スケッチ:Vain,pain,rain.
柳なつき
ゆきどまり、あるいはすべてのはじまり
それさえも愛情なんだよねと微笑む君の顔が頭から離れない。あんなに痣だらけで。あんなに傷だらけで。私がつくった沢山の傷跡。
君と暮らし始めてからそろそろ一年がたつ。よく覚えている、君が殺風景な私のアパートに引っ越してきたのはざあざあの雨で桜が流されている日。
空が泣いてるね、私は呟いた。桜が散って、切ないね、と。でも君はこう言ったんだ。よかったね、桜が洗われていくよ。私の美意識なんて価値観なんて、どれほど陳腐なものだろう。君は何も考えていないふりをして、ふとそういうことを言う。いつもインテリぶっている私は、だから不意をつかれてしまうんだ。
君はいつだって楽しそうだ。大学に出かけるとき、外食をするとき、家で寛いでいるとき、いつも穏やかににこにことしている。私は君に日々の溢れ出す愚痴を言わなければやっていけないけれど、君はきっと、大丈夫なんだ。基本的にはね、私は私しか信じてないよ。君はいつだったか、スパゲッティを食べながら屈託なく言った。午後七時四十七分で、二人で選んだ茶色いダイニングテーブル、二人で選んだ赤い薔薇の食器が、写真のように静止画のように私の脳裏に焼きついている。私は少し間を置いてから、君の食べかけの皿を引っつかんで、床に叩き付けた。君が丁寧に心を込めて作ったナポリタンスパゲッティは、フローリングの上で惨めに汚れた。でも君は表情ひとつ変えずに文句ひとつ言わずに、しゃがみこんでスパゲッティを掃除し始めた。立ち上がったままの私からは君の背中しか見えなくて、君が驚いた表情をしないのが不満で、だから私は、君にスープの入った食器をぶつけた。ポタージュスープが、君のブルーのパジャマに染み込んでいく。きれいな青が、鈍い青に変わる。その様はなんだかとても心地よくて、私は次々と君に食器をぶつけていった。サラダボウル。コップ。フォーク。君は滅茶苦茶に汚れた。お風呂だって入りなおさなきゃいけないだろう。それでも君はスパゲッティを片付け続けた。そのとき一言だけ、君は言った。
いつかこうなることは、わかっていたから。
君と私とは中学二年生のときに知り合った。君は可愛い子だった。野暮な紺色の制服を着ていても、その可愛さは損なわれていなかった。君自身がその可愛さを自覚していないところがまた、よかった。君は人気者だった。いつだって輪の中心で笑っていた。私は教室の隅っこから、いつだって君を見ていた。君はそのことを知っているだろうか。君は生徒会をやっていた。君はテニス部の部長をやっていた。あのときの私には、君がすべてを持っているように思えた。輝かしくて、妬ましかった。君と私とは中学三年生のときに仲良くなった。君はもしかしたらあの煌びやかな世界に飽きていたのかもしれない。君は生徒会を引退した。部長を引退した。代わりに勉強を頑張った。私は君に勉強を教えてあげた。それはずいぶんと優越感が満たされる行為だった。
中学生活最後の文化祭が終わった二日後も、私たちは一緒に勉強をしていた。放課後の教室で、私は勝手な人生観を勝手に語り、いつもの如く人生に文句をつけた。そっか、と応える君は相変わらず微笑んでいて優しくて、だから私は苛つくのだった。
ねえ、なんか悩みとか無いの。私は興味の無いふりをして疑問を投げる。
特には。君の応えは簡潔だった。
嘘。生きているんだから、無いわけないでしょ。詰問めいた口調で私は問う。
君は少しだけ考えてから、ぽつりと言った。普段と全く変わらない口調で。
そういえば、あるかも。……生きていること、が強いて言えば、悩みかな。
君はどうしてそういうことを、もっともっと、色々、詳しく、私に話してくれなかったのだろう?
そういえばあの日も雨が振っていた。あの日も君は思っていたのだろうか、良かったね、世界が洗い流されて、なんて。
君と私の交流は高校生になっても続いた。君はやっぱり楽しそうに過ごしていて、自分の可愛さを自覚せず、自分の人望を自覚せず過ごしていた。私は時たまそんな君を苛めた。でも君はやっぱり、表情ひとつ変えないのだった。
大学にあがるとき一緒に住むことを誘ったのは私だった。君は三日間考えて、いいよ、と私に返事をよこした。
私の目的はただ一つ。君が苦しむ様を見たい。
君の涙は、怒りは、いったいどこへ。
見たい。中学生のときから完璧を装って生きてきた、君の本性を。
もう君の体は外に出られないほどにボロボロになっている。外になんか出さない。君がまたあの当たり障りのない笑みを浮かべるかと思うと、そんなことできるわけない。
今日、ホームセンターに行ってきた。これからは君を、本格的に外に出られないようにするつもりだ。全ての表情を私に見せろ。
君がいつか発狂したら、そのとき私は、初めて君に優しくしてあげる。
そして今日も、雨が降っている。君との思い出はいつだって雨だ。髪を雨に晒す。見上げれば、そこには曇天。ああ、やっぱり私には、空が泣いているようにしか見えないんだ、この雨は、君にはどう見えているのか。
雨が槍になっていっそ私を突き刺してしまえばいいのに。そうすれば君はもう苦しまない。その笑顔の奥底を、一生自分だけのものにしておけるんだ。
でも、私がここに存在する以上は。
ビニール袋が、じゃらじゃら、と音をたてた。束縛の音。
こんな不毛な愛情。こんな歪んだ愛情。
君の感情はもしかして、雨に流されてしまうのだろうか、などと考えながら、私は君のもとへ歩く。
スケッチ:Vain,pain,rain. 柳なつき @natsuki0710
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