孤高の特別捜査官

 あたしは真っ青になる。

 すぐに真治も気付いて男を睨んでいた。

 だけど、すぐに何もなかったように七尾に向き直る。男のことを無視して。

 ――何で?

 真治が無防備に男に背中をさらしている理由がわからない。

 七尾を見ると、うずくまって銃を落としていた。

 さっきシグ・ザウエルで撃たれたらしい。

 ――どうして、この男が七尾を撃つの? 何が起きているの?

 ほぼその瞬間、背後のドアが開く音が聞こえた。

 あたしが振り返ると、今度は加奈子が仲間を二人ほど引き連れてサーバ室に飛び込んできた。

 加奈子は、そのままシグ・ザウエルを手で払うと、男を後ろ手に押さえ込んでいた。

「真治っ! いま皆が――」

 真治の方を向いた。真治はにっこり笑っている。良かった。

 これで全部が終わった。そう思った。

 七尾を見た。背を向けて肩を振るわせている。観念したんだろう。

 逃げだそうとしていない。ただ、なにか変な気がする。

 その時、不意に気付いた。あたしのスマートフォンが鳴っていた。今までに聞いたことのない着信音だ。そんな設定をした覚えはない。

 誰からだろう。

 真治を見て肩を竦めてから、スマホを手に取った。

 なぜか真治の顔がこわばっている。

 あたしがスマホを耳に当てようとした瞬間のこと。

 真治があたしに駆けた。

「バカ野郎っ!」

 そして、真治があたしの側に手を伸ばして、スマートフォンを払った。

 スマホが壁際に何度かぶつかって、真治の足下に転がっていく。真治はそれを凝視すると、あたしを右手で乱暴にドアの方に押した。真治はそのスマホを足で壁際に蹴るのが見える。

 そして、あたしを振り返って叫んだ。

「逃げろっ」

 ――なんなの? あたしのスマホをどうするのよ?

 あたしは不満に思いながらも、言われたとおり数歩ドアに進んだ。

 数瞬後、鈍い音と共に、そのスマートフォンが爆発した。

「ええっ?」

 ――なんで? 何で爆発するの? あたしのスマホでしょ?

 混乱で頭がうまく動かない。

 ――まさか、昨日飲んだ時、七尾にバックの中のスマホをすり替えられた? 証拠隠滅のため? 最後の抵抗で七尾が指示を出した?

 あたしが混乱する中、真治がどさっとへたり込んでいた。

 真治が膝をついている。なんで?

 あたしは真治の側に駆け寄った。ほんの数メートルなのに、なぜだか長い時間が掛かったような感じがする。

 その時あたしが見る世界には、あたしと真治の二人だけしかいなかった。

 真治がこっちを振り向いた。血塗れだった。

 あたしは声にならない悲鳴を上げる。真治のお腹の辺りから血が溢れるように出ていくのが見えた。

 爆発の破片が真治を襲ったんだろう。

「まずいなあ」

 真治は気楽な調子で言っていた。

「あの着信音。俺は覚えていたんだ。あの時のことは絶対に忘れない。着信してから、耳に当てるまで五秒。そして爆発さ。沙織は大丈夫か?」

 あたしは真治を見て、涙があふれる。

 それなのに、真治はあたしに微笑んでみせた。

「真治! 真治! 何で血だらけなの? なんで! どうしてよ!」

 そして、あたしは真治の出血場所に気が付いて言葉を失う。

 腹部のもっとも危険な場所。

 ――そんな!

