第3話 アンシャンテ

『どうかした?』


 尋ねられて僕はフローに答えた。どうやらいつの間にか入国審査を通過していたようだ。


『あ、うん。友達が空港まで迎えにきてくれたらしくて……フローのことを話したら車で天王寺まで送ってくれるってさ』


『本当かい? それはありがたいね。じゃあお言葉に甘えようかな。さっきは案内してって頼んだけど、送ってもらえるだけで十分だよ』とフローは言った。


『そうか? 別に気を遣わなくてもいいよ』と僕は言う。


『うん。でも今日は結構雨が降ってるみたいだし、おとなしくたこ焼きでも食べてのんびりするよ』と彼は親指と人差し指で輪っかを作りながら微笑んだ。


『わかった、確かに雨だし仕方ないよね……よし、結構待たせちゃったみたいだから早く行こう』そう言って僕たちは出口のある四階を目指した。


 僕の黒のスーツケースとフローの赤のスーツケースが、ピカピカのタイル張りの床に反射していた。途中でフローが「トイレってどこ?」と言ったので自分もトイレに行きたかったのだと思い出す。フローがウォシュレットという存在に非常に驚いていた。確かに、海外には十回以上訪れているがウォシュレットを見たことはなかった。


 トイレに行った後百均に寄って蜂蜜のど飴を購入する。陽菜が好きな飴なので待たせた詫びの品になればいい。以前にも同じようなことをした時「そんなことするくらいなら早く来て」と叱られたが、その後嬉しそうに飴を舐めているのを見てやはりこの手段は有効かもしれないと思ったのだ。

Dと書かれた自動ドアを通り抜けてすぐに彼女の車は見つかった。


『あれだ』『OK』その短いやり取りで、長かった彼の話は一旦途切れた。僕も何度も運転したことのある黄緑色の軽自動車だ。ワイパーは作動しておらず、無数の雨粒がフロントガラスを濡らしている。僕とフローは雨に打たれながら近づいていった。車内では陽菜が本を読んでいて、僕たちが近づいたことには気がついていない様子だ。


 そのまま本を読ませてあげたい気持ちもあったが、これ以上濡れて風邪をひくのも嫌なので、トントンと窓ガラスを叩いた。彼女はこちらを向き少しだけ窓を開けると、「開いてる」とだけ言ってまた窓を閉めた。


『後ろに乗せよう』とフローに話しかけ、彼は『わかった』と言って肯いた。

まず後部座席のドアを開け、右側のシートを前に倒す。小さな車なのでトランクに二つもスーツケースは置くことができないからだ。それからバックドアを開け、倒したシートの上にフローの赤いスーツケースを乗せる。そして僕の黒いスーツケースを横向きにしてトランクに置き、バックドアを閉めた。僕が助手席に乗ると同時にフローも後部座席に座った。


「ごめん、待たせて。すっかり忘れちゃってて……」と僕は濡れた額をハンカチで拭きながら言った。


「別にいいけどさ、もう水無人を待つのも慣れてきちゃった」と彼女は半ば呆れ顔で言った。


「これ、陽菜が好きな飴ちゃん買ってきたから。他にもお土産あるから帰ったら渡すね。後、彼が話してたフランス人。フローっていうらしい」


「またこんなの買って……買うくらいなら早く来てって言ってるのに。でも、ありがと」


 そう言って彼女は微笑みながら飴の袋の封を開け、口に放り込んだ。そしてそのままエンジンをかけ、ハンドブレーキを戻し、車を走らせ始める。


「えーっと、フローだっけ。ボンジュールって言ったらいいの?」と、陽菜は前を向いたまま、恐る恐る後部座席に座るフランス人の男に話しかけた。いつの間にかワイパーが作動していて、窓に張り付いていた雨粒は横へと押し流されていく。


『こんにちは、フローリアンと言います。初めまして、ミナトの友達らしいね。イナと呼ばせてもらうね』


 拙い「ボンジュール」が聞こえたからか、フローは陽奈に話しかけた。もちろん陽菜はフランス語を理解できるはずもなく(彼女は英語すらままならない)ちらりとこちらを向いて「なんて?」と小声で訊ねてきた。僕はそれに対し、フローの言ったことをそのまま日本語に訳し、「アンシャンテって言えばいいよ」と付け加える。


「あ、あんしゃんて?」と彼女が言い、フローはニコリと微笑んだ。そして今まで黙っていた彼が、先ほどのようによく話す彼へと逆戻りしたみたいに、車の中でも話し始めた。先ほどとはまた違う話も多く、どちらかというと彼が話すというよりも彼が僕たちから話を引き出してくれるような、そんな感覚なのだ。


