微笑みを数える日

いいの すけこ

人形の家

 お嬢様はいつも笑っている。


 楽しい場面でなくても、おかしなことがなくても。

 いつも微笑んで、なにものにも淡い笑みを向ける。

 ご家族にも、庭に遊びに来る鳥にも、季節の花にも。

 私のような使用人にも。

 口数は少ないけれど、いつも静かに笑みを湛えている姿は、見ている者の心が凪ぐようで、またどこか儚げでもあった。

 いつ、いかなるときもそのようなご様子だったから、思わずにはいられなかった。


 お嬢様は、笑っていない時があるのだろうか。


 お嬢様に常にくっついて回っているわけではないし、まして私は男だから、ご婦人ならではの身の回りのお世話は役目ではない。

 私のいないところででも、おひとりの時にでも、いくらでも表情を崩されるかもしれない。

 怒っているお姿はあまり想像できない。だけど困った顔や、驚いた表情を見せることくらいはあるかもしれない。

 悲しみに顔を曇らせることだって。


 お嬢様の笑っていない顔の数を数えたい。

 

 私はそんな奇妙な夢想をするのだった。



「誰か、誰か来て」

 お嬢様の寝室から人を呼ぶが聞こえて、私は足早に部屋へ向かった。長い廊下のある、立派な屋敷。

「どうかされましたか、お嬢様」

 寝室にたどり着く。畳に絨毯を敷き、洋家具を備えた部屋はいつ見ても落ち着かない。

「ああ、あなたが来てくれたの。助かったわ」 

 私はお嬢様と歳が近かった。だからお嬢様にとっては気安い相手のようで、使用人の中では一番近しい存在かもしれない。それでも微笑み以外のお顔を見たことがないが。

「ねえ、見て」

 お嬢様の差し出した白い手の中に、ふわふわとした塊があった。

「鳥ですか」

「ええ。窓を開けておいていたら、お部屋に入ってきてしまって。慌てて逃げようとしていたけど、閉めていた片側の窓に勢い良くぶつかってしまったの」

 渋い緑の毛をした鳥は、動かぬままお嬢様の手の中に納まっていた。

「死んでしまったかしら」

「いや、いっとき頭をやられているだけかもしれません。しばらくすれば、目を覚まして飛んでいくかもしれないから、窓枠にでも寝かせておいてやりましょう」

「元気になればいいけれど。可哀想に」

 そう言ってお嬢様は窓辺へと寄った。


(――あ)

 豊かな黒髪の流れる、お嬢様の背を見ながら私は瞬いた。

(顔、見ておけばよかった)

 鳥に気を取られて、お嬢様の顔をうかがっていなかった。鳥を憐れむお嬢様は、どんな顔をしていただろう。笑っていたのか、それとも。

「飛んでいけるといいわね。鳥は、空を飛んでいるのが一番だもの」

 振り向いたお嬢様は、いつものように美しく微笑んでいた。 


「お嬢様は、なぜいつも笑っているのです?」

 私の口から思わずついて出た言葉に、お嬢様は小さく首を傾けた。

「笑うことが私のつとめだからよ」

 お嬢様は困ったように笑う。

「笑うことが女のつとめ。だから笑っていなさいと、お父様とお母様はおっしゃったわ」

女子おなごの、ですか」

「少しでも麗しく見えるために。良縁を結ぶために。嫁ぐ先の夫に、家族に気に入られるために。苦労を顔に出さぬために」

 笑みながら、お嬢様は淡々と語る。

「女は子を産み、育て、奥向きを守るもの。そんなことは当たり前のこと。その上で、笑うのよ。きっと大変なのでしょう。けれど苦労を苦労と思わず笑うことが、女のつとめなのだと」

 いつもそうして笑っているの。

 そう、お嬢様は微笑んだ。


「だとしたら」

 私の口から漏れた声は湿った。

「お嬢様は、笑いたくないのに笑っていることが、あるのですか」

 お嬢様の笑っていない顔の数を数えたい。

 私の愚かな夢想。

「さあ、どうかしら」

 どこか儚いお嬢様の笑み。

「ずっと笑っているから、もう顔なんて固まってしまったわ」

 ああ。

 私はこの人の笑っていない顔を、きっともう何度も見ていたのだ。 


「あら」

 不意に、お嬢様が声を高めた。

 窓辺に寝かせた鳥が、目を覚まして飛び立っていくところだった。

「良かったわ」

 こちらのことなど一切気に掛けることもなく、鳥は飛び立っていく。お嬢様は四角い窓枠に手をかけて、鳥を見送った。

「良いわね、鳥は」

 お嬢様は四角く切り取られた空を見つめる。

「うらやましい」

 

 そう言うお嬢様の横顔が、どこか寂し気な笑顔だったから。

 私は思わず、その頬に触れていた。

 突然の私の無礼にも、お嬢様の口元は笑みを作ったまま固まっていたけれど。

「暖かいわね、あなたの手は」

 この柔らかな頬が、固まったままだなんてこと、あるものか。

「鳥を助けてくれて、ありがとう」

 お嬢様は優しく微笑む。

 いつものように。

(だけど)

 今は、笑いたくて笑っていると、その時は確かにそう感じた。

 

 いつも微笑んでいるお嬢様は、いつも笑っているわけではないのだろう。

 だから。

 私はお嬢様の笑っている顔の数を、数えたい。

 

  

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