 真治はあたしを手で向こうに押しやろうとした。

 あたしが血だらけになることはないと思ったらしい。

 だけどその力はまるで赤子のようで、あたしを一ミリも動かすことが出来なかった。

 あたしは悲しくて、真治の頭を抱きしめた。

 真治の血液が服に染みていくのが分かったけど、あたしはぜんぜん気にならなかった。

 加奈子は、慌てて担架を探しに出て行く。

 そして他の警察官は男と、ぐったりした七尾を連れ出していった。

 部屋に二人だけが残される。

 そして、真治はすまなそうに言ってきた。

「悪いな、沙織まで血だらけにしちゃって?」

「な、何いってんのよっ! 真治、大丈夫?」

「なあ、沙織」

 真治はあたしの問いには答えずに、目を閉じて小声で続けた。

「俺はずっとC4で一人だったんだ。分かるか?」

 真治はずっと一人で戦っていた。

 仲間は誰一人、真治と対等の位置に立てなかった。真治は全てを背負っていた。ただ一人で。

 たった一人の特別捜査官。そして帰った家にも誰もいない。

 真治は一人だったんだ。あたしの瞳から涙があふれる。

「うん。わかるよ」

「それが沙織がきて、やっとパートナーができたと思ったんだ。うれしかったんだぜ? だからお前を守りたかったんだ」

「真治――」

 あたしはこぼれ出る涙が止められなかった。涙がぽたぽたと真治の顔に落ちていく。

「だけど、あたし――真治の妹じゃないよ?」

 あたしの言葉に真治がかすかに言う。

「分かってる。沙織は俺の大切な仲間でパートナーだ……」

「うそ――だって、警察手帳に妹の美香さんの写真があったもん。妹とあたしを重ねてたんでしょ? だから、手帳の写真をあたしから隠したんだよね?」

 あたしの言葉に、真治は薄く目を開いて微笑んだ。儚げな笑みだった。こんな笑いをする真治をあたしは初めて見た。

「奥の写真を見てみろ。俺が隠そうとしていたのはそれだよ」

 ――奥の写真?

 あたしは、真治が苦労して警察手帳を取り出すのを助けた。

 手帳にあった写真。それは妹の九条美香の写真。そして、その奥に、あたしの写真が隠れていた。あたしが制服で笑っている写真。

 ――どこでこんな写真を撮ったんだろう?

 そうだ。

 あたしが警察学校を卒業するとき、一人っきりのクラスだと寂しいだろうって、真治が来てくれたことがあった。あのときだ。

 ――今分かった。真治はいつもあたしを見てくれてた。あたしを守ってたんだよね。

 あたしはそれが妹に対するものと同じだと思っていた。

 だけど、違う。真治は大切な場面であたしに言っていた。

『沙織を呼んでよかった』

『沙織、頼りにしてるよ』

『お前は一人でやれるはずだ。大丈夫』

 そしてあたしを信じて任せてくれた。

 その目線が妹であるはずがない。それは信頼する仲間だからだ。

 あたしは今まで、何で気付かなかったんだろう。あたしはバカだ。

 あたしは想いで胸が詰まるのがわかった。

 だけどあたしは何とか声を出した。

「あ、あたしの写真? やっぱりあたしの写真もってたんだ……。真治ったら、バカみたい」

「俺が認めた仲間の写真くらい持ってたっていいだろ?」

「今度は特捜官二人の写真にしなさいよ――」

「ああ――」

 真治がそういいかけたとき、あたしは一つだけお願いをした。

 加奈子たちはさっき担架を持ってくるって言って出て行った。

 二人っきりだ。今じゃなきゃ出来ないこと。

「あたしが妹じゃないって言うなら、真治に一つだけして欲しいことがあるの――」

 あたしはそう言って、真治の側に唇を寄せて、目を閉じた。真治はあたしの望みをちゃんと分かってくれた。真治はそっとあたしに口付けをしてくれたんだ。

 あたしの大切なファーストキス。

 それは鉄の味のする、血まみれのキスだった。

 涙があふれる。

 そして、永遠に続けばいいと思ったその時間を途切れさせたのは、真治だった。

 真治はかすかにしか聞こえないほど小さく言った。

「沙織は一人でもやれるよな? 俺が、いなくなっても……」

「な、何いってるの! 嫌だからね。あたし一人なんて絶対嫌だからねっ!」

 あたしの叫び声は真治に届かない。真治はつぶやくように言った。

「もう大丈夫だ。一人でも……」

 その言葉は、あたしに向けたものだろうか。

 あたしには、それが家族を失った真治が、自分に向けた言葉にも聞こえる。

 それは決別の言葉だ。

 涙があふれて止まらない。

 やがて加奈子達が担架を持って戻ってくる。

 あたしは真治が担架で運ばれていく間、何度も名前を呼んだ。

 だけど、その言葉はもう真治には届いていなかったんだ。


 そして、それから二週間経った。

 あたしは一人になった。真治は酷い。

 ――ここに真治はもういない。

 あたしは警視庁C4にいる唯一のコンピュータ特別捜査官になったんだ。

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