 彼は約一週間日本に滞在する予定らしく、大阪を起点として色々な場所に行きたがっていた。京都や奈良の日本らしい風景を見たがっていたし、少し遠いが東京の秋葉原にも行ってアニメや漫画の世界に浸りたいとも言っていた。僕個人としては同行してあげたい気持ちは山々だったが、せっかく買い付けて来たモロッコの可愛い雑貨を早く店に並べてあげたい気持ちの方が上回る。


 そのことを告げると彼は『そこまでしてくれなくても大丈夫さ、ミナトにも仕事があるんだろう? そう言えばさっきの話、途中で途切れてしまったけれど、今はどんな仕事をしているんだい?』と新たな話題を振ってきた。

「フロー、なんて言ったの?」僕を経由してフローと話したがっている陽菜がそう訊ねる。


「ああ、今僕は何の仕事をしているのかって」


「なるほど。えーっとね、水無人はね、カフェを経営してるの。それでね、時々私も手伝ってるんだよ」


 日本語はフローに伝わらないとわかっていながら、陽菜はまるで自分の自慢をするかのように話した。僕はそれをフランス語に通訳してフローに伝える。自分のことを誰かが話して、それを自分で訳すというのは何だか可笑しく感じた。


『カフェを? それでパティシエと言うのは少し違うと言っていたのか。よくわかったよ。よかったら僕が日本にいる間に行ってもいいかな?』


『もちろん、歓迎するよ。明日はまだ休みで明後日から店を開ける予定だから、ぜひ来て欲しい。コーヒーは割と評判良いんだ』


『ああ、ぜひ行かせてもらう。場所はどの辺りなんだい、って聞いても日本の土地勘なんて全くないんだけどね』と笑いながら彼は言った。そのことも陽菜にわかるように日本語で言い直す。


 まるで人と人、国と国との架け橋のような存在になったかのようで、少し嬉しく感じた。


 そして僕は彼のSNSのアカウントを聞き、そこでやり取りしようという話になった。もうずっとフランス語を書くということはしていなかったから、メッセージを送る時は正しい単語や動詞の活用を辞書で調べなくちゃいけない。少し大変かもしれないと思ったけど、久々にちゃんと勉強してみるのも悪くない。


「じゃあ明後日は私、手伝いに行くね。土曜日だし、お客さんもいっぱい来てくれるといいなぁ。あとね、水無人は休みの日とかは小説を書いてるんだよ」と陽菜はまた自分の事のように話す。


『イナは何て言ったんだい?』とフローは訊ねてきた。フランスではHの音を発音しないので、ヒナという名前をイナと発音してしまうようだ。


『明後日は陽菜が店を手伝いに来てくれるってさ。あと、自分で言うのは少し恥ずかしいんだけどね……実は小説を書いているんだ』


『本当かい! どんな小説なんだい?』と後ろから早口のフランス語が聞こえてくる。


「あ、今の何となくわかる。どんなの書いてるか聞かれたんでしょ」と隣に座る陽菜が驚くべき勘の良さを発揮した。ちょうど高速道路を抜けるところで、料金所通過のために車のスピードが少し遅くなっていた。


「そうだけど、よくわかったな。てか何で小説書いてるって言っちゃうんだよ……恥ずかしいじゃないか」


「良いじゃん別に。ていうか言いたくないなら通訳しなかったらよかったじゃん」


「それはダメだ、なんか自分でもよく分からないけど、彼が理解できないからって嘘はつきたくないんだ」と言うと同時に車がバーをくぐり抜け、彼女は「ふうん」と言ってまたアクセルを踏んだ。


『どうかしたのか?』と僕たちのやり取りを聞いていたフローが少しだけ前に顔を覗かせる。


『いやいや、何でもないよ。僕が書いてるのはライトノベルなんだ。別に飛ぶほど売れてるわけでもないし、逆に全く売れてないというわけでもない。これも自分で言うのは恥ずかしいけど、新人の中ではそこそこの部類に入ると思うよ』と僕は答えた。


『そうなんだね! じゃあこの後たこ焼きを食べに行くついでに、ミナトの本を買いに行ってみようかな。読めないけど、良い記念になるだろうし。もしミナトの小説がアニメにでもなったら僕みんなに自慢するよ。これを書いた人と友達なんだぜ、ってさ』とフローは嬉しそうにそう言った。ほんの数時間前まで話したこともなかったフランス人の青年と知り合って、笑い合う。こんな楽しい時間を過ごすことができるのは、あの時婆さんの荷物を取ってあげていた青年の優しさのおかげだと心から思った。


