身がそれに納得していなかった。
それは、あたしがみんなの役に立っていないという不安だ。
「ただ、アンダーセンが言っていたよ。あんなに周囲に認められた特捜官を見たことはないと。普通は前線の警官から一線を引かれるものだからな」
お父さんは実感がこもったようにそう言った。
「あたし、認められているのかな?」
「そりゃそうさ」
あたしはもっと認められたい。
あたしの脳裏に一人の人物が浮かび上がった。
――そう。あたしが認められたいのは、たぶんこの人に、だよね。
その後、特捜官を命の危機にさらした捜査のお偉いさんはこっぴどくしかられたらしいけど、事件の成果があんまりにも巨大だったんで、とりあえず不問になったみたい。
だってさ、データ解析すれば、テロリストを含めて犯罪者のお金の動きが丸裸になるんだよ?
それに、あずさ銀行とつきあいのあった生活安全部長が取りなしてくれた。援助の件は、生活安全部長が小声で感謝を伝えてくれた。
データはノートルダムが削除したはずだって?
そう。ノートルダムは確かにサーバのディスクデータを完全に削除した。
でも、あたしはその前にディスクの不良エリアリストを改ざんして、データのコピーをそこに置いておいた。警察庁の四谷さんが渡してくれたツールを使って。
ディスクの不良エリアを指定する部分はサービスエリアと言って、一般的なデータを保管するエリアとは区分されている。そのサービスエリアで不良エリアと指定された部分はPCからは無視される。だから、何度ディスクを削除しようと、たとえフォーマットしてもそのデータは消えない。
そして、あたしは分析の時に、元々のPリストを正しい不良エリア情報に戻した。
その瞬間に魔法のように削除したはずのデータが復元された。
「なんで? ディスクは確かに削除して上書きされたはずだ!」
法廷でノートルダムと七尾の叫びを聞いて、警察庁の四谷さんが満面の笑みをしているのをあたしは見逃さなかった。あたしはその場で言い放った。
「あんたに言っておくけど、米国国防総省は7回のディスク上書きの方法ではもはや安全でないと、だいぶ前から通達を出しているよ」
このデータを元に、この組織のお金の流れもかなり分かって、その後の捜査を慎重に進めているんだ。他の国からも情報提供の要請が殺到しているらしい。
警視庁とC4の評判は鰻登りだった。あたしと真治は警察庁長官賞の個人賞を受けたし、いろんな所から依頼を受けるようになった。
それどころか、この件の功績で、異例中の異例のことだけど、四月からC4がセンターから課に昇格になった。コンピュータ犯罪対策総合センターから、コンピューター犯罪対策課になった。略称はC3sになった。本部の課って言うのはめちゃくちゃ権限があるんだ。
で、真治は警部に昇進することになって、C4を出て行くことになったわけ。
本部の後は所轄に行くのが決まりなんだ。
だから、真治が渋谷警察署の生安課の課長代理だってさ。笑っちゃうわ。
しかも二ヶ月で戻ってくるなんて、普通そんなことあり得ないよ。
「沙織、お前にも辞令が出てるぞ。俺よりも非常識な奴が、ね」
「え?」
あたしは予想外の反撃にびっくりした。
「ど、どんな辞令?」
「一色巡査部長」
真治は突然姿勢を正して厳しい口調で言った。
「本日付で、一色警部補として同じく技術支援班勤務を命ずる」
「え、ええ?」
あたしはびっくりしてちゃんと返事ができなかった。
だって、昇進後の配属って所轄になるんじゃないの?
――というより何で昇進してるの?
「実は、沙織の特進も決まってたんだ。だが、同時に二人の特捜官がいなくなるわけにはいかないんで、待ってもらってた。その間に、人事二課に掛け合って、特捜官の特進に関しては例の不文律をやめてもらったって訳だ。苦労したんだからな?」
真治の説明に、あたしは言葉が出なかった。
全く今日はびっくりすることだらけだ。
でも、今日はいい日だってことが、その後の真治の言葉でよく分かったよ。
「沙織、特捜官に階級なんかどうでもいいんだ。それよりも、お前は俺のパートナーなんだ。これからも一緒に頑張っていこうぜ?」
「う、うんっ!」
あたしはその言葉が何よりうれしかったんだ。あたしはもう一人じゃないんだ。
完
* * *
公式にはうたわれていないが、警視庁にコンピューター特別捜査官は二人存在している。
一人は、ホワイトハッカーとして実績十分で沈着冷静で多数のクラッカーを補足、逮捕してきた。
そして、最近採用されたもう一人は、技術力もさることながら、その美貌で多数のサイバー犯罪を解決してきた――と言われている。
「九条真治のことは良く知っているが、この一色という特捜官は、色物感が半端ないな。美貌で解決って、どこの誰がそんなうわさを流しているんだ?」
調べてみたが、かなり専門的なサイトで探しても、この美貌に関しては必ず一緒に語られていることが分かった。
「一度は会ってみたいものだ。その美貌の特捜官とやらに――」
伝説のハッカーと言われるその男は、不敵な表情でつぶやいた。
「――できれば同じサーバーで」
コンピューター特捜官 一色沙織 亜本都広 @slimes2002
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