「どしたの、急になんか考える風な顔しちゃって」と陽菜は一瞬目だけをこちらに向けて言った。


「考える風じゃなくて考えてたんだよ」と僕は前を向いたまま答える。


「ま、何でもいいけど、飴ちゃん取って」と陽菜が言ったので彼女のカバンに入っている飴を取り、渡そうとした。


「開けてよ」と陽菜が言う。


「ああ、そうだな」と僕は肯く。


「どうする? 口に入れてあげようか」と冗談半分で聞くと、陽菜は「うん、お願い」と答えた。家ならまだしも、第三者がいる車の中で……と僕は少し驚いたが親指と人差し指で飴を挟み、彼女の口元に近づけると彼女は上手く指を避けて飴だけ口の中に入れた。


「ありがと」と陽菜は短く礼を言い、口の中で飴を転がし始める。

その様子を見ていたからか、フローが『ミナトとイナは恋人なのかい?』と訊ねてきた。それに対して、僕は答えた。


『まあ、そんなところかな……僕たちはもう十五年の付き合いになるんだ。高校生の時は別々の学校で少し距離もあったんだけど、卒業するとまた昔みたいに仲良くなって、それで何となくって感じかな。あんまり上手く言えないけど、親友っていうのが一番近い表現かもしれないね』


『いいね、そういう関係。僕にも昔から仲のいい友達はいるけど十五年も続いてはいないよ。羨ましいなぁ』


『その分喧嘩も多いけどね。同じ家に住んでるし……。でもやっぱり心を許せる人と一緒に住むっていうのはいいものだよ。何かあったら相談できるし、お互い困ってる時に助け合えるしね』と陽菜には言えないような恥ずかしい自分の気持ちをフローに話した。


 フランス語だから彼女は何を話してるかわからないはずだ。その僕の言葉にフローは『やっぱり羨ましいな』と言い、スマートフォンで天王寺の近くのたこ焼き屋の場所を探していた。


 今日だって一時間近く待たせてしまっていたのに彼女は待っていてくれた。今日だけじゃない。僕はいつも待ち合わせの時間や場所を忘れてしまうことが多くて、いつも陽菜を待たせたり迷惑をかけたりする。そんな時でも「仕方ないなぁ」と笑って支えてくれる彼女には本当に感謝している。もちろん甘えてばかりじゃダメなのはわかっているので少しずつ改善しているつもりだ。本当にできているのかはわからないが。


「今私のこと褒めてたでしょ?」


少し頬を赤くした陽菜がこちらを向いて大きな目を輝かせる。それと同時に赤信号で車が停止した。まだ雨は強く降っており、斜め前の車のテールランプが濡れた地面に反射している。


「そんなことないさ、普通の話をしていただけ」と僕は聞き流した。彼女は少し間を置いてまた「ふうん」と言い、先ほどよりも少しだけ嬉しそうな顔をして車を発車させた。相変わらず勘のいいやつだ、と思いながら車内に流れるFMラジオに耳を傾けた。


 ざあざあという雨の音とラジオから流れてくる邦ロックのリズムが合わずに少し顔を歪めてしまいそうなる。それに加えて道路を走る多くの車のタイヤが水を跳ねる音や、遠くの方で鳴っている踏切の音色が合わさって耳に入ってくる。しかし、今日だけはその日常の不協和音を受け入れてみようと思った。


 いたるところに「住吉大社」という文字とともに矢印が描かれた看板が存在している。それを見た陽菜が今年は大きい神社に初詣行きたいね」と誰に言うでも無く呟いた。長居公園通りを左に曲がり、あべの筋に入る。ここまできたらもうすぐだ。


 カーナビが残り十一分と言う表示をしている。僕は『あと十分くらいで着くと思うよ』と未だにスマートフォンと睨めっこしているフローに言った。


『ありがとう。あ、もしかしてあれが有名なあべのハルカス? あれ、エッフェル塔と同じ高さらしいね!』とフローが少し興奮気味に話す。それを聞いて僕は、エッフェル塔とあべのハルカスが同じ高さだと言うことを初めて知った。


『え、そうなの? 同じ高さなんだ……大阪に住んでるのに知らなかったよ』


『僕だって今回大阪に来るのに調べて初めて知ったんだ、仕方ないさ』とフローは微笑んだ。


「彼、あべのハルカスがなんて?」と陽菜が訊ねた。


「ああ、あべのハルカスは聞き取れたんだね。実はエッフェル塔とあべのハルカスって同じ高さらしいよ。細かい端数までは一緒じゃないみたいだけど、どちらも約三百メートルと言ったところらしい」とフローの話を聞きながらスマートフォンで両方の高さを調べていた僕が伝える。


「そうなんだ、それって素敵だと思わない? 何年前にできたかは知らないけど、古い鉄骨の塔と新ピカのガラス張りのビルが同じ高さなんて。残念なのは大阪はパリほど絵になる場所がないってことだね」と、彼女は左頬に飴を押し込んでそう言った。


「そうだね、素敵だ」と僕は小さく呟いた。

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